長兄はどういったら良いのかなにか常識がなかったです。
加古川の山の中とか兄弟の中では通用したがまともなところで実の兄ですと紹介をするのは気がひけたです。遠慮することがなくまず本当に世間体とか教養とか考えていなかったようでした。といって全然なかったかというとそうでもなかったのですが、そのようなものは考えたくないというようなものでした。だからいつ野生に帰るかもしれないというところがありました。いつでしたか箕面にやってきたときある店に食事にいったのですがそこの店主に嫌味を言う“酒が熱すぎると”からむ、側にいてやりきれないときがありました。そこの店長は我慢をして黙っていたが腹の中では怒り心頭だったに違いありません。(歯の治療でもこれに似たことがよくありますが)魚釣りが趣味でした、気が短い人に多いらしいですね。晩年癌になり運動をしたほうがよいといわれたのかゴルフを教えてといわれたが流石に嫌でした。
ゴルフに行きどうせキャディーにあたったり周りの者に迷惑をかけるのが目にみえていたからです。“あれは誰がつれて来たのや、なに澤田の実の兄さん”と
言われるにきまってましたから。弱い相手と思われる相手には本当に気が短かったです。
大学に入るとき世話になったがそれこそ恩を着せ倒されたです。顔を見るたびにしたった、したったと酒の肴にされたです。私も本当にお人好しで我慢をしていました。まわりもとくに親がもっとかばってくれてもよいはずなのにしらん顔でした。親は親で護を歯医者にしてやったと、だから親孝行をするのが当然やという態度で立つ瀬がなかったです。
長兄が親にお金を渡しそのお金で自分が親から歯科大にいれてもらったとするべきでした。そこのところをうやむやにしたばかりにさんざん長兄から恩をきせられ続けました。
お金(現金)を持ってきたとき長兄が言ったことを今でもよく覚えています。“このお金をもって競馬に行けば面白いのに”と、もしそのようにしておればまたたくまになくなっていたであろうに。長兄も競馬が好きでした。正月など親と一緒によく二人で淀競馬場や仁川の阪神競馬場、園田競馬場に行っていました。
思うのですがいつになっても父親は長男よりやはり腹の中では次男を大事に思っていたようです。これには訳があると思うのですがこのへんにしておきます。
だから長兄はお人よしと言うか賢くないと言うかそんなところがありました。
散々親の悪口を言っていたかと思うと一緒に競馬に行く。
持ってきたお金ですが必要なお金の全額でなく少しは親が工面せよというばかりのやり方でした。だから残りを母親は郵便局から親戚(佐野久さん)から借りたり工面をしてくれました。父はこんなに無一文なのに他人の保証人になるなんて頭がどないかしていたのではと思います。長兄は子供がなかったので
三兄が結婚するとき自分住まいの近くに住んでもらいたかったのか家を建ててやると。しかしこれも二階部分は自分で造作せよとばかりに二階部分は畳みも敷いてなかったです。実にやりかたがきたない!そのくせ家は俺が立ててやったと当然おもっていたようです。
戦争の話はあまりしなかったです、戦争で殴られたという話はよく聞きますがなぐったという話は聞いたことがないものですが彼は下士官か上等兵だったと思います。だから殴ったほうでだからあまり喋らなかったのでは。患者さんで戦争のときの話をしだすとまわりに誰もいなくなるまた同じ話と逃げ出すと言っていた方がおられたですが、甥っ子が戦争の話を聞くとその話しは止めとこうといったことがありました。しかし小さい時の記憶では出征するときに母親が買ってくれた時計を最後まで大事に腕につけて海に放り出されたとき疲れてきて仕方なく時計も身から放したというのを聞いたことがありました。
親は必要なもの以外は本当に買ってくれなかったです、小学校に入ったときもランドセルは長兄に買ってもらい(紙で出来ていた)高校に入ったときも時計を買ってくれたのは長兄でした。このように長兄にはお金の面では世話になっております。
神戸の寿司やではじめてトロを食べさせてもらったのも長兄でした。意地っ張りですが涙もろいところもあり悪い人間でないが常識も欠けていました。
加古川の山の中とか兄弟の中では通用したがまともなところで実の兄ですと紹介をするのは気がひけたです。遠慮することがなくまず本当に世間体とか教養とか考えていなかったようでした。といって全然なかったかというとそうでもなかったのですが、そのようなものは考えたくないというようなものでした。だからいつ野生に帰るかもしれないというところがありました。いつでしたか箕面にやってきたときある店に食事にいったのですがそこの店主に嫌味を言う“酒が熱すぎると”からむ、側にいてやりきれないときがありました。そこの店長は我慢をして黙っていたが腹の中では怒り心頭だったに違いありません。(歯の治療でもこれに似たことがよくありますが)魚釣りが趣味でした、気が短い人に多いらしいですね。晩年癌になり運動をしたほうがよいといわれたのかゴルフを教えてといわれたが流石に嫌でした。
ゴルフに行きどうせキャディーにあたったり周りの者に迷惑をかけるのが目にみえていたからです。“あれは誰がつれて来たのや、なに澤田の実の兄さん”と
言われるにきまってましたから。弱い相手と思われる相手には本当に気が短かったです。
大学に入るとき世話になったがそれこそ恩を着せ倒されたです。顔を見るたびにしたった、したったと酒の肴にされたです。私も本当にお人好しで我慢をしていました。まわりもとくに親がもっとかばってくれてもよいはずなのにしらん顔でした。親は親で護を歯医者にしてやったと、だから親孝行をするのが当然やという態度で立つ瀬がなかったです。
長兄が親にお金を渡しそのお金で自分が親から歯科大にいれてもらったとするべきでした。そこのところをうやむやにしたばかりにさんざん長兄から恩をきせられ続けました。
お金(現金)を持ってきたとき長兄が言ったことを今でもよく覚えています。“このお金をもって競馬に行けば面白いのに”と、もしそのようにしておればまたたくまになくなっていたであろうに。長兄も競馬が好きでした。正月など親と一緒によく二人で淀競馬場や仁川の阪神競馬場、園田競馬場に行っていました。
思うのですがいつになっても父親は長男よりやはり腹の中では次男を大事に思っていたようです。これには訳があると思うのですがこのへんにしておきます。
だから長兄はお人よしと言うか賢くないと言うかそんなところがありました。
散々親の悪口を言っていたかと思うと一緒に競馬に行く。
持ってきたお金ですが必要なお金の全額でなく少しは親が工面せよというばかりのやり方でした。だから残りを母親は郵便局から親戚(佐野久さん)から借りたり工面をしてくれました。父はこんなに無一文なのに他人の保証人になるなんて頭がどないかしていたのではと思います。長兄は子供がなかったので
三兄が結婚するとき自分住まいの近くに住んでもらいたかったのか家を建ててやると。しかしこれも二階部分は自分で造作せよとばかりに二階部分は畳みも敷いてなかったです。実にやりかたがきたない!そのくせ家は俺が立ててやったと当然おもっていたようです。
戦争の話はあまりしなかったです、戦争で殴られたという話はよく聞きますがなぐったという話は聞いたことがないものですが彼は下士官か上等兵だったと思います。だから殴ったほうでだからあまり喋らなかったのでは。患者さんで戦争のときの話をしだすとまわりに誰もいなくなるまた同じ話と逃げ出すと言っていた方がおられたですが、甥っ子が戦争の話を聞くとその話しは止めとこうといったことがありました。しかし小さい時の記憶では出征するときに母親が買ってくれた時計を最後まで大事に腕につけて海に放り出されたとき疲れてきて仕方なく時計も身から放したというのを聞いたことがありました。
親は必要なもの以外は本当に買ってくれなかったです、小学校に入ったときもランドセルは長兄に買ってもらい(紙で出来ていた)高校に入ったときも時計を買ってくれたのは長兄でした。このように長兄にはお金の面では世話になっております。
神戸の寿司やではじめてトロを食べさせてもらったのも長兄でした。意地っ張りですが涙もろいところもあり悪い人間でないが常識も欠けていました。