次兄のこと 続きます

2020年10月30日 | その他諸々
彼とみんなが絶交状態になったきっかけは
あれは父が無くなたあとなにかで集まっていたことがあったとき早めにお墓を作ってくれと言うお金がたまると汚くなるからとこのようなことを言っていた。自分は家があり墓参りに行こうとしてもないからそうであろうが我が家に墓どころでないやろうにと思ったことがありました。このようになにかにつけ文句を言っていた。葬式の時,野里の曾根さんの息子さんがみんなを集めてみんなで澤田歯科医院を盛り立てていかんとというようなことを言っていたがなにを考えていたのかと思う。このあと法事のときだったか何が原因だったか忘れたがみんなが自分の敵やかと怒っていたことがあったです。一人30万やるから自分に付けということもいっていた。あのケチがよく言うわと聞いていたあんなのに貰ったらとんでもないことになる。
そのあと確か土曜日の午後お袋と家にいたときあれがやってきてまたいつものごとくぐだぐだ言い出したので二階に上がり技巧をしていたら上に上がって来てこれから家賃を出せと月に1000円をと海老江の家は次兄の名義になっていたのです。買うときに親父にお金がなく長兄が出している、その時に親父でなく次兄の名義にしたため次兄のものになっていた。自分は一銭も出していないくせに。
出せへんでと言うと盗人猛々しいとお前がやりだしてから患者が減ったとむかついたけど手を出さなかっです。手を出したのは二階の診療室に丸い黒いテーブルがあったのです、親父は粋がってラウンドブラックテーブルといっていた。隅棚をコーナーとそのテーブルを技工台にしていたのです。そのテーブルを次兄がガタガタとゆらしたのです。技巧していたものが飛び散ってしまったので思わず何をするのやと思わずパンチをくらわした。階上でがたがたしていたのでお袋がびっくりして上がってきた、そのあとお袋が急にいなくなりどこえ行ったのかと
思っていると岸田の奥さんを連れてきた。岸田さんは婦人会の会長をしていたので岸田さんが来たときは次兄は帰っていた帰りしな腹いせに壺を割りボンボンベットを持って帰りよった。これは自分が買ったものやとばかりに。
これからが本番です、このあと福島警察から電話がかかってきた。光男さんが弟にどつかれたと訴えてきてますよと。それでお袋がびっくりして警察に行くと兄弟喧嘩ぐらい私らもしょちゅうやりますよ。こんなことで事件になりませんと。これで終わりでした。ところがこんどは裁判所からなんと訴状が届いた。各人に。これは仕方がない何とかしないとまず大阪市の法律の無料相談にいきました。あの時の弁護士をいまだに覚えているがえらい剣幕で暴力はいかんと恫喝された。お前はその時の状況を知っているんかえらそうに言うな。無料なので説教もするのかと言いたかったが取り敢えずがまんでした。そこから弁護士を紹介するところを教えてもらい木村弁護士でした、この人は大阪空港の騒音対策を担当していた人でかなり有名でした。初公判のときその木村弁護士に次兄はかなりきついことを言われたらしく終わった後あの弁護士に文句を言ってやろういきまいていたらしです。この時は長兄が一人行っていた。その長兄がやめとき相手は弁護士やでと。次の公判には次兄も弁護士を雇っていた。佐々木という女性の弁護士でその人にも言われたらしいです。兄弟親子でこんなことするもんでないと。裁判はこれで終わりました。
その後どうしたかというと今度は向いのおちゃん(川南さん)のところに行き間に入って話をして欲しいとしかし親を訴えるようなことをしたあんたの方が悪いと相手にされずそれで終わりました。
このように絶えず誰かに助けを求めるのは小さいとき親父は次兄をえこひいきにしていたので依頼心が強かったようです。親父も平気で次兄の味方だったと思います。長兄はこれをよく言っていました。
この一発のパンチがこの後次男とのトラブルがなかったです、これがもしなかったらその後はだえずもめていただろうとい思われます。とにかくトラブルメーカーで頭痛の種でした。あるときなどは興奮して泣き出すこともあったですね。自分が歯科医になるべきなのに弟がなりやがって特に昭和40年ごろからの高度成長のため所得格差のため恨まれたであろうと目に見えるようです。昭和41年に大学を卒業したのですが偶然歯科医師免許を保健所からもらってきたときに親父と次兄がおりそれを見せたとき親父と次兄の顔がすべてを語っていたようです。これは本来なら俺がもらうべきであったのたのにと親父は光男は自分を恨むであろうと。
暴力はいかんとあの弁護士は言ったがはたしてそうであろうかと思います。話し合いでは絶対に解決しないこともあります。人間の歴史は戦争のくりかえしです、話し合いでは解決しないです。昔と違い平和的に解決すべきでしょうができないことが多いものです。
三島由紀夫も東大全共闘との会話で私は暴力を否定したことは一度もないとこの前に見た映画の中で言っていた。TOPに時には有効な手段でないでしょうか。

次兄のこと 続きです

2020年10月20日 | その他諸々
長姉がこんなことを言っていたこともありました。みとちゃん(次兄の愛称)が帰っ来たら逃げときと逃げる言うても自分の部屋があるわけでもない。どこへ逃げろというのか。たえずいじめられていたようでつくづくお人好しだったものです。そんなこともあったのに次兄が結婚して曾根に住んでいた時誰も来ないので寂しいかったのか自分が大学生の時長兄の志方には夏休みはよく行っていたが曾根にはいかなかったので遊びに来いと誘っていた。無神経なのか何を考えているのやら行くはずがないやろうと思ったものです。曾根には子供がおり子供には会いたかったが行く気には全然なかったです。弟や妹などは自分の家来ぐらいに思っていなかったです。いつも難しい顔をしていた今日は機嫌がわるいなあと顔いろを見ていました。とくに志方から帰ってきたときはいつも機嫌が悪く腫れものに触るようなものでした。長兄と何かあったのでしょうけど周りの空気を読むことなどしない自分が中心にいて周りの人に気配りをするようなこと一切なかったです。
良いことも悪いことも思いつくままに書いてみます。
良いことは何があるやろう、進君と自分と3人で甲子園の浜へ行ったことがあったね。ボートに乗り足が立たないところでボートの端をつかみ顔を水につけたことがあり凄く怖かったことを覚えています。まだ泳げないときは恐怖だったです、進兄はボートの下を泳いでいたが足がつかないところで泳ぐなんて恐怖そのものでした。あるとき淀川の堤防に運動しようと走りに行ったこともありました。一人で行くのが恰好つかないからやろうが何か利用されていた。長兄には宝塚遊園地に連れていかれたこともあります。長姉には毎週日曜日にどこか連れていかれ最後には面白くもない映画に突き合わされたこともありました。本当にお人好しでした。嫌と断れば良いものを我慢強かったものです。
彼ははっきり言えばケチそのものでした。中学2年の時ラジオ制作にすごく興味がありました、家で兄はそれを作っていたのでそばでいつも見ていたので制作キットを買うてやろうかと言ったことがあったがいまだに実現していない。親にねだることなど考えられなかっしいまだにそのことを覚えています。参考書も買ってやろうと言ったことがあるがいまだに実現していない。

次兄のこと

2020年10月19日 | その他諸々
長いことブログを更新してないのでまた書いてみようと思います。新型コロナで今年は振り回され患者が来ない。今まで何とか
来ていたが10月に入ってから見事に急ブレーキがかかってしまった。来年の4月で80歳になる。昔80歳の老人は杖をついていたものです。自分がこの年まで働くなんて考えもしなかったですが気が付けば80。もう仕事を辞めてもよいのですが辞めてどないするのと家内はすぐに言う。家にいると厄介者にされるのが目に見えている。やめる辞めれない状態です。行くとこまで行こうと思っています
大病をすればそく辞める理由ができ必要十分条件がそろうのですが何故か病気をしないです当然喜ぶべきですが皮肉なものです。
ほかに楽しみがないものかと考えるのですがなかなかないものです。いっそのこと海外に長期にブラブラするのもよいかなと思ったりするが語学がダメさみしがりやし誰ともすぐに打ち解けれないしこまったことです。私が仕事を辞めると困るという患者さんがいており昨日も神戸からタクシーで来られた人がいますのでこれもまた困ったことです。
さて次兄ですがこの兄は一言でいうとサジストだと思います。たえずトラブルメーカーだったです、変わり者変コツとみんなから嫌われていたです。サジストと書いたが親父と長兄除いて怖いもの知らずお袋とたえず喧嘩をしていたのをいまだに思い出します。我が家には階段が二つありました、一つは患者用、ひとつは家庭用あるときはトムとジローやったか漫画があったが追いかけあいをしていたことがあったです。しまいにお袋は階段の上から額縁を投げて怒ってたことがありました。たえず自分はいじめの対象だったです。幼児のころだっと思いますが願いが叶うと片目を入れるダルマがあったのですがそれを自分が怖がるものだからなにかあればそれを持って追いかけていちびっていたことを思い出します。護は泣くとトイレに行きよるとよく言っていた。なぜかトイレに逃げ込んだように思い出します。日曜日は親父は家にいないいつものごとく競馬帰りは11時すぎ競馬に行くのが楽しみに生きていたようなもので歯科医師会の大事な会合も無視だったです。だから保険の講習も行かないものだから損ばかりしていたようです。
こんなこともありました。家の前が駄菓子屋でパンも売っていたある時パンを買ってこいと言われ買ってくると少し匂いがする返して変えてもらえとそんなこと嫌だったので行かなかったすると文句たらたらいう。だいたい自分で行けばよいのに使い走りをさせられた。今考えると本当にお人好しだったと思う。次兄が帰ってくると顔いろをみたもんです。今日は機嫌が良いか悪いかと。機嫌が悪いと護,壁に向かって座っとけとお袋も変に逆らうとうるさいものだから見てみない振りをしていたようです。

第二十二段 開業

2009年04月18日 | その他諸々
第二十二段 開業
歯科大学の学生の頃自分は将来どのようになるのであろうかとたえず不安にかられていました。父親の現状をみてみるとほとんど患者が来ていない。この跡を継いでどのようにやっていけばよいのだろうかと。借金をするにしても担保なく保証人を誰にしてもらうべきか、とにかく今の開業地から出なくてはこんな路地裏の長屋の二階で開業していたらいつまでもうだつが上がらない。医療金融公庫というものがあるらしいがこれまた大変。長兄に最後は頼らないと結局はどうにもならないかなあと思っていましたがまた長兄に頭が上がらなくなるし出来ることなら兄貴には世話になりたくなかったです。希望としては大学に残り歯科矯正学を勉強したかったがとても無理でした。卒業の年になり母親は交通事故にあい父親は癌と診断されそれこそ大変でした。しかしよく考えてみたら入学式には父親が卒業式にも父親が出席しました、入学式のときは父親が淀の競馬場に行くついでだった(大阪歯科大は牧野にあり淀の京都競馬場に近くです)からで卒業式のときはお袋は入院していたためです。
卒業して午前中は開業医に午後は家で診療をしました、結局父とは一度も一緒には治療をしなかったです。入院とか自宅で寝ていましたからです。この状態で一年がたちました。卒業してすぐに開業なんていまなら考えられないことですがそのころは一年勤務医して即開業という人が結構ありました。
一年がたちなんとかしなくてはといろいろ考えていたときある開業しているところが資格者がいないのであとをしないかというニュースが偶然入ってきてこれは吉報とばかりにのりました。東大阪市の瓢箪山でした。同級生だった女性に地下鉄の中で偶然出会い自分が行っている開業医に自分のあとに来てもらいその女性からの情報でした。だから今あるのはその女性のおかげです。三年契約でした公正証書にしての契約で今思うととんでもない契約だとおもいます。だけどこの三年間のおかげで立ち直ることができました。がむしゃらに働きました。海老江から通ったので朝の七時半頃から帰って寝るのは十二時時ごろになり土曜日の午後は本当に疲れて日曜日はそれこそ休息日でした。学童の歯の検診のあとなどは子供が列をなして診察にやってきたものです。しかしこの就職については母親からは猛烈に反対を受けました、しかし友達に相談すると理解をしてくれたし対処高所から判断するとやむをえないと思いました。
三年後に門真市で開業をしました、本当は阪急沿線の駅前で開業するのが夢でしたが資金不足のためでした。古川橋の石原町で文化住宅の密集地でした、開業した一週間目には五十人もの患者がきました。いまなら考えられないことです。毎日、毎日、朝から晩まで患者に追いかけられているような状態でゆっくり考えて治療がしたいという気持ちが出てきたのと家内がたえずあれこれと不満をいうために場所を変えてみようと移転しました。銀行マンからもさんざん注意をされたが若かったし、楽を選ぶと感動がないという気持ちもあったし荒野をめざしてみようという気持ちもあり
阪急沿線の駅前でやりたいという考えが抜けずにそれとお金に執着がなかったのと親父の怨念のせいか?その後またうろうろしました。なんだか自分の意志でない力が働いたような気がしております。

第二十段 父のこと 追記

2008年12月24日 | その他諸々

またこのようなことを思い出しました、父が勤務医であった頃そこの院長が父に注意をしたら得意になって止めてやったと言っていた事がありました。いくら慰留をされてもぷっいとやめたと。まさにその風景が目に見えるようです。彼ならやりかねんでしょうね。止めた後に満州でも行ってこようかと一ヶ月ぐらい遊びまわってさあ歯の仕事をしょうとすると仕事から離れていたのでどのようにするのかはじめの頃は戸惑ったと長姉がいっていました。
末期がんを宣告されたあとみんな家族がよくつくしたので有頂天になりすき放題を言っていました、あれだけの症状があれば癌を当然疑うべきなのに悪性でなくよかったといっていたのにはあきれました。病気が好き放題をいわせているのやと母親はいっていたがいままでの隠れていた気ままな性格が一度に噴出したとみるのが正しかったと思います。保険で治療を受けていたら病気が治らないというようなことも言っていた。このときも長兄と喧嘩をしていたようでだから次兄に無心をいったが次兄は長兄よりも吝嗇家だったので死に土産にオメガの時計をといわれても応じるはずがなく“小さいときよく正之からかばってやったのに”と言っていました。保険で治療をしていたら治らないというようなあほな事をいうので“河野一郎も力道山も最近なくなった、人は死ぬときは死ぬもんや”と父に言ったこともありました。
最後はお袋が言ったみたいでした“最後はこのようになる予定だったと”それからいっぺんにおとなしくなり往診をした医者に“おとどのくらいもつ”と言っていました。それからまもなく亡くなりました。日曜日で子供がみんな来ていました、次兄のみが帰ったが不思議にあとはみんなが残り宿泊しその翌日の朝に亡くなりました。“光男だけが親の死に目にあわなかった”とお袋がいっていました。

十八段 父親の診療

2008年10月08日 | その他諸々
① 子供が親がしていた歯の治療のことを悪く書くことに抵抗がありますが遺言のつもりですので事実は事実としてとらえてください。
レントゲンもタービンもなかったので必然的に治療は明治、大正、昭和の初期の治療になります、時代についていかなかったためです。
そのため歯を抜いて義歯をいれる治療になります。それも体力的に難しい歯は抜かずに削りその上に義歯をいれておりました、残根上義歯としていけないことではないが。わたしが大学6年生で臨床についていた頃その当時は大学に患者(木全さん)を連れて行き治療をしていたのですが父親が治療をした下の前の歯6本にサンプラ冠をかぶせてあり獅子の歯のようで講師の人がそれを見て驚きどこの歯科医院でしたのと聞く、父親とはいえず困ったことがありました。その患者さんはどのように思ったことでしょう。ちなみにこの木全さんの娘さんはその当時かなりの女優さんで浅茅しのぶさんです、元宝塚のスターで百人一首から名前をもらっているほどでした。この人が治療に来たときひそかに二階に上がり覗き見をしたことがありました。
② 患者を平気に待たしていたですね、二階に患者が待っているのに平気の平左でした。ときにはお腹になにかいれとかないとばかりに治療の途中に下に降りてきて食事をしてお酒を飲んで臭い息でも平気で治療をしていました。上で患者が待っているのだからまわりが早く二階に行くように言っても言えば言うほど強情をはってしまいにまわりもあきらめておりました。家族の者がいらいらさせられ本当に困りものでした。時には寝込んでしまい患者もあまりにながく待たされるので途中で帰ってしまう人もありよくまあこんな歯医者がいたものだといまさらながらあきれかえります。本当に神経が図太かったです。中学のとき友達がおまえとこのおっさんのんびりしているなあというのがいたが反論の仕様がなかったです。
③ いちどこのようなこともありました。母親が市場の帰りある女性から嫌味を言われたと。入れ歯をいれるがまともに対応してくれないと関係ない母親にからんできたらしい。患者も患者であるが父親のことだからシャラクセイとばかりに扱ったのかもしれません。歌舞伎が好きであったので助六の世界に入っていたのかも。入れ歯があたっていたらハグキが赤くなっているのにその患者はなっていなかったと言っていましたがそのときの対応は目に見えるようです。しかし父親の弁護をさせてもらうと確かにくどくこだわる患者さんもおられますので一方的にどちらがどうとはいえません。入れ歯とはこんなものと達観している人は扱いやすいですが。

④ 耳を疑ったこともありました、治療をしていたそばで技工をしていたのですがお金を払うときに父親はお釣りはいるかと言っていた。そのあとこの患者は来なかったですね、とにかく患者を選んでいたようです。へんな治療は手に負えなかったのかも。とにかくあきれることばかりでした。しかし気に入った患者とは世間話をよくしていました。
⑤ 細川さんのおばちゃん(輝ちゃんのお母さん)の入れ歯をいれるがうまく入らなかった時“護がフラスコをたたいたから”と責任を転嫁してきたことがあった、百歩さがってそうだとしても“将軍兵を語らず”で責任を自分が執るべきだろう。義歯を石膏から取り出すときフラスコをたたいてもなんの関係もない。
⑥ 中学のとき親しい友達の親が治療に来たことがありこのときもとらぶって気まずいことがありました。このときの言い訳もあの人はうまく出来すぎていると言ったといっていましたが、やせ我慢もいいかげんにしてくれ。
⑦ このような状態だったので患者が少なくとくに午前中は休診状態だったです、技工士が午前中に仕事を取りに来たときは布団からおきだして寝巻き姿で応対をしていました。電話がなかったので城東区の蒲生まで市電を乗って模型を持って行った事がなんどもありました。
私が記憶にあるかぎりでは午前中に仕事をしていたのを見たことがなかったです。だから歯科医になってから母親は当然親の跡を継ぐように言ったがこれはどうしても聞けなかったです。一年ほどは親の治療のアフタケアーをしましたが。本当は大学に残り歯科矯正学を勉強したかったです。⑧ 保険診療の改正が2年ごとにありそのたびに講習が全国的に行われますがそれも行った事がありませんでした。だから当然請求できるものもしないで損ばかりしていたようです。
⑨ 月に一度の保険の請求の事務をすごく嫌がっていました、言っても仕方がないのに嫌だ嫌だと。毎月同じことを聞かされるまわりはそれこそ苦痛でした。母親はすぐに子供にさせと言っていましたが本人にしか出来ないことです。簡単な表書きぐらいはしましたが中身までは無理でした。嫌なことは絶対にやらない性格でしたがこの保険請求だけはやらざるを得なかったです。
⑩ 税金の申告の時期になるとこれもしなかったですね、昭和30年代は申告の時期になると税務署にいき資料を見せて税務署の人が税額を計算してくれました。(今は税理士に頼っていますが)母親に行かしたりで月に初診は何人ほど来るとか聞かれても母親にはわからないはずなのに。しまいに"護に行かそうか”ととんでもないことを言っていました。他所は節税にあれやこれやとやっているのにこれもいいかげんなものでした。税額が多いのと違うのとこれまた母親が悩んでいました。そのくせ家の主人公は主人公はといっていました。

第十七段 兄弟

2008年09月01日 | その他諸々
私には父親をふくめて4人の男がいましたが最近やっとそれから解放されたような気がします。父は亡くなり長兄は7年前ぐらいにやはり胃がんで亡くなりました。小さいとき長兄は次兄とよく喧嘩をしていたらしいです。父親は次兄を贔屓目にし事実父が亡くなる前に聞いたことがありました、光男をよくかばってやったと言っていたことを。しかし仲がよいときも結構あり兄弟喧嘩はすぐに仲がもどるようなところもありました。
兄弟は他人の始まりというが本当でしょうね。喧嘩をするのはまだ仲がよいのかも、私と三兄は大きくなってからほとんど喧嘩らしいことはしていなかったです。だから仲がよかったかとういとその逆でした。小さいときはそらよくした覚えがあります。布団の中で小さいほうは損やと泣きながら寝たことを覚えています。父親は小さいほうの自分をかばってくれたかというとそのような覚えはないです。無関心でした、三兄はヒガンで護をよくかばったと言っていたことがありますがこれは絶対にまちがいです。
兄弟喧嘩について考えてみましょうか。
古くからは古事記の中の海彦、山彦の話も兄弟喧嘩の話で義経と頼朝、最近では若貴兄弟、東急の名前はわすれたがそれと、西武の堤兄弟、京都の君島兄弟とだいたい仲が悪いのではないでしょうか。毛利元就も三人の仲が悪いので三矢の教えを残したらしいです。喧嘩することによりお互い切磋琢磨して成長する利点もあります、近隣の国どうし、近所どうし仲が結構悪いものです。
喧嘩になるのはお互いに賢くないかまたは一方が賢くないかでどちらも賢かったら喧嘩にはならないのでは。または一方が我慢をしているかです。
長兄とは何度もむかつくことがあったがまがりなりにも世話になったのでなるべく逆らわないでやってきました。
次兄と三兄は先に生まれた言うだけ兄貴ずらしていばりちらされたです。いちいち書くといくらでも書くことがあります。だからいまは義絶状態です。親が子供を見離すことは勘当ですが兄弟のあいだでは義絶です。三兄とは母親が元気なうちはなんとかあわせてきましたが母の死後はつきあいはありません。おかしな兄弟です。長兄が癌の末期のとき見舞いにいってやればと言ってもなんでお前にいわれないかんのやという態度でした。そのくせ旅行のときは行くところをいわないとわからんやないかと電話をしてくる。次兄とはいろいろとありましたが次回にでも書いてみましょう。小さいとき餓鬼大将から助けてくれるから兄ちゃんと慕うがなんの世話にもなっていないのにいつまでも兄貴ずらされるといいかげんにせんかいという気持ちになるのは当然のことです。父親が亡くなったあとお前が長男やから祀りごともお前がするようにと長兄にいわれ旅行や法事の世話などしてきたが肝心なことはなんで弟のいうことを聞かないといかんのやという態度でした。横浜の叔母どうしも最後はなぜか付き合いがなかったらしいです。だからおばあさんは鈴木のほうでなく野村のほうで亡くなっております。父親がなぜ仲違いしたのと大阪にやってきた喜美さんに聞くとお互い意地っ張りだからと言っていましたがやはり姉妹(きょうだい)喧嘩をしていたみたいです。仲のよい兄弟のほうが世間には多いでしょうし
そんなところほど何事もうまくいっているのはないでしょうか。

第十六段 父のこと その6

2008年08月02日 | その他諸々
父の悪いことばかりでなく良いことを探してみましょうか、笑顔がよかったです。写真を見るといつもニコットと笑っています、なんの苦労もないというように母親はすましていました。だから第一印象はすごくよいので知らない人はお父さんはよい人だったと感想をいう、長兄のお嫁さんのように。しかし実際によく知っている人はここの先生は変わり者でしたなあという。近くで同じ歯科医院を開業していたO先生はお通夜でみんなの前で言っていました。
結果的にはよい反面教師だったです、子供は親には頼れないという自覚が小さいときから植えつけられました。自分でなんとかやろうと。子孫に美田を残さず、残すとそれをあてにして親父のようにダメになってしまう。おじいさんは愛知県の故郷に三ヶ所も土地を買っていた、父はそれを親戚の人に全部売り払い見事に使ってしまうなんてこと私には絶対考えられないことです。
大学の友達で開業するとき親に世話にならなかったと自慢げに言っていた人がいましたがわたしは母親に生活費を渡しながら開業をしました。兄弟みんなそれぞれ自活をしておりしっかり家庭をもっております。親父のおかげかもしれません。他になにかよい点をさがそうとするがみあたらないです。歌舞伎が好きでした、テレビをみながら役者の名前をよく言っていたし吉本、松竹新喜劇などはけなしていました。このように高尚なところもありました。自分は好きなように生きてきたと得意そうに言っていたことがありますがおかげで家族は大変迷惑をこうむりました。江戸っ子は宵ごしのお金はもたないと焼け気味にいっていましたがお袋はなにをあほな事をいうのやとあきれていました。
渡辺淳一の本に鈍感力というのがありますが親父はまさしく鈍感力の持ち主でしたね。批判をされてもこたえない、馬の耳に念仏でした。これもよい点の一つでしょうか。
女にはやさしかったです。小学何年生だったか忘れたがこんなことをいわれたことがあったです。女3姉妹がいたときに美津子ねえさん、美也子ねえさん、かつ子ねえさんといいなさいと。ねえちゃん、みやちゃん、かっちゃんでなんであかんのやと思ったし今さらなにをあほな事を言うのやと反発しただけでした。
女は結婚してから苦労をするのでという考えがあったのかも知れません。



第十五段 父のこと その5 

2008年07月15日 | その他諸々
小学低学年のとき歯の表彰を受けたことがあります、みんなは家が歯医者やからとひやかされたことがあります。しかしこれは関係がありません。やはり甘味物がなかったからと思います、憲ちゃんから歯をよく磨いたと聞かれたがこれも違うようです。あまり磨かなかったです。しかし高学年のとき虫歯で痛くなり水で冷やしごまかしていました。二階で親が治療をしているのに下で涙をこらえて頑張っていました。みんなの治療がおわりそれを今か今かと待ってお願いしますと終わるとありがとうと言わされました。これが嫌でなるべく避けて親も子供が治療をいわなかったら知らん顔。こちらも痛みがとれたらいいと、しまいにこの歯はダメになってしまいました。他の兄弟もその頃は保険の本人だと治療費はいらなかったので他の歯科医院に行くしまつでした。本当ですよ。
三姉の前歯に金歯をかぶせあんなのはすでに否定されていた治療法で私がやりだしてからすぐに取り外したことがありました。そのくせ自分は名人芸の仕事をしていると次兄と話をしているのをそばで聞いていて頭がおかしいのと違うかと思いました。実際歯の本を真剣に読んでいたのを見たことがありませんでした。日本歯科医師会の雑誌が毎月送られてくるがたまにざっと目を通し、たいしたこと書いてないと投げ捨てて何に使うかといったら土瓶敷きによく使っていました。もう時効なので書いてもいいでしょう。なにか寝ながら読んでいるのでよく見たら競馬新聞でした。タービンがなく足踏みエンジンで歯を削っていました。昔はみんなそうであったでしょうが新しい器械が出てきているのに昔のまま。床のリノリュームがめくれてきていてまわりがなんとかしないとと注意しても本人は無関心、お金のいることは本当に手を出さなかったです。母が言っていたが物を買うというと反対すると。実際今でも感心するのは三兄が新聞配達のアルバイトで買った中古の自転車を自分が夜乗り回しよくパンクやチューブやタイヤをだめにして修理の連続でした、あれなら新しい自転車を買えばよいと思うのに最後まで買わなかったです。父が買ったものは日本文学全集、外国文学全集がありました。これも月賦でこのことで母に聞いたことですが老人がお金を集金に来たとき母がなにげなくお金を渡すと父親が二階から降りてきていきなり母親を殴ったといっていました。あのような年寄りにお金を渡すときは一枚ずつ手のひらにおいて数えながら渡すものだと。これでまた思い出すことがあります。小学校のとき毎月いるお金を母親からもらおうとすると父親からもらえと仕方ないので仕事が終わるのを待って二階に上っていきもらうのですがいつも袋に書いてある明細を読まされすぐにくれたらよいのに手のひらに一枚一枚百円札をおいていく。じつに苦痛でした。

第十四段 父親のこと その4

2008年06月26日 | その他諸々
今となっては詳しい事情はわからないですが父親は祖母の面倒を妹の夫婦(鈴木)にあずけております。その代わりその叔母夫婦が診療所の権利を受け継いだようです。そのときの書付がありました、その書面を公正証書にするべきだったのを親父のシャランポランなところのためそれをしていなかったです。弁護士が書いたような文面でした。昭和41年ころその書類がほしいと叔母の喜美さんが永い事行き来がなかったのに大阪までやってきたことがありました、一度でなく何回も、よほどこれが要るような事情ができたのでしょう。(喜美さんもその同じ書類をもっていたはずですが関東大震災で燃えてしまったのか)その書類を見たとたん公正証書でないと言われました。祖父の横浜の診療所の土地は借地でしたそのため立ち退き問題が出たのであろうと思います。(あくまで想像ですが)おじいさんはあくまで出稼ぎにきたつもりか稼いだお金で故郷の土地を購入しておりました。診療所は横浜の真砂町の関内の駅のそばで一等地です。
ここの土地を買っておれば今ならそれだけですごい財産になっておったでしょうに。父はその愛知県の土地を親から譲り受けこれを売り払いこれを持って関西に出てきたのではと思います。この土地のお金で開業資金にしてという感覚がなかったのか見事に使い果たして開業のときお姉さん(野村)に借金を申し出て断られたようです。野村さんというのは爪に火をつけるように蓄財をしたような人なのであの息子には貸せないと思ったのかも知れません。
なぜ鈴木さんとは行き来がなかった理由は詳しいことは知りませんが父親は男とはうまくいかないようでオス犬がオスと見れば喧嘩を始めるようなもので鈴木さんとは気が合わなかったのかもしれません。関東大震災で横浜に見舞いにいったとき焼け跡で偶然鈴木さんと出あったらしいです。そこでどのようないきさつがあったのかいきなり取っ組み合いの喧嘩になったらしいです。そのとき履いていた地下足袋を大事そうになおしていたらしいです、母親がそれを見つけてこれいったい何と聞くとそのように答えたらしいです。それ以来つきあいも手紙も年賀状も全然なかったです。この書類を渡すべきか渡さないかで最初は渡さないことにしていたようですがこれをお金にしようと思ったのか自分で手紙を書きその内容を私は見たとたんこんなもの出したらいかんと言ったけど母親か姉が出したようでした。そこのところは詳しくわからないが父親がうるさく言ったかもしれません。そのあとお喜美さんが我が家に来られました。父親はてっきりお金を持ってきたと思い書類をさっそく渡しそのあとお金など持ってきていないことがわかると“護あの書類をとりかえせと”癌の末期だったので足腰がしっかりしていない。元気なときなら喧嘩になっていたかも。しかも書類を渡すとき子供の考えはもっと悪いととんでもないことを言っていました。