goo blog サービス終了のお知らせ 

「春兆記」から俳人・富田木歩へ

2008-07-27 20:36:22 | 三角形的欲望

紫陽花・残り花



花田春兆氏にお話を伺っていたときに、「富田木歩(とみたもっぽ)」という名前を聞いた。

当時花田氏は、両足が麻痺するという障害を持った木歩の伝記を、わが身に引き寄せてか没頭して書いておられるご様子だった。

しかし、私は俳句に何の関心もなかったため、そのことを今の今まで思い出すことも無かったのだ。

今回たまたまのことだが、「富田木歩」を調べていて、花田氏があの時書いていた本は『鬼気の人ー俳人富田木歩の生涯』(1975年)だったろうと推察できた。

また、”境涯俳句”という言葉を知った。俳句と言えばその制約上、自然の風詠に仮託する形が一般的だが、自分の境涯を句にする分野があったのだ。

<障害者や弱者と呼ばれる人々が、自分の境涯をうたうことは存在意義であり、自明であること。障害者が境涯をうたわず、不特定多数に紛れてしのぎを削っていこうとすれば、数倍の刻苦が必要であり、その道を極めた人は少ない>とある(書評・中島より)

花田氏にしても、このように語っている。

「俳句より競争相手の少ない分野の方が、勝てる割合が高い。師(中村草田男)から、掴まれてもいいように、尻尾は9つくらい用意していなくてはいけないよ、と言われたのよ(笑)」と。

氏は、俳人でもあるが、基盤となる研究対象を「障害者の文化史」に照準を定めていた。


 花田春兆氏の著作



たとえば、予備知識なしで、以下の句を読んでいただきたい。


背負はれて名月拝す垣の外   富田木歩


名句なのかもしれないが、背景が分からないと、納得や味わいに深みが出てこない・・ような気がする。

俳句というのは、句だけをポンと掲げられるより、句が読まれた際の背景や心境の短文を付してもらえると、より分かりやすいものだ。

聞くところによれば、『奥の細道』も芭蕉に同行した曾良が居て、句と地の文の組み合わせが良く、芭蕉の境涯が巧く述べられて独自の命が輝きだす、という面があるという。


富田木歩(1898~1923)は、大正の俳人。本名は一(はじめ)。

<東京本所区向島小梅町に生まれ、両親は鰻の蒲焼「大和田」を経営していたが、洪水の被害にあい無一物となる。貧しさゆえ、姉妹たちは遊郭に身を沈めた。木歩は高熱の後遺症のため、2歳で歩行不能となり、学校教育は受けられなかった。

専ら「いろはカルタ」や「軍人めんこ」、少年雑誌のルビを読むなどで文字を覚えた。足萎えでもできることをと、座って仕事のできる友禅型紙切りの奉公に出た。

やがて俳句の土手米造を知る。その後、「やまと新聞」俳壇に投句をして入選を続けた。その流れで、生涯の友となった句友・新井声風と知己を得た。俳号も、自ら「木歩」とした。

新井声風は慶応の大学生で、父親は浅草で映画館を経営していたという。

その間、妹と弟は相次いで結核で亡くなり、木歩も大正7年頃から喀血するようになった。しかし、大正10年には、貸し本屋「平和堂」を向島玉の井に開店した。資金は、遊郭に売られた姉の旦那から出してもらったらしい。貸し本屋のお客も、玉の井の遊女が多かったという。

大正12年9月1日、関東大震災。

木歩は辛くも近所の人々に助け出され、牛の午前近くの堤の上に避難した。当時、凸版印刷会社に勤めていた新井声風は、ようやくの思いでそこに駆けつける。

木歩を帯で背負い、浅草公園の姉の家に送ろうと吾妻橋を目指して急いだ。が、枕橋は、すでに燃え落ちていた。火の手が三方にまわっていた。

目前の隅田川は、地震による津波で水かさが増し、急流が渦を巻く。逃げ場を失った二人は、今生の別れを告げ、火を含む熱風の中で最期の握手をしたという。

声風が水火のなか隅田川を泳ぎきり、竹屋の渡し近くに辿り着いたのは、それから4時間後のことだった。しかし木歩は亡くなった。享年26歳。>(ケペル先生のブログより)

資料によると、焼死となっているものが多い。水死もある。年齢も27歳が多いが、昔のこととて数え年によるものかもしれない。今のように満年齢で言えば、もう少し若かっただろう。

枕橋近くに、富田木歩終焉の地として句碑が立っている(平成元年3月建立)


かそけくも喉鳴る妹よ鳳仙花   富田木歩


震災後、自分だけが助かったという思いの声風は、慙愧の念に苛まれた。ために自分の句作を止め、ひたすら木歩の句を世間に広めることだけに、精魂を傾けたといわれている。


芸術家の仕事が残るには、必ずしも才能だけではなく、このような友愛に恵まれることも大きい。とりわけ俳句の世界では、師弟などの人間関係のきずなが強いというのだ。


ふと、太宰治の「走れメロス」を連想してしまった。命がけの友情・友愛がテーマだ。確かにあれは、太宰の他の小説の中では異彩を放っていると思う。

かつて、こんなことを聞いたことがある。命がけの友情なんてありえないよ、と言いたいがために太宰治は、「走れメロス」を書いたのだ、と。嘘か誠か、もしくは私の記憶間違いか。いずれにしても”事実は小説より奇なり”かもしれない。

なので9月1日が、「木歩忌」だそうである。大正12年9月1日に関東大震災というものがあり、数々の悲しい物語があったということ、ずっと忘れないでおきたいと思う。




季節最後の紫陽花も美しい





人気ブログランキング 今日は何位?押して頂くとモチベーションが上がります^^


コメント    この記事についてブログを書く
« ”元気の気”の行き先は何処? | トップ | つるのさんの動画見つけました^^ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。

三角形的欲望」カテゴリの最新記事