第七段 成績 その2

2008年04月22日 | その他諸々
中学の終わりごろの実力試験では学内で15番ぐらいに急に成績がよくなりました。私は語学が苦手でした。小学校のときのローマ字で苦労し、中学では英語がとくに嫌でした。英語が普通なみにできておれば絶対に10番以内に入っていたはずです。
理科がなぜか好きでした、小学校のときモーターをつくる工作があったのですがこのようなときは寝食をわすれて取り組みました。乾電池につないでモーターが回ったときの感激はいまでも覚えています。ゴムをまいて飛ばす模型飛行機のときも一心不乱に作りました。
学校の勉強も早く終わらないものかととんで帰ってつくりました。
臨海学習で伊勢にいったときみんなはさわいで遊んでいたけど土産に買った木組みのボールが気になり家に帰ってからすれば良いのにいてもたまらず一人で部屋でばらして組み立てていました。
学内で1番だった塚本君は市岡高校から京大の工学部にいかれたが彼と理科の点数は並んでトップだったです。
この頃その日に勉強したことを寝るときに寝床で思い出そうとするとすらすらとでてきたです。
数学の公式も込み入った三角関数のことも。
高校を選ぶとき歯医者になるなんて考えてもいなかったので最初は三番目の泉尾高校が第一志望だったのです。ところが成績が上がってきたので港高校(旧制の市岡女学校)にかわりずっと地区の検定試験で港での順位をしらべていたのですが母親と先生の見栄で市岡でもいけると私の性格を判断せずに私も深く考えずに決めてしまいました。
だから市岡での成績はどのぐらいの順位か心配で入学してすぐに実力試験がありましたが400人中120番ぐらいでした。それをみた次兄が案外よい成績やなあと言ったことをおぼえています。
ちなみに憲ちゃんは市岡、輝ちゃん、和ちゃんは港高校にいきました。
受験前に熱心に勉強しているとき親父は“もっと余裕をもて”と直接に“あんまり勉強するな”と口にはださないが何を考えているのかと思うようなこともありました。
三兄が受験で失敗したとき“護よく聞いておき護が公立をすべったら高校にいかせんから”と怒られたことがありました、なんで自分がおこられなあかんのやと思いました。それだけしっかり勉強せよというのでなくとにかくお前にはよけいな負担をかけられたくないとばかりに。
だから無理をせずに港にするべくだったと今になって後悔しています。市岡でまわりからプレシャーがかかりかえって実力が出せなかったです。港にしておれば良いほうに人生が変わっていたのではと思っています。
ウィクリーに誰かがいつも談話を載せていたのですがその中に市岡の校長(林佳蔵 このブログを書き出して思うのですが昔のことが不思議によく思い出します。)がこのようなことを書いていたことがあるのです。自分は子供のとき鶏を飼っていたがその中にいつもほかの鶏からいじめられているのがおりだからそれを別にして飼った、そして後日それを以前の鶏の中にいれるとそのいじめられていた鶏のほうが強くなっていたと。このときの担任の先生は武田先生だったですが彼は阪大の工学部出身で秀才だったかも知れないが教育学を習っていない欠点があったのではとおもいます。歴史にもしという言葉はいけないかもしれませんがもし港でのんびりと勉強していればもし鼻が悪くなっていなかったら国公立の大学にいけたのではとおもっています。


第六段 成績 その1

2008年04月15日 | その他諸々

右の男性が次兄です、下の真ん中の女の子が輝ちゃんです、私はどれかわかりますか。下町には子供が多かったです。
小学校の6年生の後半になると先生(吉川義男)が子供を成績順に並ばせたことがありました。あいかわらず勉強に関心をしめさなかった頃です。しかし60人ほどいた学級でまえから6人目ぐらいだったことを覚えています。憲ちゃんが1番でした。輝ちゃんも前にいたようです。
高学年の頃はガキ大将でした、弱い子をいじめたりはしなかったです、みんなを集めてリーダーという感じでした。うまくまとめていたつもりです。
べったん、ラムネ、探偵ごっこ、竹馬、くぎたおし、胴馬、缶けり、ソフトボールととにかく
こんどは何をはやらそうかと子供は遊びの天才といいますがとにかくなにかやっていました。べったんを箱にいっぱい集めました。横の路地が子供でいっぱいになり大人がしまいにべったんが出来ないように水をまいたりしたこともありました。この頃が一番充実していたようにおもいます。よく学び、よく遊べといいますが遊べばかりでした。高校になってからは学びばかりでしたが今思うとよく学び、よく遊べがやはり一番充実した生き方だと思います。
中学になると定期試験がありこのときは試験準備で勉強をしましたがやはり中学2年ころでもクラブ活動もせずにべったんがはやればやっていました。
部活は相撲部にはいり1年のときブロック大会で選手としてでたことがありますが2年のときは帰宅部でした。理科部にはいりラジオの製作をしたかったですがやはりお金の問題であきらめました。この頃の勉強のほうは実力試験で450人ぐらいの生徒でしたが50番ぐらいでした。3年になると受験が迫ってくるため毎週でるウィクリーという問題集をやりました。夏休み前に理科の参考書を次兄からもらったのがすごく力になりました。次兄は中学の先生をしていたのでまわりから教えてもらえていいなあとよく言われましたが勉強はみてもらったことは全然ありませんでした。3年の2学期に成績が急にあがったときも兄さんのおかげやとまわりから言われましたが。
次男に勉強を教えてもらったことで今でも忘れられないことがあります。小学校に入る前に憲ちゃんとふたり並ばされ勉強みてやるとこのころ次兄は大阪学芸大学にいっていました。いまの大阪教育大学です。先生の卵でした。
本を読んで感想を言えと言う、憲ちゃんはなんとか答えていたが私はしゃべるのが苦手と言うか本当にシャイで恥ずかしがりでした。それで黙っているとすごくおこられそれをいつまでもみんなの前でいいまくられたことがありました。、それ以来勉強はとくに興味を失いました。その子供の良いところをみつけてほめて育てるべきでしょうね。


第五段 勉強

2008年04月04日 | その他諸々
第五段 勉強
小学校のとき“護は食事のときしか家におらんな”と言われたことがあります。テレビはまだなかった時代です、学校から帰ってくるとすぐに外に飛び出し暗くなるまで遊んで食事ころに帰ってきてまた隣のまあちゃんのとろで遊びにいく。風呂屋まで一緒にいき体を洗ってもらったことがあります。しかし階段や診療室のリノリュウムの拭き掃除は毎日させられました。しないと小遣いをもらえない。5円です。平均10円はもらっていたようですが母親は金銭には実にがっちりしていました。近所の人に小遣いとくれたものまであとであのお金を返しと取り上げられたこともあります。鵜飼の鵜みたいなものでもらったとき“おばちゃんありがとう”というだけバカらしかったです。
正月のお年玉も預かっておくと取り上げられいつのまにか取られてしまったこともありますした。自分は決っしてムダずかいはしなかっのに。年玉が残っている間は小遣いをくれとは言わなかったです。しかしそれだけに自立心ができ独立採算の考えが自然とつき親にはまかせておけないという考えになりました。ところで勉強ですが勉強をしろとか勉強をみてやろうとか全然なかったです。とくに父親は無関心でした、ほったらかしでした。しかし母親には成績が悪いとおこられました。当時は塾などなかったです、そろばん塾はありみんないっていましたがこれも行っていません。幼稚園も学校と同じやと行っていません。
私は物を大事にするほうで教科書も折り曲げたりしなかったです。勉強もしなかったので
本が傷まないで買ったままのようで本を見た兄貴が“おまえ勉強してるんか”といわれたことがあります。学年がおわるとその本を箱に入れ大事に保管しました。その自分の宝物を了解もなしに勝手にほかされてしまいました。