中国は 3000年以上に亘り、血で血を洗う戦乱を繰り返して来た。その度に、敗残兵は相手の「食料」にされ、敗者の歴史を根絶やしにして勝者の歴史が新たに始まるので、そこに成熟はなく、「接木の歴史」であると言える。ゆえに中国の歴史は、4000年どころかせいぜい100年程度である。 漢族の王朝・明が滅亡後、満州人(ツングース系民族)の王朝・清 が最後の王朝になった。 そもそも中国大陸には近代まで「国」という概念はなく、皇帝は中華思想のもと自らを地上で唯一の王だと考えた。 しかし、18世紀後半になると、ヨーロッパ諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった。
偉人・毛沢東さん
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中国近代史年表
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1368-1644 明朝 万里の長城以南の中国は明に統一される 江南から誕生した王朝が中国を統一したのは明が唯一である
1644-1912 清国 満州族がつくった中国を支配した最後の統一王朝
1840-1842 アヘン戦争
1850-1864 太平天国 このころ、ヨーロッパ諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった
1872 日本の琉球処分により冊封国「琉球」を失う
1894 日清戦争 朝鮮半島領有権をめぐる戦争
1895 下関条約締結 日清戦争に勝利し下関条約で朝鮮の独立を認めさせた
1900 義和団の乱
1904 日露戦争 朝鮮半島領有権をめぐる戦争
1910-1945 日韓併合時代
1911 辛亥革命 翌12年、中華民国(現在の台湾)が樹立、清朝が打倒される
1921 中国共産党結成
1931 満州事変 翌年、満洲国建国
1936 西安事件
1937 盧溝橋事件(中共軍が国民党軍と日本軍を戦わせるために日本軍を攻撃した)
1937-1945 大東亜戦争(太平洋戦争)
1941-1945 日中戦争
1948 韓国/北朝鮮建国(朝鮮分裂)
1949 中華人民共和国建国
1950-1953 朝鮮戦争 朝鮮半島の主権を巡って共産圏側が軍事境界線を越えて韓国に侵攻
1958-1960 大躍進政策
1965-1975 文化大革命
1972 田中角栄が、日中国交正常化に調印
1976 毛沢東が死去 同年、その妻・江青が逮捕される
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アヘン戦争
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当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に輸入していたが、中国に輸出する商品を欠いており、毎年大幅な貿易赤字となっていた。これに対しイギリスは、アメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、インドの植民地で栽培した麻薬アヘンを中国に輸出することで三角貿易を成立させた。 清は1796年にアヘンの輸入を禁止したが、アヘン密貿易は年々拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになった。 アヘン密輸によって莫大な利益を得ていたイギリスはこの機会に武力でアヘン密貿易の維持と開国をさせる決意を固め、翌1840年、清国沿岸に侵入しアヘン戦争を起こした。
1850 太平天国の乱 キリスト教の信仰を紐帯とした組織「太平天国」によって起こされ、内乱終結時には史上最も犠牲者の多い内乱として記録された。 アヘン戦争の余波により、多くの匪賊が横行し、これらを太平天国が吸収した。 太平天国とは、中国の歴史の上で初めて理想的な共産主義社会を実現した国家である。 共産主義国家であるため、太平天国の国民は私有財産を持たず、婚姻などという封建的な制度も存在しなかった。 軍は流賊的ではあったが、匪賊を吸収しても軍内の規律は厳正で高いモラルを有していた。勝手に民家に侵入することすら禁止され、「右足を民家に入れた者は右足を切る」といった厳罰主義でもって規律維持に当たったといわれる。一方で清朝軍の方が賊軍らしく不正略奪行為を行なっていたという。 太平天国は中国のほぼ半分を占領、ついには南京を天京と改称して首都としたが、1864、湘軍(清朝の武装集団)の猛烈な攻撃の下で天京城は攻め落とされ、太平天国は滅亡した。僅か13年間の栄華だった。
その後植民地化が始まり、日清戦争(1894-1895)で日本に敗れたことにより列強による植民地化が進行する。これを契機に、満州人の支配に対する漢族の革命運動が各地で起こり、その結果、1911年の辛亥革命を契機として翌1912年に中華民国が成立(直後に清朝は消滅)した。
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清国の滅亡
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まず1854年、冊封国暹羅が朝貢を廃止し勝手に開国した。1872年、日本の琉球処分により冊封国「琉球」を失った。1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対抗し対「越南」(ベトナム)宗主権を維持しようとして起こした清仏戦争(- 1885)によって冊封国「越南」を失い、「緬甸」(ミャンマー)はイギリスにより英緬戦争で併合された。朝鮮に対しては宗主国として内政に干渉していたが、日清戦争(1894-1895)で敗北し、下関条約によって、朝鮮が「自主国」であることを承認させられ、建国以来もっていた冊封国「朝鮮」に対する影響力も失った。まさに「惨め」である。
1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる「義和団」が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンに掲げて外国人を攻撃しつつ北京に進撃した。翌1900年、西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京駐留を認める北京議定書を結ばされた。こうして清の半植民地化はますます進んだ。
その後、義和団の乱の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、1908年、憲法発布・議院開設を約束し、1911年5月には軍機処を廃止して内閣を置いたが、慶親王内閣が「皇族内閣」と批判され清朝は求心力を失い、漢民族の孫文らの革命勢力が中国などにおいて次第に清朝打倒運動を広げていた。10月、辛亥革命が起こり、モンゴルにおいても、12月に独立運動がおこった。 翌1912年、中国の南京で「中華民国」が樹立され、ここに清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡した。
※ 冊封国(さくほうこく)とは、前近代の東アジアで中国王朝を中心とした冊封体制の下で、中国王朝を宗主国とした従属国のこと。朝貢国、藩属国、服属国、附庸国などとも言う。
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中華民国の誕生
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1911年、清朝が打倒されて古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家である中華民国(現在の台湾)が樹立された。 臨時大総統に革命家の孫文(そんぶん)が就任する。 しかし、それが中国全土を統治していたわけではなく、実際は他に幾つもの自称「政府」が乱立していた。そしてその「政府」たちは、互いに他を「偽政府」と罵り合い、内戦を繰り返していた。 孫文は「日本と連携して近代的な独立国家の中国をつくろうとした」が、清朝の軍人、袁世凱(えんせいがい)の陰謀により、新政府は乗っ取られる。 中国の歴史は、李登輝・台湾元総統の言葉を借りれば、常に「騙す者と、騙される者」の歴史である。中国『六韜』(りくとう)と呼ばれる歴史書が有名で、これは一言でいえば、「いかにして人を騙すか」ということが趣旨になっている。
袁世凱は、崩壊寸前の清朝から孫文を討つために遣わされて来たが、こともなげに清朝を裏切り、新政府の乗っ取りを謀った。新政府の弱体さに悩んでいた孫文は、やむなく袁世凱に大総統の地位を譲ってしまった(1912)。 かつて日本の明治維新の推進者たちは、私利私欲では決して動かず、大局を観て、国家の未来だけを想っていた。しかし中国では「利害次第でどうにでも動く人々」が大勢を占めていた。 あの関東軍の石原莞爾も、孫文の中華民国政府が誕生し心から喜んだ一人だったが、孫文の袁世凱への政権委譲を聞いて落胆し、「漢民族に近代国家を建設するのは不可能だ」と語った。この時、中国での維新を目指し「中国人による中国人のための近代的中国」をつくろうとしてきた日本の「大東亜共栄圍構想」は、実質的に「頓挫」した。こうして、近代中国の独裁政権による歴史が開始された。
孫文
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中国の手口
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袁世凱は、中国の伝統的手法「夷(い)をもって夷を制す」(敵勢力同士を対立させ戦わせて力をそぎ、自己の延命をはかること)を実践し、西欧列強と日本を対立させ、さらに嘘とデマゴーグにより反日運動を展開する。 さらにそこには「中華思想」(中国は世界の中心であり最高であるという根拠無き独善的思想)があり、西洋人に対するテロや、焼き討ち、虐殺といった事件が多数起こされた。 しかし、中国人のそうした排外運動は、やがて西洋人よりも、「とくに日本人に対して」向けられるようになる。なぜなら、西洋が排外運動を強圧的に封じ込めたのに対し、日本はそれをしなかったからである。 台湾の歴史家 黄文雄氏は「自分の敵わない相手とみるや、とことん従順になるのが中国人の特性である」と語っている。 1926年には、反英運動が広まるなかイギリスの商船が中国側に拿捕されたが、その時イギリスは、砲艦二隻を派遣し、砲撃の末、町を徹底的に破壊した。 これにより反英運動は消滅した。
日本の中国での行動は、暴虐な西洋諸国に比べると、あまりに誠実だった。 西欧列強の軍隊が占領した地域では「白人至上主義」により、住民への略奪、暴行、殺人が繰り返されていたが、日本軍の占領地域では、ほぼ完璧なまでに治安が維持され、住民の救済も周到に行なわれていた。日本には、「弱きを助け強きをくじく」という伝統的美徳があるが、中国人にはこれが理解できず「単に弱者は弱味があるから弱者である」と解釈する。 中国の文豪・魯迅(1881-1936)も、「中国人は、相手が弱いとみるや、その弱みにつけこむ民族だ」と嘆いている。 中国にとって米国は昔も今も大きな敵であるが、米国は日本のように「理由も無く謝り引き下がらない」ので、中国で反米運動は燃え上がらない。 そして反日運動を利用して「国内の不満を外に向け」中国政府への不満のガス抜きをする。
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中国共産党の歴史
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1921 中国共産党結成 コミンテルン(ソ連の共産主義革命組織)の主導により、毛沢東らが各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で結成された。 中華民国の統治期には、中国国民党と時に協力し(1924年の第一次国共合作)、時に敵対した(1927年の蒋介石による上海クーデターにより国共分裂)。
孫文の作った「中国国民党」は、孫文亡き後、蒋介石(しょうかいせき)が継いだが、国民党もひどい内戦を繰り返し、分裂していく。しかしそこから分かれた汪兆銘(おうちょうめい)が、中国の未来を考え、1940年親日政権(南京政府)を樹立した。 汪兆銘は、当初は反日家だったが、国民党内では蒋介石より人望があり、孫文の「三民主義」を継承し、日本と中国の協力により東アジアに平和と安定と繁栄を築けると信じていた。 日中戦争(1937-1945)は、大東亜戦争終結までの8年間と言われているが、実際には日中の戦闘は1年半あまりで終結し、日本軍はそれ以上進攻せず、占領地域でのインフラ建設や、経済建設に集中した。 その支配地域では、経済、財政、物価、治安が安定し、鉄道も作られ、民衆の生活は他と比べると天国と地獄ほどの差があった。
毛沢東は一農村に拠点を置いて活動していた。これは、当時の中国の人口の圧倒的多数を占めるのは農民であり、農民の支持なくして革命の実現はありえなかったためである。また、都市部が国民党に押さえられていたため、共産党の活動拠点は山奥の華中や華南の農山村地域にならざるをえなかった。1931年、毛沢東らは江西省瑞金において「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立した。 しかし共産党軍は、中国国民党軍の包囲攻撃に抵抗することができず、1934年には中央根拠地を放棄して逃避行を始めた。
日中戦争・大東亜戦争 における日本の敗戦は、毛沢東率いる「中国共産党」の謀略によるところが大きい。日中戦争は、当初日本軍優位に進み、日本軍は多くの都市を占領したが、各拠点支配はできても、広大な中国において面での支配はできず、これを利用した国民党軍・共産党軍ともに 各地でゲリラ戦を行い日本軍を疲弊させた。 国民党政府は連合国側に所属し、アメリカやイギリスなどから豊富な援助を受けることとなった(援蒋ルート)。そのため、日本は、長期間にわたり100万以上の兵力を中国大陸に貼り付けて置かねばならなかった。 中共軍の実態と言えば、全く、匪賊、山賊のような存在であり、蒋介石の国民党軍によって山奥に追いやられていたが、しかしいつもスルリと逃げられていた。それは、蒋介石の軍事顧問となっていたドイツ軍人の中に、実は共産党コミンテルンのソ連スパイが紛れ込んでおり、上海に居るリヒャルト・ゾルゲに情報を流していたためだと言われている。その手足になっていたのが、日本人・尾崎秀積や中西功らの「中共諜報団」だった。(WiLL 2011/3号 P31)
1927 南京事件 蒋介石の国民革命軍が南京を占領した際に起きた日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃事件。 反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日本領事館も襲撃され、暴行や掠奪、領事夫人が陵辱されるという事態となった。この事件はあえて外国の干渉をさそって蒋介石を倒す共産党側の計画的策謀といわれている。
1945年に日本が第二次世界大戦で敗北すると、それまでの中国国民党との妥協的態度から、ソ連の後押しで国民政府打倒共産党政権設立に動いた。 満州を占領したソ連の後押しで東北から南下して国民党軍を圧倒し、最終的には国民政府を倒して中華人民共和国を建国した。国民党政府は台湾へ遷都した。
蒋介石は当初、日本と戦う気は無かったが、西安にて潜んでいた際 中共兵に捕らえられ捕虜となってしまう(西安事件・1936)。 そこに、ソ連のモスクワにある「コミンテルン」(国際共産主義運動)本部から、「蒋介石を殺さず日本軍と戦わせよ」との指令が下された。 中共軍は、中国の伝統的手法「夷(い)をもって夷を制す」を実践し、生き残りを謀った。 毛沢東は蒋介石に、「命を助けてやるから、お前は日本軍と戦え」と告げると、蒋介石は「ならば共産軍も国民党軍と一緒に日本と戦え」と告げる。こうして、いわゆる「国共合作」が実現した。
蒋介石が、敵を中共軍から日本軍に変更したことは、彼の人生において最大の過ちといっていいだろう。 なぜならば、そのために彼は後に共産軍に負け、中国大陸から逃げ出して、泣きながら「台湾」に渡らねばならないはめになったからである。 また、これは単に彼の過ちだったというだけでなく、中国の歴史にとって極めて不幸なことだった。「国共合作」といっても実際は共産軍はほとんど何もせず、日本軍と戦ったのは(米国に手引きされた)蒋介石だけだった。一方で日本軍は、中国で多くの戦力を釘付けにされるなど、苦しい状況に落ち込まされた。 国民党軍が日本と戦っている間に、中共軍は力を回復し、やがて日本が中国大陸から去った後に国民党軍を打ち負かすことになる。 その結果、中国は近代的国家になるどころか、ついに独裁的な共産国家となってしまった。
蒋介石
1949 中華人民共和国建国 が北京で宣言されたが、党内部では路線闘争、権力闘争は絶えず、安定的に発展することはできなかった。 当初、ソ連をモデルとして社会主義建設が始まったものの、1956年のスターリン批判以降はソ連共産党との関係が悪化、武力衝突までに至った。 建国直後にはチベットを侵略、その後そこで核実験を繰り返し、チベットの純朴な民と美しい郷里を破壊した。その民族壊滅作戦は現在も継続されており、強制連行、強制労働、過労死、拷問死させることにより、数十年後にはチベットとその文化と民族は完全に消滅する。
1958-1960 大躍進政策 数年間で経済的に米英を追い越すことを目的に、毛沢東が施行した農工業の大増産政策。農村の現状を無視した強引なノルマを課し、推計2000万人から2億人ともいわれる餓死者を出し大失敗に終わり、その結果、毛沢東は自己批判を行って国家主席を辞任した。 その内容はこれ失笑以外の何物にも換え難い。 鉄鋼の増産が要とされ、農民までもが駆り出され、労力は鉄作りに費やされる。原始的な溶鉱炉で、薪や藁が燃やされ、「鍋や鋏」まで溶かされた。 これではご飯も作れないし髪も何も切れない。生活用品まで溶かせば生活できなくなるのは当たり前だ。 農地は共有され、労働意欲も失われた。しかし共産党からの絶対命令だからやらないわけには行かない。その結果、田畑は荒廃し、鉄製品をみんな駄目にして、さらに良い結果を報告しなければならないから、多くの畑で取れた収穫物を一箇所に集め、収穫高を多く見せかけた。 これでは皆さんが餓死してしまうのも当然だ。 それを「党の命令は失敗だった」などと言えば反乱分子と見做されて粛正される。 これが、毛沢東さんの大躍進政策の実態である。 失笑。
労力は鉄作りに費やされ、田畑は荒廃し、多くの餓死者を出した。
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文化大革命という笑劇
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1965-1975 文化大革命 党内から冷遇されながらもそれに耐えていた毛沢東はついに紅衛兵※を味方に党に牙を剥いた。「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という名目で行われた改革運動。 しかしその実態は、大躍進政策の大失敗から失脚した毛沢東が、「劉少奇(りゅうしょうき)からの政権奪還を目的として自らの実権を回復するために発動した」反政府運動。 毛の指示に基づいて林彪(りんぴょう)が主導して開始されたとされている。これが大衆を巻き込んだ大粛清へと発展、「国内の主要な文化の破壊と経済活動の長期停滞をもたらす」国家的大惨劇となった。 これまで政治的な発言が制限されてきた民衆の欝憤が一気に爆発した。当初は事業家などの資本家層が、さらに学者、医師、弁護士などの知識人等が弾圧の対象となった。多くの人材や文化財などが破壊された。
文化大革命による行方不明者を含めた犠牲者数は、推計で1000万以上と言われ、これらの政策によって中華人民共和国の経済発展は、30年遅れたと言われている。 その後、林彪と毛沢東の間に対立が生まれ、1971年、毛沢東後継者と憲法にまで規定された林彪らは毛沢東暗殺を画策するも失敗し(林彪事件)、林彪は飛行機でソ連へ逃亡途中、モンゴルで暗殺される。この事件を切欠として考え始める者もあらわれたが、その後も「四人組」を中心として、毛沢東思想にもとづく独自の社会主義国家建設を目指し、文革は進められた。 犠牲者数については、大躍進政策等と合わせて3000万人程度となった(餓死者除く)とされている。 毛沢東批判さえしなければ、共産党ですら批判してもよいということになり、大躍進の失敗後、国家主席として経済の調整に取り組んできた劉少奇(リュウショウキ・しかも彼の政策により、国家は確実に快方へと向かっていた)がこの混乱期に紅衛兵に捕えられ、毛沢東による長い拷問の末、獄死。 劉を手助けした鄧小平(とうしょうへい)も失脚させられ、地方で労役に従事させられた(1973年に復帰)。
※ 紅衛兵(こうえいへい)は、中華人民共和国の文化大革命時期に台頭した全国的な青年学生運動。 1950年代の人民公社政策や大躍進運動の失敗によって実権を失っていた毛沢東は 1965年から実権派に対する奪権を目指し、文化大革命を計画。1966年には各中学の学生が秘密学生組織を相次いで設立した。
紅衛兵の告白: 毛主席を見た紅衛兵たちは興奮して天安門に殺到した 怖かったよ もし転んでいたら、大勢に踏まれて死んでいただろう 文革は崇高な世界をつくるためだと思った 我々は文革に積極的に参加して、命がけで悪者を退治すると誓った 偉大な事業に身を捧げることはずっと憧れだった やっとその時が来たんだともう夢中になった 毛主席に従うことこそ、正しい道であり、生甲斐だった 最初に手を出したのは王さんだ あの頑丈な軍用ベルトで、殴るたびにもの凄い音を立てていた 打たれた背中は血まみれになっていた 市のトップたちが腕をねじ上げられていた コートを逆に着せられて看板を首に吊るされた トラックで市内を引き回されていた 最初は棒や石で戦っていたが、そのうち銃や機関銃などの武器を使うようになった 遺体展示会が開かれた 壁新聞は国家主席を妖怪だ、と書いた 何を信じていいか分からなくなった 劉少奇は最大の走資派で、鄧小平は2番目だ、と書いてあった 「人民日報」は党の新聞だから、それが正しいことだと信じていた 捕虜が殴られるのを見た 固く縛り上げられて鉄の棒で殴られていた そして銃殺された 殴り殺された人が道に転がっていた でもみんな怖くてどうにもできない 手を出せば敵と見做されて銃撃される 建物の中に入ってみると身の毛が弥立つようだった 最上階は監獄だった 人1人がやっと横になれるくらいの場所に監禁されていた 茶碗には食事が残されていたがただのゴミにしか見えなかった
望みをかけて育てた子に密告される親 も多数あった 江青は劉少奇打倒を呼び掛け、破壊的路線は加速した
「紅五類」(労働者、貧農・下層中農、革命幹部、革命軍人、革命烈士、およびその子女)であり紅衛兵団体の加入認証を得た者が紅衛兵となる。対して地主、富豪、反動分子、悪質分子、右派分子、およびその子女は「黒五類」とされ、出身のみの理由で吊るし上げの対象となった。親が黒五類であることを告発・糾弾して、出身にも関わらず紅衛兵となった例もあった。
北京の紅衛兵は「破四旧」(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣の打破)を叫んで街頭へ繰り出し、毛沢東語録を手に劉少奇や鄧小平に代表される実権派、反革命分子を攻撃した。 ジーンズをはいた若者を取り囲んで服を切り刻んだり、老舗の商店や、仏像など、貴重な文化財を片っぱしから破壊し、果ては多くの人々に暴行を加え死傷させた。主席毛沢東は「造反有理(造反にこそ道理あり)」として支持を表明した。のちにこの言葉に「革命無罪(革命に罪なし)」が付随した。
毛沢東は、全国から上京してきた紅衛兵延べ1,000万人と北京の天安門広場で会見し、紅衛兵運動は全国に拡大する。しかし、紅衛兵運動は派閥に分裂し、大規模な武闘を繰り返すようになり、毛沢東にも統制できなくなった。 最終的には毛沢東の父が富農だったことを批判する壁新聞まで出現し、もはや毛沢東すら紅衛兵をコントロールできない事が明らかになってしまった。 1968-1969年、「知識青年上山下郷運動」(下放)が展開され、その後、1968年からおよそ10年間に渡り農村支援の名目のもとに約1600万の中学卒業生が農村や辺境に追放された。
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新たな謀略・下放
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劉少奇の自由化政策によって経済は持ち直したが、毛沢東と江青は紅衛兵を利用して劉を獄死させ、権力を奪還した。 しかしその結果、都市の混乱は極限に達し、もはや誰にも紅衛兵をコントロールすることはできなかった。 そこで毛沢東は、「下放」という新たな策略を打ち出す。 「若者よ農村へ行け、そこで貧しい農民に学べ」そして再び惨劇は起った。 1600万人ともいわれる青年の多くは、「毛主席に奉仕するため」として熱狂的に「下放」に応じた。それは、戸籍も都市から農村へと移される、片道切符の旅立ちだった。 「都市と農村の格差撤廃という共産主義のスローガンの影響と、都市部の就職難を改善させる目的」から、半強制的な性格かつ永住を強制する措置として行われ、「頭上にはバナナ、足元にはパイナップルが実っている、牛乳は飲み切れず入浴に使う」と聞かされた。 やがて若者たちは、想像とはかけ離れた現実に直面する。「こんなところに一生暮らすのか」みんな黙りこんでしまった。 農業の専門家でもないのに農法や政治思想について農民たちにあれこれ指示しようとした学生たちは、識字率も低く古くからの意識や因習を残す農村の人々の反発を受け、現地になじむことはできなかった。農村には都市のような娯楽も高等教育もなく、家族や都市を懐かしみ脱走しても、強制送還された。
下放される青年たち 汽笛が鳴ると、あちこちで泣き声が上がった もちろん泣いたよ、永遠の別れだと思ったから
しかし記録映画では喜んでいるようにしか見えない
この政策によって、中華人民共和国では大学が1972年ごろまで閉鎖され、多くの青年層が教育の機会を失った。また、大学再開後も入学試験は行われず、青年層は農村に下放されたため専門知識を持つ人材の育成は大きく遅れた。このために、中国の教育システムならびに学術研究分野は後継者を育てることができず崩壊し、下放を受けた世代は無学歴・低学歴という状況が顕在化した。また、この政策によって中国の経済発展がいちじるしく停滞したと言われている。 この政策により都市における失業や就業圧力は一時的に緩和したが、紅衛兵とそれに続く「貧困農村での再教育」は多くの若者の精神を荒廃させ、無数の家庭を離散させた。
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離陸した中国は世界制覇へ
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「内部問題とソ連との敵対関係」で危機感を強めた政権は、1972年アメリカ合衆国大統領ニクソンの訪中を受け入れた。 しかし、ニクソン訪中の真の目的は単に中ソ戦略にあり、そんなことは外から見ていれば20代の若者でもすぐに分かることだった。しかしそこで日本は「日本抜きの米中接近が図られるのではないか」と勝手に勘違いし、慌てて中国へと向かった。 同年、田中角栄が、日中国交正常化 に調印。同時に台湾との国交を断絶。戦後台湾と築いてきたものを一瞬にしてどぶに捨て、一方的に中国共産党の延命に協力することになった。(WiLL 2011/3号 P33)
1976年 最高権力者・毛沢東が死去すると、文化大革命推進派は力を失い、毛沢東の妻・江青など文革派の「四人組」は逮捕され、華国鋒体制が成立し、1977年には文革の終結が宣言された。
1981 4人組裁判 江青らは晴れて死刑に 民衆はパレードをもって歴史的瓦解を祝った
中華人民共和国は、毛沢東時代(1949-1978)と鄧小平時代(1978年-)に分類される。 1978年第11期三中全会で鄧小平が政権を握った。 鄧小平は、政治体制は共産党一党独裁を堅持しつつ、資本主義経済導入などの「改革開放政策」を取り、近代化を進めた。この結果、香港ほか日米欧などの外資の流入が開始され、中国経済は離陸を始めた。 1989年には北京で、1980年代の改革開放政策を進めながら、抗議者からの異議を寛大に取り扱っていたために失脚していた胡耀邦(こようほう)の死を悼み、民主化を求める学生や市民の百万人規模のデモ(天安門事件)が起きたが、これは政府により武力鎮圧された。その犠牲者数は、数百人から数万人に上るといわれている。 引退した中国の核心的ブレーンや複数の共産党幹部は「動乱は必ず起こる。そう遠くない将来にだ」と発言したとされ、体制内の人間たちも現在の中国に危機感を抱いていることが明らかとなった。
2002年の第16回党大会では、公式に胡錦濤(こきんとう)体制への転換が完了した。 胡錦濤は、鄧小平(とうしょうへい)によって49歳の若さで党中央政治局常務委員に抜擢され、チベット民族虐殺・侵略の首謀者として知られる。鄧小平は、天安門事件で民主化を望む民衆を戦車で轢き殺した。 中国共産党次期総書記は、ウイグル・ウルムチ虐殺事件の責任者とされている、習近平(しゅうきんぺい)である。 彼は、2009年に外遊先のメキシコで、「腹がいっぱいになって暇になった外国人がわれわれの欠点をあれこれあげつらっている」、「中国は革命も輸出せず、飢餓や貧困も輸出せず、外国に悪さもしない。これ以上いいことがあるか」と述べた。 つまり、「欧米に飴を与えてサービスしているのだからとやかく言うな」 と言うわけである。 しかし、その飴は、ウイグルやチベット民族の血と涙から出来ているので、良いわけは無い。
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昨日のチベット、今日のウイグル、明日の台湾、明後日の日本
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今世紀、まもなく中国は、確実に世界の覇権を握るだろう。 そして既に、あらゆる面で日本は搾取されている。たとえば、中国は、国益のため廃液を垂れ流し、国土を汚し、大気を汚し、河川を汚している。 そして今後懸念される世界的な「水不足」対策の為に 北海道や紀伊山地の原生林をバンバン買い漁っている。 さらには、中国大使館が南麻布の一等地を落札し、自衛隊基地を一望できる高台などを狙っている。 こうした事態の予兆とも言うべき動きが、東北唯一の政令指定都市、仙台で繰り広げられた。 市内の国鉄跡地15000平米の再開発事業に、中国直系のファンドが買収の名乗りを挙げた。 仙台市は当初、この構想に乗り気だった。しかし当時の市長、梅原克彦氏がこれを却下するという英断を下したため事無きを得たが、これを仙台は理解できず、梅原氏はついに再選に打って出ることができなかった。
現在、「新疆(しんきょう)ウイグル自治区」とされているところは、「東トルキスタンという国家だった」ところである。 「新疆」というのも地名ではなく、「新しく支配した辺境」という意味である。 「東トルキスタン」は、ごく短期間、清朝の末期(明治15年)に支配されたことがあるが、清朝滅亡後の1933年には、独立を回復した。しかも、清朝は漢人の王朝ではない満州人の王朝であるので、「東トルキスタン」は、中国の一部ではない。 さて、1949年、中華人民共和国建国と同時にチベットとともに東トルキスタンも侵略された。その後、主に中国の犯罪者や入植部隊がその地に投入され、いまではその侵略によって、人口比率は逆転している。 入植者には、良好な土地が優先的に配分され!独占的な地位を保証されている。 そして部隊は、ロシアとの国境付近に集中的に配置され、そこにある天山山脈は、豊かな水源地帯でもある。 つまり、中共は、ロシアへの防備を固めると同時に、東トルキスタンの水源を制圧することを目的としている。 『漢人を大量に送り込み、都市と水源を確保する』 これこそが、中国がわずか60年で、東トルキスタンを掌握した作戦の要諦である。(WiLL 2011/10号 P90)
菅直人は、辞任直前の8/10、中国向け観光ビザの発給に関しさらなる緩和措置を発表した。 従来はそこに所得制限があったが、それを撤廃するうえに、滞在可能期間も延長させた。辞職を目前に控えたドサクサを狙った政治手法はほとほと姑息かつ悪辣で、中国の子分、朝鮮人の人間性が滲み出ている。 そもそも民主党というのは「日本を切り売りして中韓朝が権益を得ることを目的とする売国政権」である。 中国が、というよりも、「与党・民主党の陰謀に我々日本国民が気付かず騙されてしまうこと」が問題なのだ。 ある者は「日本は既に米国に支配されている、中国に支配されても大家が変更されるだけだ」と笑うが、中華食人欺瞞国とその人民の実態をぜんぜん知らないで言っているので、ゲンナリする。 すべてが万事この調子で、今後、我々大和民族は、更に落ちぶれ チベット、ウイグル、モンゴル、台湾に続いて、こいつら中国の下僕となる予定である。
東日本大震災 都市伝説 sengoku38 GHQ 在日 蓮舫 中国共産党 侵略 チベット ウイグル 民主党 口蹄疫 虐殺 尖閣諸島 テロ AKB48 福島原発 ぺ・ヨンジュン
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偉人・毛沢東さん
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中国近代史年表
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1368-1644 明朝 万里の長城以南の中国は明に統一される 江南から誕生した王朝が中国を統一したのは明が唯一である
1644-1912 清国 満州族がつくった中国を支配した最後の統一王朝
1840-1842 アヘン戦争
1850-1864 太平天国 このころ、ヨーロッパ諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった
1872 日本の琉球処分により冊封国「琉球」を失う
1894 日清戦争 朝鮮半島領有権をめぐる戦争
1895 下関条約締結 日清戦争に勝利し下関条約で朝鮮の独立を認めさせた
1900 義和団の乱
1904 日露戦争 朝鮮半島領有権をめぐる戦争
1910-1945 日韓併合時代
1911 辛亥革命 翌12年、中華民国(現在の台湾)が樹立、清朝が打倒される
1921 中国共産党結成
1931 満州事変 翌年、満洲国建国
1936 西安事件
1937 盧溝橋事件(中共軍が国民党軍と日本軍を戦わせるために日本軍を攻撃した)
1937-1945 大東亜戦争(太平洋戦争)
1941-1945 日中戦争
1948 韓国/北朝鮮建国(朝鮮分裂)
1949 中華人民共和国建国
1950-1953 朝鮮戦争 朝鮮半島の主権を巡って共産圏側が軍事境界線を越えて韓国に侵攻
1958-1960 大躍進政策
1965-1975 文化大革命
1972 田中角栄が、日中国交正常化に調印
1976 毛沢東が死去 同年、その妻・江青が逮捕される
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アヘン戦争
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当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に輸入していたが、中国に輸出する商品を欠いており、毎年大幅な貿易赤字となっていた。これに対しイギリスは、アメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、インドの植民地で栽培した麻薬アヘンを中国に輸出することで三角貿易を成立させた。 清は1796年にアヘンの輸入を禁止したが、アヘン密貿易は年々拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになった。 アヘン密輸によって莫大な利益を得ていたイギリスはこの機会に武力でアヘン密貿易の維持と開国をさせる決意を固め、翌1840年、清国沿岸に侵入しアヘン戦争を起こした。
1850 太平天国の乱 キリスト教の信仰を紐帯とした組織「太平天国」によって起こされ、内乱終結時には史上最も犠牲者の多い内乱として記録された。 アヘン戦争の余波により、多くの匪賊が横行し、これらを太平天国が吸収した。 太平天国とは、中国の歴史の上で初めて理想的な共産主義社会を実現した国家である。 共産主義国家であるため、太平天国の国民は私有財産を持たず、婚姻などという封建的な制度も存在しなかった。 軍は流賊的ではあったが、匪賊を吸収しても軍内の規律は厳正で高いモラルを有していた。勝手に民家に侵入することすら禁止され、「右足を民家に入れた者は右足を切る」といった厳罰主義でもって規律維持に当たったといわれる。一方で清朝軍の方が賊軍らしく不正略奪行為を行なっていたという。 太平天国は中国のほぼ半分を占領、ついには南京を天京と改称して首都としたが、1864、湘軍(清朝の武装集団)の猛烈な攻撃の下で天京城は攻め落とされ、太平天国は滅亡した。僅か13年間の栄華だった。
その後植民地化が始まり、日清戦争(1894-1895)で日本に敗れたことにより列強による植民地化が進行する。これを契機に、満州人の支配に対する漢族の革命運動が各地で起こり、その結果、1911年の辛亥革命を契機として翌1912年に中華民国が成立(直後に清朝は消滅)した。
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清国の滅亡
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まず1854年、冊封国暹羅が朝貢を廃止し勝手に開国した。1872年、日本の琉球処分により冊封国「琉球」を失った。1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対抗し対「越南」(ベトナム)宗主権を維持しようとして起こした清仏戦争(- 1885)によって冊封国「越南」を失い、「緬甸」(ミャンマー)はイギリスにより英緬戦争で併合された。朝鮮に対しては宗主国として内政に干渉していたが、日清戦争(1894-1895)で敗北し、下関条約によって、朝鮮が「自主国」であることを承認させられ、建国以来もっていた冊封国「朝鮮」に対する影響力も失った。まさに「惨め」である。
1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる「義和団」が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンに掲げて外国人を攻撃しつつ北京に進撃した。翌1900年、西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京駐留を認める北京議定書を結ばされた。こうして清の半植民地化はますます進んだ。
その後、義和団の乱の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、1908年、憲法発布・議院開設を約束し、1911年5月には軍機処を廃止して内閣を置いたが、慶親王内閣が「皇族内閣」と批判され清朝は求心力を失い、漢民族の孫文らの革命勢力が中国などにおいて次第に清朝打倒運動を広げていた。10月、辛亥革命が起こり、モンゴルにおいても、12月に独立運動がおこった。 翌1912年、中国の南京で「中華民国」が樹立され、ここに清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡した。
※ 冊封国(さくほうこく)とは、前近代の東アジアで中国王朝を中心とした冊封体制の下で、中国王朝を宗主国とした従属国のこと。朝貢国、藩属国、服属国、附庸国などとも言う。
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中華民国の誕生
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1911年、清朝が打倒されて古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家である中華民国(現在の台湾)が樹立された。 臨時大総統に革命家の孫文(そんぶん)が就任する。 しかし、それが中国全土を統治していたわけではなく、実際は他に幾つもの自称「政府」が乱立していた。そしてその「政府」たちは、互いに他を「偽政府」と罵り合い、内戦を繰り返していた。 孫文は「日本と連携して近代的な独立国家の中国をつくろうとした」が、清朝の軍人、袁世凱(えんせいがい)の陰謀により、新政府は乗っ取られる。 中国の歴史は、李登輝・台湾元総統の言葉を借りれば、常に「騙す者と、騙される者」の歴史である。中国『六韜』(りくとう)と呼ばれる歴史書が有名で、これは一言でいえば、「いかにして人を騙すか」ということが趣旨になっている。
袁世凱は、崩壊寸前の清朝から孫文を討つために遣わされて来たが、こともなげに清朝を裏切り、新政府の乗っ取りを謀った。新政府の弱体さに悩んでいた孫文は、やむなく袁世凱に大総統の地位を譲ってしまった(1912)。 かつて日本の明治維新の推進者たちは、私利私欲では決して動かず、大局を観て、国家の未来だけを想っていた。しかし中国では「利害次第でどうにでも動く人々」が大勢を占めていた。 あの関東軍の石原莞爾も、孫文の中華民国政府が誕生し心から喜んだ一人だったが、孫文の袁世凱への政権委譲を聞いて落胆し、「漢民族に近代国家を建設するのは不可能だ」と語った。この時、中国での維新を目指し「中国人による中国人のための近代的中国」をつくろうとしてきた日本の「大東亜共栄圍構想」は、実質的に「頓挫」した。こうして、近代中国の独裁政権による歴史が開始された。
孫文
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中国の手口
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袁世凱は、中国の伝統的手法「夷(い)をもって夷を制す」(敵勢力同士を対立させ戦わせて力をそぎ、自己の延命をはかること)を実践し、西欧列強と日本を対立させ、さらに嘘とデマゴーグにより反日運動を展開する。 さらにそこには「中華思想」(中国は世界の中心であり最高であるという根拠無き独善的思想)があり、西洋人に対するテロや、焼き討ち、虐殺といった事件が多数起こされた。 しかし、中国人のそうした排外運動は、やがて西洋人よりも、「とくに日本人に対して」向けられるようになる。なぜなら、西洋が排外運動を強圧的に封じ込めたのに対し、日本はそれをしなかったからである。 台湾の歴史家 黄文雄氏は「自分の敵わない相手とみるや、とことん従順になるのが中国人の特性である」と語っている。 1926年には、反英運動が広まるなかイギリスの商船が中国側に拿捕されたが、その時イギリスは、砲艦二隻を派遣し、砲撃の末、町を徹底的に破壊した。 これにより反英運動は消滅した。
日本の中国での行動は、暴虐な西洋諸国に比べると、あまりに誠実だった。 西欧列強の軍隊が占領した地域では「白人至上主義」により、住民への略奪、暴行、殺人が繰り返されていたが、日本軍の占領地域では、ほぼ完璧なまでに治安が維持され、住民の救済も周到に行なわれていた。日本には、「弱きを助け強きをくじく」という伝統的美徳があるが、中国人にはこれが理解できず「単に弱者は弱味があるから弱者である」と解釈する。 中国の文豪・魯迅(1881-1936)も、「中国人は、相手が弱いとみるや、その弱みにつけこむ民族だ」と嘆いている。 中国にとって米国は昔も今も大きな敵であるが、米国は日本のように「理由も無く謝り引き下がらない」ので、中国で反米運動は燃え上がらない。 そして反日運動を利用して「国内の不満を外に向け」中国政府への不満のガス抜きをする。
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中国共産党の歴史
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1921 中国共産党結成 コミンテルン(ソ連の共産主義革命組織)の主導により、毛沢東らが各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で結成された。 中華民国の統治期には、中国国民党と時に協力し(1924年の第一次国共合作)、時に敵対した(1927年の蒋介石による上海クーデターにより国共分裂)。
孫文の作った「中国国民党」は、孫文亡き後、蒋介石(しょうかいせき)が継いだが、国民党もひどい内戦を繰り返し、分裂していく。しかしそこから分かれた汪兆銘(おうちょうめい)が、中国の未来を考え、1940年親日政権(南京政府)を樹立した。 汪兆銘は、当初は反日家だったが、国民党内では蒋介石より人望があり、孫文の「三民主義」を継承し、日本と中国の協力により東アジアに平和と安定と繁栄を築けると信じていた。 日中戦争(1937-1945)は、大東亜戦争終結までの8年間と言われているが、実際には日中の戦闘は1年半あまりで終結し、日本軍はそれ以上進攻せず、占領地域でのインフラ建設や、経済建設に集中した。 その支配地域では、経済、財政、物価、治安が安定し、鉄道も作られ、民衆の生活は他と比べると天国と地獄ほどの差があった。
毛沢東は一農村に拠点を置いて活動していた。これは、当時の中国の人口の圧倒的多数を占めるのは農民であり、農民の支持なくして革命の実現はありえなかったためである。また、都市部が国民党に押さえられていたため、共産党の活動拠点は山奥の華中や華南の農山村地域にならざるをえなかった。1931年、毛沢東らは江西省瑞金において「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立した。 しかし共産党軍は、中国国民党軍の包囲攻撃に抵抗することができず、1934年には中央根拠地を放棄して逃避行を始めた。
日中戦争・大東亜戦争 における日本の敗戦は、毛沢東率いる「中国共産党」の謀略によるところが大きい。日中戦争は、当初日本軍優位に進み、日本軍は多くの都市を占領したが、各拠点支配はできても、広大な中国において面での支配はできず、これを利用した国民党軍・共産党軍ともに 各地でゲリラ戦を行い日本軍を疲弊させた。 国民党政府は連合国側に所属し、アメリカやイギリスなどから豊富な援助を受けることとなった(援蒋ルート)。そのため、日本は、長期間にわたり100万以上の兵力を中国大陸に貼り付けて置かねばならなかった。 中共軍の実態と言えば、全く、匪賊、山賊のような存在であり、蒋介石の国民党軍によって山奥に追いやられていたが、しかしいつもスルリと逃げられていた。それは、蒋介石の軍事顧問となっていたドイツ軍人の中に、実は共産党コミンテルンのソ連スパイが紛れ込んでおり、上海に居るリヒャルト・ゾルゲに情報を流していたためだと言われている。その手足になっていたのが、日本人・尾崎秀積や中西功らの「中共諜報団」だった。(WiLL 2011/3号 P31)
1927 南京事件 蒋介石の国民革命軍が南京を占領した際に起きた日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃事件。 反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日本領事館も襲撃され、暴行や掠奪、領事夫人が陵辱されるという事態となった。この事件はあえて外国の干渉をさそって蒋介石を倒す共産党側の計画的策謀といわれている。
1945年に日本が第二次世界大戦で敗北すると、それまでの中国国民党との妥協的態度から、ソ連の後押しで国民政府打倒共産党政権設立に動いた。 満州を占領したソ連の後押しで東北から南下して国民党軍を圧倒し、最終的には国民政府を倒して中華人民共和国を建国した。国民党政府は台湾へ遷都した。
蒋介石は当初、日本と戦う気は無かったが、西安にて潜んでいた際 中共兵に捕らえられ捕虜となってしまう(西安事件・1936)。 そこに、ソ連のモスクワにある「コミンテルン」(国際共産主義運動)本部から、「蒋介石を殺さず日本軍と戦わせよ」との指令が下された。 中共軍は、中国の伝統的手法「夷(い)をもって夷を制す」を実践し、生き残りを謀った。 毛沢東は蒋介石に、「命を助けてやるから、お前は日本軍と戦え」と告げると、蒋介石は「ならば共産軍も国民党軍と一緒に日本と戦え」と告げる。こうして、いわゆる「国共合作」が実現した。
蒋介石が、敵を中共軍から日本軍に変更したことは、彼の人生において最大の過ちといっていいだろう。 なぜならば、そのために彼は後に共産軍に負け、中国大陸から逃げ出して、泣きながら「台湾」に渡らねばならないはめになったからである。 また、これは単に彼の過ちだったというだけでなく、中国の歴史にとって極めて不幸なことだった。「国共合作」といっても実際は共産軍はほとんど何もせず、日本軍と戦ったのは(米国に手引きされた)蒋介石だけだった。一方で日本軍は、中国で多くの戦力を釘付けにされるなど、苦しい状況に落ち込まされた。 国民党軍が日本と戦っている間に、中共軍は力を回復し、やがて日本が中国大陸から去った後に国民党軍を打ち負かすことになる。 その結果、中国は近代的国家になるどころか、ついに独裁的な共産国家となってしまった。
蒋介石
1949 中華人民共和国建国 が北京で宣言されたが、党内部では路線闘争、権力闘争は絶えず、安定的に発展することはできなかった。 当初、ソ連をモデルとして社会主義建設が始まったものの、1956年のスターリン批判以降はソ連共産党との関係が悪化、武力衝突までに至った。 建国直後にはチベットを侵略、その後そこで核実験を繰り返し、チベットの純朴な民と美しい郷里を破壊した。その民族壊滅作戦は現在も継続されており、強制連行、強制労働、過労死、拷問死させることにより、数十年後にはチベットとその文化と民族は完全に消滅する。
1958-1960 大躍進政策 数年間で経済的に米英を追い越すことを目的に、毛沢東が施行した農工業の大増産政策。農村の現状を無視した強引なノルマを課し、推計2000万人から2億人ともいわれる餓死者を出し大失敗に終わり、その結果、毛沢東は自己批判を行って国家主席を辞任した。 その内容はこれ失笑以外の何物にも換え難い。 鉄鋼の増産が要とされ、農民までもが駆り出され、労力は鉄作りに費やされる。原始的な溶鉱炉で、薪や藁が燃やされ、「鍋や鋏」まで溶かされた。 これではご飯も作れないし髪も何も切れない。生活用品まで溶かせば生活できなくなるのは当たり前だ。 農地は共有され、労働意欲も失われた。しかし共産党からの絶対命令だからやらないわけには行かない。その結果、田畑は荒廃し、鉄製品をみんな駄目にして、さらに良い結果を報告しなければならないから、多くの畑で取れた収穫物を一箇所に集め、収穫高を多く見せかけた。 これでは皆さんが餓死してしまうのも当然だ。 それを「党の命令は失敗だった」などと言えば反乱分子と見做されて粛正される。 これが、毛沢東さんの大躍進政策の実態である。 失笑。
労力は鉄作りに費やされ、田畑は荒廃し、多くの餓死者を出した。
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文化大革命という笑劇
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1965-1975 文化大革命 党内から冷遇されながらもそれに耐えていた毛沢東はついに紅衛兵※を味方に党に牙を剥いた。「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という名目で行われた改革運動。 しかしその実態は、大躍進政策の大失敗から失脚した毛沢東が、「劉少奇(りゅうしょうき)からの政権奪還を目的として自らの実権を回復するために発動した」反政府運動。 毛の指示に基づいて林彪(りんぴょう)が主導して開始されたとされている。これが大衆を巻き込んだ大粛清へと発展、「国内の主要な文化の破壊と経済活動の長期停滞をもたらす」国家的大惨劇となった。 これまで政治的な発言が制限されてきた民衆の欝憤が一気に爆発した。当初は事業家などの資本家層が、さらに学者、医師、弁護士などの知識人等が弾圧の対象となった。多くの人材や文化財などが破壊された。
文化大革命による行方不明者を含めた犠牲者数は、推計で1000万以上と言われ、これらの政策によって中華人民共和国の経済発展は、30年遅れたと言われている。 その後、林彪と毛沢東の間に対立が生まれ、1971年、毛沢東後継者と憲法にまで規定された林彪らは毛沢東暗殺を画策するも失敗し(林彪事件)、林彪は飛行機でソ連へ逃亡途中、モンゴルで暗殺される。この事件を切欠として考え始める者もあらわれたが、その後も「四人組」を中心として、毛沢東思想にもとづく独自の社会主義国家建設を目指し、文革は進められた。 犠牲者数については、大躍進政策等と合わせて3000万人程度となった(餓死者除く)とされている。 毛沢東批判さえしなければ、共産党ですら批判してもよいということになり、大躍進の失敗後、国家主席として経済の調整に取り組んできた劉少奇(リュウショウキ・しかも彼の政策により、国家は確実に快方へと向かっていた)がこの混乱期に紅衛兵に捕えられ、毛沢東による長い拷問の末、獄死。 劉を手助けした鄧小平(とうしょうへい)も失脚させられ、地方で労役に従事させられた(1973年に復帰)。
※ 紅衛兵(こうえいへい)は、中華人民共和国の文化大革命時期に台頭した全国的な青年学生運動。 1950年代の人民公社政策や大躍進運動の失敗によって実権を失っていた毛沢東は 1965年から実権派に対する奪権を目指し、文化大革命を計画。1966年には各中学の学生が秘密学生組織を相次いで設立した。
紅衛兵の告白: 毛主席を見た紅衛兵たちは興奮して天安門に殺到した 怖かったよ もし転んでいたら、大勢に踏まれて死んでいただろう 文革は崇高な世界をつくるためだと思った 我々は文革に積極的に参加して、命がけで悪者を退治すると誓った 偉大な事業に身を捧げることはずっと憧れだった やっとその時が来たんだともう夢中になった 毛主席に従うことこそ、正しい道であり、生甲斐だった 最初に手を出したのは王さんだ あの頑丈な軍用ベルトで、殴るたびにもの凄い音を立てていた 打たれた背中は血まみれになっていた 市のトップたちが腕をねじ上げられていた コートを逆に着せられて看板を首に吊るされた トラックで市内を引き回されていた 最初は棒や石で戦っていたが、そのうち銃や機関銃などの武器を使うようになった 遺体展示会が開かれた 壁新聞は国家主席を妖怪だ、と書いた 何を信じていいか分からなくなった 劉少奇は最大の走資派で、鄧小平は2番目だ、と書いてあった 「人民日報」は党の新聞だから、それが正しいことだと信じていた 捕虜が殴られるのを見た 固く縛り上げられて鉄の棒で殴られていた そして銃殺された 殴り殺された人が道に転がっていた でもみんな怖くてどうにもできない 手を出せば敵と見做されて銃撃される 建物の中に入ってみると身の毛が弥立つようだった 最上階は監獄だった 人1人がやっと横になれるくらいの場所に監禁されていた 茶碗には食事が残されていたがただのゴミにしか見えなかった
望みをかけて育てた子に密告される親 も多数あった 江青は劉少奇打倒を呼び掛け、破壊的路線は加速した
「紅五類」(労働者、貧農・下層中農、革命幹部、革命軍人、革命烈士、およびその子女)であり紅衛兵団体の加入認証を得た者が紅衛兵となる。対して地主、富豪、反動分子、悪質分子、右派分子、およびその子女は「黒五類」とされ、出身のみの理由で吊るし上げの対象となった。親が黒五類であることを告発・糾弾して、出身にも関わらず紅衛兵となった例もあった。
北京の紅衛兵は「破四旧」(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣の打破)を叫んで街頭へ繰り出し、毛沢東語録を手に劉少奇や鄧小平に代表される実権派、反革命分子を攻撃した。 ジーンズをはいた若者を取り囲んで服を切り刻んだり、老舗の商店や、仏像など、貴重な文化財を片っぱしから破壊し、果ては多くの人々に暴行を加え死傷させた。主席毛沢東は「造反有理(造反にこそ道理あり)」として支持を表明した。のちにこの言葉に「革命無罪(革命に罪なし)」が付随した。
毛沢東は、全国から上京してきた紅衛兵延べ1,000万人と北京の天安門広場で会見し、紅衛兵運動は全国に拡大する。しかし、紅衛兵運動は派閥に分裂し、大規模な武闘を繰り返すようになり、毛沢東にも統制できなくなった。 最終的には毛沢東の父が富農だったことを批判する壁新聞まで出現し、もはや毛沢東すら紅衛兵をコントロールできない事が明らかになってしまった。 1968-1969年、「知識青年上山下郷運動」(下放)が展開され、その後、1968年からおよそ10年間に渡り農村支援の名目のもとに約1600万の中学卒業生が農村や辺境に追放された。
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新たな謀略・下放
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劉少奇の自由化政策によって経済は持ち直したが、毛沢東と江青は紅衛兵を利用して劉を獄死させ、権力を奪還した。 しかしその結果、都市の混乱は極限に達し、もはや誰にも紅衛兵をコントロールすることはできなかった。 そこで毛沢東は、「下放」という新たな策略を打ち出す。 「若者よ農村へ行け、そこで貧しい農民に学べ」そして再び惨劇は起った。 1600万人ともいわれる青年の多くは、「毛主席に奉仕するため」として熱狂的に「下放」に応じた。それは、戸籍も都市から農村へと移される、片道切符の旅立ちだった。 「都市と農村の格差撤廃という共産主義のスローガンの影響と、都市部の就職難を改善させる目的」から、半強制的な性格かつ永住を強制する措置として行われ、「頭上にはバナナ、足元にはパイナップルが実っている、牛乳は飲み切れず入浴に使う」と聞かされた。 やがて若者たちは、想像とはかけ離れた現実に直面する。「こんなところに一生暮らすのか」みんな黙りこんでしまった。 農業の専門家でもないのに農法や政治思想について農民たちにあれこれ指示しようとした学生たちは、識字率も低く古くからの意識や因習を残す農村の人々の反発を受け、現地になじむことはできなかった。農村には都市のような娯楽も高等教育もなく、家族や都市を懐かしみ脱走しても、強制送還された。
下放される青年たち 汽笛が鳴ると、あちこちで泣き声が上がった もちろん泣いたよ、永遠の別れだと思ったから
しかし記録映画では喜んでいるようにしか見えない
この政策によって、中華人民共和国では大学が1972年ごろまで閉鎖され、多くの青年層が教育の機会を失った。また、大学再開後も入学試験は行われず、青年層は農村に下放されたため専門知識を持つ人材の育成は大きく遅れた。このために、中国の教育システムならびに学術研究分野は後継者を育てることができず崩壊し、下放を受けた世代は無学歴・低学歴という状況が顕在化した。また、この政策によって中国の経済発展がいちじるしく停滞したと言われている。 この政策により都市における失業や就業圧力は一時的に緩和したが、紅衛兵とそれに続く「貧困農村での再教育」は多くの若者の精神を荒廃させ、無数の家庭を離散させた。
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離陸した中国は世界制覇へ
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「内部問題とソ連との敵対関係」で危機感を強めた政権は、1972年アメリカ合衆国大統領ニクソンの訪中を受け入れた。 しかし、ニクソン訪中の真の目的は単に中ソ戦略にあり、そんなことは外から見ていれば20代の若者でもすぐに分かることだった。しかしそこで日本は「日本抜きの米中接近が図られるのではないか」と勝手に勘違いし、慌てて中国へと向かった。 同年、田中角栄が、日中国交正常化 に調印。同時に台湾との国交を断絶。戦後台湾と築いてきたものを一瞬にしてどぶに捨て、一方的に中国共産党の延命に協力することになった。(WiLL 2011/3号 P33)
1976年 最高権力者・毛沢東が死去すると、文化大革命推進派は力を失い、毛沢東の妻・江青など文革派の「四人組」は逮捕され、華国鋒体制が成立し、1977年には文革の終結が宣言された。
1981 4人組裁判 江青らは晴れて死刑に 民衆はパレードをもって歴史的瓦解を祝った
中華人民共和国は、毛沢東時代(1949-1978)と鄧小平時代(1978年-)に分類される。 1978年第11期三中全会で鄧小平が政権を握った。 鄧小平は、政治体制は共産党一党独裁を堅持しつつ、資本主義経済導入などの「改革開放政策」を取り、近代化を進めた。この結果、香港ほか日米欧などの外資の流入が開始され、中国経済は離陸を始めた。 1989年には北京で、1980年代の改革開放政策を進めながら、抗議者からの異議を寛大に取り扱っていたために失脚していた胡耀邦(こようほう)の死を悼み、民主化を求める学生や市民の百万人規模のデモ(天安門事件)が起きたが、これは政府により武力鎮圧された。その犠牲者数は、数百人から数万人に上るといわれている。 引退した中国の核心的ブレーンや複数の共産党幹部は「動乱は必ず起こる。そう遠くない将来にだ」と発言したとされ、体制内の人間たちも現在の中国に危機感を抱いていることが明らかとなった。
2002年の第16回党大会では、公式に胡錦濤(こきんとう)体制への転換が完了した。 胡錦濤は、鄧小平(とうしょうへい)によって49歳の若さで党中央政治局常務委員に抜擢され、チベット民族虐殺・侵略の首謀者として知られる。鄧小平は、天安門事件で民主化を望む民衆を戦車で轢き殺した。 中国共産党次期総書記は、ウイグル・ウルムチ虐殺事件の責任者とされている、習近平(しゅうきんぺい)である。 彼は、2009年に外遊先のメキシコで、「腹がいっぱいになって暇になった外国人がわれわれの欠点をあれこれあげつらっている」、「中国は革命も輸出せず、飢餓や貧困も輸出せず、外国に悪さもしない。これ以上いいことがあるか」と述べた。 つまり、「欧米に飴を与えてサービスしているのだからとやかく言うな」 と言うわけである。 しかし、その飴は、ウイグルやチベット民族の血と涙から出来ているので、良いわけは無い。
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昨日のチベット、今日のウイグル、明日の台湾、明後日の日本
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今世紀、まもなく中国は、確実に世界の覇権を握るだろう。 そして既に、あらゆる面で日本は搾取されている。たとえば、中国は、国益のため廃液を垂れ流し、国土を汚し、大気を汚し、河川を汚している。 そして今後懸念される世界的な「水不足」対策の為に 北海道や紀伊山地の原生林をバンバン買い漁っている。 さらには、中国大使館が南麻布の一等地を落札し、自衛隊基地を一望できる高台などを狙っている。 こうした事態の予兆とも言うべき動きが、東北唯一の政令指定都市、仙台で繰り広げられた。 市内の国鉄跡地15000平米の再開発事業に、中国直系のファンドが買収の名乗りを挙げた。 仙台市は当初、この構想に乗り気だった。しかし当時の市長、梅原克彦氏がこれを却下するという英断を下したため事無きを得たが、これを仙台は理解できず、梅原氏はついに再選に打って出ることができなかった。
現在、「新疆(しんきょう)ウイグル自治区」とされているところは、「東トルキスタンという国家だった」ところである。 「新疆」というのも地名ではなく、「新しく支配した辺境」という意味である。 「東トルキスタン」は、ごく短期間、清朝の末期(明治15年)に支配されたことがあるが、清朝滅亡後の1933年には、独立を回復した。しかも、清朝は漢人の王朝ではない満州人の王朝であるので、「東トルキスタン」は、中国の一部ではない。 さて、1949年、中華人民共和国建国と同時にチベットとともに東トルキスタンも侵略された。その後、主に中国の犯罪者や入植部隊がその地に投入され、いまではその侵略によって、人口比率は逆転している。 入植者には、良好な土地が優先的に配分され!独占的な地位を保証されている。 そして部隊は、ロシアとの国境付近に集中的に配置され、そこにある天山山脈は、豊かな水源地帯でもある。 つまり、中共は、ロシアへの防備を固めると同時に、東トルキスタンの水源を制圧することを目的としている。 『漢人を大量に送り込み、都市と水源を確保する』 これこそが、中国がわずか60年で、東トルキスタンを掌握した作戦の要諦である。(WiLL 2011/10号 P90)
菅直人は、辞任直前の8/10、中国向け観光ビザの発給に関しさらなる緩和措置を発表した。 従来はそこに所得制限があったが、それを撤廃するうえに、滞在可能期間も延長させた。辞職を目前に控えたドサクサを狙った政治手法はほとほと姑息かつ悪辣で、中国の子分、朝鮮人の人間性が滲み出ている。 そもそも民主党というのは「日本を切り売りして中韓朝が権益を得ることを目的とする売国政権」である。 中国が、というよりも、「与党・民主党の陰謀に我々日本国民が気付かず騙されてしまうこと」が問題なのだ。 ある者は「日本は既に米国に支配されている、中国に支配されても大家が変更されるだけだ」と笑うが、中華食人欺瞞国とその人民の実態をぜんぜん知らないで言っているので、ゲンナリする。 すべてが万事この調子で、今後、我々大和民族は、更に落ちぶれ チベット、ウイグル、モンゴル、台湾に続いて、こいつら中国の下僕となる予定である。
東日本大震災 都市伝説 sengoku38 GHQ 在日 蓮舫 中国共産党 侵略 チベット ウイグル 民主党 口蹄疫 虐殺 尖閣諸島 テロ AKB48 福島原発 ぺ・ヨンジュン
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上記のブログの内容とは関係ないコメントすいません。現在、日本ではとても危険な犯罪が蔓延しています。それらは一般の人にはわからないように行われていますが、日々、一般の罪のない被害者が増えている状況です。アメリカではニュース番組でも取り上げられており、いくつも裁判が行われています。以下は翻訳のニュース内容です。是非、こちらの動画をご覧になり拡散のご協力お願いします。実際に日本でも多くの被害者が苦しみ多くの自殺者を出しています。犯罪の名前は集団ストーカーといわれています。私もこの被害者の一人です。
全て翻訳されています。
http://www.youtube.com/watch?v=aijB0EzgX3c&feature=channel_video_title
http://www.youtube.com/watch?v=UlKqjl4gPGM&feature=relmfu
http://www.youtube.com/watch?v=KeRiAKS3730&feature=channel_video_title
ブログ「私が海外逃亡した理由」
http://doctorfish3.blog25.fc2.com/
六韜の読みですが、『ろくとう』→『りくとう』です。
記事、大変興味深く拝見しました。
大変詳細にわたりお調べになっているので、差し出がましいと思いましたが、指摘させて頂きました。
ご確認いただき、私の指摘が間違っていないようでしたら、読み仮名を修正されてはいかがでしょうか。
私のコメントは、必要ないと思いますのでどうぞ削除お願い致します。
失礼致しました。
日本特有の無責任な統制官僚が居なければもっと良かったのですが。
満州鉄道に出資したがっていた米国には、「どうぞどうぞ」と受け入れていれば今 現在チャイナ各地に上海もうかりまっか商人共和国
広東アイダホポテト自由共和国
更には、満州シカゴウイスキー都市国家連合などなどのチャイナより遥かにましで付き合い易いまともな国が存在し
日本と通商交流していた可能性があります。
いきなりサッカー国際試合でドロップキックをやる国よりずっと真っ当です。
閑話休題、宣伝ご容赦下さい。
チャイナ・ウオッチヤー河添恵子氏が新刊を出します。
「 豹変した中国人がアメリカをボロボロにした 」
河添恵子 産経新聞出版
「 中国人の世界乗っ取り計画 」河添恵子 産経新聞出版
チャイナによる日本への間接侵略に警鐘を鳴らし続けている異色の軍学者
兵頭二十八氏の新刊
「 極東日本のサバイバル武略 」 兵頭二十八 並木書房
在日外国人犯罪の側面から
日本の危機を警告している
元警視庁通訳捜査官
坂東忠信氏ブログ
http://taiyou.bandoutadanobu.com/
「 外国人犯罪の増加から分かること 」
性善説を信奉するお人好し日本人の想像を絶する現実があります。
中国が世界に知られたくない不都合な真実
坂東忠信 青春出版社
日本が中国の自治区になる
坂東忠信 産経新聞出版
ユウチューブ
坂東忠信で検索すると講演会動画が出て来ます。
ご高覧下さい。m(_ _)m乱文にて 敬具