第二十二段 開業

2009年04月18日 | その他諸々
第二十二段 開業
歯科大学の学生の頃自分は将来どのようになるのであろうかとたえず不安にかられていました。父親の現状をみてみるとほとんど患者が来ていない。この跡を継いでどのようにやっていけばよいのだろうかと。借金をするにしても担保なく保証人を誰にしてもらうべきか、とにかく今の開業地から出なくてはこんな路地裏の長屋の二階で開業していたらいつまでもうだつが上がらない。医療金融公庫というものがあるらしいがこれまた大変。長兄に最後は頼らないと結局はどうにもならないかなあと思っていましたがまた長兄に頭が上がらなくなるし出来ることなら兄貴には世話になりたくなかったです。希望としては大学に残り歯科矯正学を勉強したかったがとても無理でした。卒業の年になり母親は交通事故にあい父親は癌と診断されそれこそ大変でした。しかしよく考えてみたら入学式には父親が卒業式にも父親が出席しました、入学式のときは父親が淀の競馬場に行くついでだった(大阪歯科大は牧野にあり淀の京都競馬場に近くです)からで卒業式のときはお袋は入院していたためです。
卒業して午前中は開業医に午後は家で診療をしました、結局父とは一度も一緒には治療をしなかったです。入院とか自宅で寝ていましたからです。この状態で一年がたちました。卒業してすぐに開業なんていまなら考えられないことですがそのころは一年勤務医して即開業という人が結構ありました。
一年がたちなんとかしなくてはといろいろ考えていたときある開業しているところが資格者がいないのであとをしないかというニュースが偶然入ってきてこれは吉報とばかりにのりました。東大阪市の瓢箪山でした。同級生だった女性に地下鉄の中で偶然出会い自分が行っている開業医に自分のあとに来てもらいその女性からの情報でした。だから今あるのはその女性のおかげです。三年契約でした公正証書にしての契約で今思うととんでもない契約だとおもいます。だけどこの三年間のおかげで立ち直ることができました。がむしゃらに働きました。海老江から通ったので朝の七時半頃から帰って寝るのは十二時時ごろになり土曜日の午後は本当に疲れて日曜日はそれこそ休息日でした。学童の歯の検診のあとなどは子供が列をなして診察にやってきたものです。しかしこの就職については母親からは猛烈に反対を受けました、しかし友達に相談すると理解をしてくれたし対処高所から判断するとやむをえないと思いました。
三年後に門真市で開業をしました、本当は阪急沿線の駅前で開業するのが夢でしたが資金不足のためでした。古川橋の石原町で文化住宅の密集地でした、開業した一週間目には五十人もの患者がきました。いまなら考えられないことです。毎日、毎日、朝から晩まで患者に追いかけられているような状態でゆっくり考えて治療がしたいという気持ちが出てきたのと家内がたえずあれこれと不満をいうために場所を変えてみようと移転しました。銀行マンからもさんざん注意をされたが若かったし、楽を選ぶと感動がないという気持ちもあったし荒野をめざしてみようという気持ちもあり
阪急沿線の駅前でやりたいという考えが抜けずにそれとお金に執着がなかったのと親父の怨念のせいか?その後またうろうろしました。なんだか自分の意志でない力が働いたような気がしております。

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