中学の終わりごろの実力試験では学内で15番ぐらいに急に成績がよくなりました。私は語学が苦手でした。小学校のときのローマ字で苦労し、中学では英語がとくに嫌でした。英語が普通なみにできておれば絶対に10番以内に入っていたはずです。
理科がなぜか好きでした、小学校のときモーターをつくる工作があったのですがこのようなときは寝食をわすれて取り組みました。乾電池につないでモーターが回ったときの感激はいまでも覚えています。ゴムをまいて飛ばす模型飛行機のときも一心不乱に作りました。
学校の勉強も早く終わらないものかととんで帰ってつくりました。
臨海学習で伊勢にいったときみんなはさわいで遊んでいたけど土産に買った木組みのボールが気になり家に帰ってからすれば良いのにいてもたまらず一人で部屋でばらして組み立てていました。
学内で1番だった塚本君は市岡高校から京大の工学部にいかれたが彼と理科の点数は並んでトップだったです。
この頃その日に勉強したことを寝るときに寝床で思い出そうとするとすらすらとでてきたです。
数学の公式も込み入った三角関数のことも。
高校を選ぶとき歯医者になるなんて考えてもいなかったので最初は三番目の泉尾高校が第一志望だったのです。ところが成績が上がってきたので港高校(旧制の市岡女学校)にかわりずっと地区の検定試験で港での順位をしらべていたのですが母親と先生の見栄で市岡でもいけると私の性格を判断せずに私も深く考えずに決めてしまいました。
だから市岡での成績はどのぐらいの順位か心配で入学してすぐに実力試験がありましたが400人中120番ぐらいでした。それをみた次兄が案外よい成績やなあと言ったことをおぼえています。
ちなみに憲ちゃんは市岡、輝ちゃん、和ちゃんは港高校にいきました。
受験前に熱心に勉強しているとき親父は“もっと余裕をもて”と直接に“あんまり勉強するな”と口にはださないが何を考えているのかと思うようなこともありました。
三兄が受験で失敗したとき“護よく聞いておき護が公立をすべったら高校にいかせんから”と怒られたことがありました、なんで自分がおこられなあかんのやと思いました。それだけしっかり勉強せよというのでなくとにかくお前にはよけいな負担をかけられたくないとばかりに。
だから無理をせずに港にするべくだったと今になって後悔しています。市岡でまわりからプレシャーがかかりかえって実力が出せなかったです。港にしておれば良いほうに人生が変わっていたのではと思っています。
ウィクリーに誰かがいつも談話を載せていたのですがその中に市岡の校長(林佳蔵 このブログを書き出して思うのですが昔のことが不思議によく思い出します。)がこのようなことを書いていたことがあるのです。自分は子供のとき鶏を飼っていたがその中にいつもほかの鶏からいじめられているのがおりだからそれを別にして飼った、そして後日それを以前の鶏の中にいれるとそのいじめられていた鶏のほうが強くなっていたと。このときの担任の先生は武田先生だったですが彼は阪大の工学部出身で秀才だったかも知れないが教育学を習っていない欠点があったのではとおもいます。歴史にもしという言葉はいけないかもしれませんがもし港でのんびりと勉強していればもし鼻が悪くなっていなかったら国公立の大学にいけたのではとおもっています。
理科がなぜか好きでした、小学校のときモーターをつくる工作があったのですがこのようなときは寝食をわすれて取り組みました。乾電池につないでモーターが回ったときの感激はいまでも覚えています。ゴムをまいて飛ばす模型飛行機のときも一心不乱に作りました。
学校の勉強も早く終わらないものかととんで帰ってつくりました。
臨海学習で伊勢にいったときみんなはさわいで遊んでいたけど土産に買った木組みのボールが気になり家に帰ってからすれば良いのにいてもたまらず一人で部屋でばらして組み立てていました。
学内で1番だった塚本君は市岡高校から京大の工学部にいかれたが彼と理科の点数は並んでトップだったです。
この頃その日に勉強したことを寝るときに寝床で思い出そうとするとすらすらとでてきたです。
数学の公式も込み入った三角関数のことも。
高校を選ぶとき歯医者になるなんて考えてもいなかったので最初は三番目の泉尾高校が第一志望だったのです。ところが成績が上がってきたので港高校(旧制の市岡女学校)にかわりずっと地区の検定試験で港での順位をしらべていたのですが母親と先生の見栄で市岡でもいけると私の性格を判断せずに私も深く考えずに決めてしまいました。
だから市岡での成績はどのぐらいの順位か心配で入学してすぐに実力試験がありましたが400人中120番ぐらいでした。それをみた次兄が案外よい成績やなあと言ったことをおぼえています。
ちなみに憲ちゃんは市岡、輝ちゃん、和ちゃんは港高校にいきました。
受験前に熱心に勉強しているとき親父は“もっと余裕をもて”と直接に“あんまり勉強するな”と口にはださないが何を考えているのかと思うようなこともありました。
三兄が受験で失敗したとき“護よく聞いておき護が公立をすべったら高校にいかせんから”と怒られたことがありました、なんで自分がおこられなあかんのやと思いました。それだけしっかり勉強せよというのでなくとにかくお前にはよけいな負担をかけられたくないとばかりに。
だから無理をせずに港にするべくだったと今になって後悔しています。市岡でまわりからプレシャーがかかりかえって実力が出せなかったです。港にしておれば良いほうに人生が変わっていたのではと思っています。
ウィクリーに誰かがいつも談話を載せていたのですがその中に市岡の校長(林佳蔵 このブログを書き出して思うのですが昔のことが不思議によく思い出します。)がこのようなことを書いていたことがあるのです。自分は子供のとき鶏を飼っていたがその中にいつもほかの鶏からいじめられているのがおりだからそれを別にして飼った、そして後日それを以前の鶏の中にいれるとそのいじめられていた鶏のほうが強くなっていたと。このときの担任の先生は武田先生だったですが彼は阪大の工学部出身で秀才だったかも知れないが教育学を習っていない欠点があったのではとおもいます。歴史にもしという言葉はいけないかもしれませんがもし港でのんびりと勉強していればもし鼻が悪くなっていなかったら国公立の大学にいけたのではとおもっています。