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第十七段 兄弟

2008年09月01日 | その他諸々
私には父親をふくめて4人の男がいましたが最近やっとそれから解放されたような気がします。父は亡くなり長兄は7年前ぐらいにやはり胃がんで亡くなりました。小さいとき長兄は次兄とよく喧嘩をしていたらしいです。父親は次兄を贔屓目にし事実父が亡くなる前に聞いたことがありました、光男をよくかばってやったと言っていたことを。しかし仲がよいときも結構あり兄弟喧嘩はすぐに仲がもどるようなところもありました。
兄弟は他人の始まりというが本当でしょうね。喧嘩をするのはまだ仲がよいのかも、私と三兄は大きくなってからほとんど喧嘩らしいことはしていなかったです。だから仲がよかったかとういとその逆でした。小さいときはそらよくした覚えがあります。布団の中で小さいほうは損やと泣きながら寝たことを覚えています。父親は小さいほうの自分をかばってくれたかというとそのような覚えはないです。無関心でした、三兄はヒガンで護をよくかばったと言っていたことがありますがこれは絶対にまちがいです。
兄弟喧嘩について考えてみましょうか。
古くからは古事記の中の海彦、山彦の話も兄弟喧嘩の話で義経と頼朝、最近では若貴兄弟、東急の名前はわすれたがそれと、西武の堤兄弟、京都の君島兄弟とだいたい仲が悪いのではないでしょうか。毛利元就も三人の仲が悪いので三矢の教えを残したらしいです。喧嘩することによりお互い切磋琢磨して成長する利点もあります、近隣の国どうし、近所どうし仲が結構悪いものです。
喧嘩になるのはお互いに賢くないかまたは一方が賢くないかでどちらも賢かったら喧嘩にはならないのでは。または一方が我慢をしているかです。
長兄とは何度もむかつくことがあったがまがりなりにも世話になったのでなるべく逆らわないでやってきました。
次兄と三兄は先に生まれた言うだけ兄貴ずらしていばりちらされたです。いちいち書くといくらでも書くことがあります。だからいまは義絶状態です。親が子供を見離すことは勘当ですが兄弟のあいだでは義絶です。三兄とは母親が元気なうちはなんとかあわせてきましたが母の死後はつきあいはありません。おかしな兄弟です。長兄が癌の末期のとき見舞いにいってやればと言ってもなんでお前にいわれないかんのやという態度でした。そのくせ旅行のときは行くところをいわないとわからんやないかと電話をしてくる。次兄とはいろいろとありましたが次回にでも書いてみましょう。小さいとき餓鬼大将から助けてくれるから兄ちゃんと慕うがなんの世話にもなっていないのにいつまでも兄貴ずらされるといいかげんにせんかいという気持ちになるのは当然のことです。父親が亡くなったあとお前が長男やから祀りごともお前がするようにと長兄にいわれ旅行や法事の世話などしてきたが肝心なことはなんで弟のいうことを聞かないといかんのやという態度でした。横浜の叔母どうしも最後はなぜか付き合いがなかったらしいです。だからおばあさんは鈴木のほうでなく野村のほうで亡くなっております。父親がなぜ仲違いしたのと大阪にやってきた喜美さんに聞くとお互い意地っ張りだからと言っていましたがやはり姉妹(きょうだい)喧嘩をしていたみたいです。仲のよい兄弟のほうが世間には多いでしょうし
そんなところほど何事もうまくいっているのはないでしょうか。