第二十一
段 志方町投松
ここはおばちゃんの嫁ぎ先であり長兄の養子さきの地名です。
ここへはじめて行った時のことを不思議によく覚えています、やはりそのときの感激がつよく残っていたかもしれません。
母親と二人で小学校に入る前ぐらいと思います、春の陽気なぽかぽかした天気の日でした。母親と一緒に宝殿の駅で降りて平津のバス停でバスを待っていると馬車を引いてきた知人の人に出会いその馬車に乗せてもらいのんびりとゆられて池などの景色をみて横山という地名のところで降ろしてもらい細い路地を抜けると新しい世界が広がりました。
壁にベンガラした色が塗られていたのを覚えています、金網も張られてあったです。今はその影形もないですが。
それから光っちゃん、伸ちゃん、きんちゃん、ひできちゃんらとよく遊びました。まえの花屋のせっちゃんという女の子と仲がよかったですがやはり男は男どうしで遊ぶようになりせっちゃんにすぐに帰ってくるといいうそをつき泣かしたということをいまだになぜか気になっています。その後毎年夏休みにながいこと遊びに志方には行きましたがせっちゃんとはそれ以来全然行き来なかったです。幼いときのまぼろしのような出来事です。
新池(しんけと呼んでいました)で泳げるようになり毎日泳ぎにいっていました、小川の水をせきとめて水をくみ出し魚とり(ここではじゃことり)せみやとんぼとりちょうせんなまず(ちょうせんといっていました)
ぱっちん(べったん)をしたり毎日がじつに楽しい日々でした。犬のタマは実に飼い主に忠実な犬でした。加古川まで自転車のあとをついてきたり人の言うことをよくわかり雑種ながら感心したものです。夏休みの一ヶ月があっというまに過ぎました。おばちゃんはよく気を使ってくれて本当にみんなによくしてくれたと他の兄弟もいっていました。
毎年夏休みは三兄と一緒にリュクサックを担いでいきました。その中に何をいれようかと思案をするのも楽しいかったです。考えてみると親にすれば口減らしのつもりだったと思います。しかし自分にすれば都会では味わうことが出来ない田舎の体験で海老江に帰ってからも友達に自慢ができました。次の夏休みも志方に行くと友達らが“もどってきたのか”と歓迎をしてくれました。この“もどってきたのか”というのが自分としてはいつも違和感がありました。
親からはハガキを出すように言われたがこれが結構苦痛で誤字脱字を指摘されそのくせ親からは一度も返事をもらったことがなかったです。
その当時は水道がなく井戸でした、これもめずらしくかったです。風呂を沸かすのに水を汲んで風呂場まで運びいれるのが仕事でした。志方までの行き帰りの汽車賃しかもらわなかったです、買い食いすることはなかったですがお盆などのとき年下の子がおごってくれたのですがそのお返しはいまだにしていないことが頭のどこかに気になっています。

ここはおばちゃんの嫁ぎ先であり長兄の養子さきの地名です。
ここへはじめて行った時のことを不思議によく覚えています、やはりそのときの感激がつよく残っていたかもしれません。
母親と二人で小学校に入る前ぐらいと思います、春の陽気なぽかぽかした天気の日でした。母親と一緒に宝殿の駅で降りて平津のバス停でバスを待っていると馬車を引いてきた知人の人に出会いその馬車に乗せてもらいのんびりとゆられて池などの景色をみて横山という地名のところで降ろしてもらい細い路地を抜けると新しい世界が広がりました。
壁にベンガラした色が塗られていたのを覚えています、金網も張られてあったです。今はその影形もないですが。
それから光っちゃん、伸ちゃん、きんちゃん、ひできちゃんらとよく遊びました。まえの花屋のせっちゃんという女の子と仲がよかったですがやはり男は男どうしで遊ぶようになりせっちゃんにすぐに帰ってくるといいうそをつき泣かしたということをいまだになぜか気になっています。その後毎年夏休みにながいこと遊びに志方には行きましたがせっちゃんとはそれ以来全然行き来なかったです。幼いときのまぼろしのような出来事です。
新池(しんけと呼んでいました)で泳げるようになり毎日泳ぎにいっていました、小川の水をせきとめて水をくみ出し魚とり(ここではじゃことり)せみやとんぼとりちょうせんなまず(ちょうせんといっていました)
ぱっちん(べったん)をしたり毎日がじつに楽しい日々でした。犬のタマは実に飼い主に忠実な犬でした。加古川まで自転車のあとをついてきたり人の言うことをよくわかり雑種ながら感心したものです。夏休みの一ヶ月があっというまに過ぎました。おばちゃんはよく気を使ってくれて本当にみんなによくしてくれたと他の兄弟もいっていました。
毎年夏休みは三兄と一緒にリュクサックを担いでいきました。その中に何をいれようかと思案をするのも楽しいかったです。考えてみると親にすれば口減らしのつもりだったと思います。しかし自分にすれば都会では味わうことが出来ない田舎の体験で海老江に帰ってからも友達に自慢ができました。次の夏休みも志方に行くと友達らが“もどってきたのか”と歓迎をしてくれました。この“もどってきたのか”というのが自分としてはいつも違和感がありました。
親からはハガキを出すように言われたがこれが結構苦痛で誤字脱字を指摘されそのくせ親からは一度も返事をもらったことがなかったです。
その当時は水道がなく井戸でした、これもめずらしくかったです。風呂を沸かすのに水を汲んで風呂場まで運びいれるのが仕事でした。志方までの行き帰りの汽車賃しかもらわなかったです、買い食いすることはなかったですがお盆などのとき年下の子がおごってくれたのですがそのお返しはいまだにしていないことが頭のどこかに気になっています。