大峯千日回峰行大行満大阿闍梨・慈眼寺住職 塩沼亮潤(しおぬまりょうじゅん)
2010年06月30日(Wed) 安斉辰哉
奈良県吉野の大峯山で、1999年に千日回峰行を成した塩沼亮潤大阿闍梨。 翌年、四無行(断食、断水、不眠、不臥を9日間続ける)も満行し、大阿闍梨の称を得て、現在は故郷仙台に開山した慈眼寺の住職を務める。 回峰行の間(5月~9月)は、9年かけて、一日も休まず同じ時間に同じ道を登り、下る。繰り返しを実践する中で得られた気づきが、塩沼阿闍梨という人物の器をつくった。
一見、単調な行のようだが、すさまじいの一言。 標高364メートルの蔵王堂を0時半に発ち、漆黒の中を提灯と杖を頼りに延々24キロの険しい山道を登り、8時過ぎに標高1719メートルの大峯山頂に至る。同じ道を下って15時半に帰堂、自ら掃除洗濯、翌日の準備をして19時に就寝、23時半には起床。
>その頃は疲れもピークで血尿が出ます。加えて、40度近い高熱が出たこと、下痢が止まらなかったこと、心臓の具合が悪くなったこと、
>いろいろなアクシデントがありました。しかし、行の間は寺の敷地から出ることは許されませんから、医者に診てもらうことはできず、
>もちろん行を休むこともできません
>1000回行って帰ってくれば、カリキュラムとしては合格です。しかし大事なのは、その中身です。
そんなの、命がけの状況で繰り返したから気づくのさ、と言う人があるかもしれない。それなら、与えられた役割だから、単調な仕事だからと後ろ向きになっていないで、身を削るくらいやって、何かを得ようとしてみたらいいではないか。すべては自分の問題。渡り鳥みたいに生きていたら、大事なことに気づかない。
本来の仏教には 苦行は無いが、亮潤さんは 同じことの繰り返しで真実に邂逅したのだろう。そこには我々には測り知れない光景が在るのかもしれない。 「仏」とは、ある対象ではなく、人の心の境涯を指す概念であると観ずるが、そこに至る方法論は様々であるだろう。
逆に言えば、たとえ2000回上り下りしても、何人勧誘しても、それが単なる「ポイント稼ぎや自己満足に終わるならば」 益どころか害になることもある。
ゆえに、人は、自らの在り様を、見極めなければならない。
福聚山 慈眼寺(ふくじゅさん じげんじ)
掃除に学ぶ会 と チューダパンタカ
周利槃特(しゅりはんとく)への教え
2010年06月30日(Wed) 安斉辰哉
奈良県吉野の大峯山で、1999年に千日回峰行を成した塩沼亮潤大阿闍梨。 翌年、四無行(断食、断水、不眠、不臥を9日間続ける)も満行し、大阿闍梨の称を得て、現在は故郷仙台に開山した慈眼寺の住職を務める。 回峰行の間(5月~9月)は、9年かけて、一日も休まず同じ時間に同じ道を登り、下る。繰り返しを実践する中で得られた気づきが、塩沼阿闍梨という人物の器をつくった。
一見、単調な行のようだが、すさまじいの一言。 標高364メートルの蔵王堂を0時半に発ち、漆黒の中を提灯と杖を頼りに延々24キロの険しい山道を登り、8時過ぎに標高1719メートルの大峯山頂に至る。同じ道を下って15時半に帰堂、自ら掃除洗濯、翌日の準備をして19時に就寝、23時半には起床。
>その頃は疲れもピークで血尿が出ます。加えて、40度近い高熱が出たこと、下痢が止まらなかったこと、心臓の具合が悪くなったこと、
>いろいろなアクシデントがありました。しかし、行の間は寺の敷地から出ることは許されませんから、医者に診てもらうことはできず、
>もちろん行を休むこともできません
>1000回行って帰ってくれば、カリキュラムとしては合格です。しかし大事なのは、その中身です。
そんなの、命がけの状況で繰り返したから気づくのさ、と言う人があるかもしれない。それなら、与えられた役割だから、単調な仕事だからと後ろ向きになっていないで、身を削るくらいやって、何かを得ようとしてみたらいいではないか。すべては自分の問題。渡り鳥みたいに生きていたら、大事なことに気づかない。
本来の仏教には 苦行は無いが、亮潤さんは 同じことの繰り返しで真実に邂逅したのだろう。そこには我々には測り知れない光景が在るのかもしれない。 「仏」とは、ある対象ではなく、人の心の境涯を指す概念であると観ずるが、そこに至る方法論は様々であるだろう。
逆に言えば、たとえ2000回上り下りしても、何人勧誘しても、それが単なる「ポイント稼ぎや自己満足に終わるならば」 益どころか害になることもある。
ゆえに、人は、自らの在り様を、見極めなければならない。
福聚山 慈眼寺(ふくじゅさん じげんじ)
掃除に学ぶ会 と チューダパンタカ
周利槃特(しゅりはんとく)への教え
この「自由自在」を逆手に取れば、なんでもかんでも、これでいいんだあ、これが伝統の仏教だあ、キリスト教だあ、正しいんだあ。と自分で言って 教祖ズラしてもいいことになる。 そういう意味で、宗教 とは、多分にデリケートなものだ。
そのあたりの微細な 宗教の 構造や体制や雰囲気を見極められないと、霊感詐欺に引っ掛かる。
しおぬまりょうじゅん さんは、単純な山登りを繰り返してある境涯に到達した方のようだが、似非仏教のカルト組織がこれをやらせる場合、そこには 何らかのバイアスが掛かっている。
それは、ご利益とか冥罰とか、自分や身内の生命に関わる妄想や呪いである。 そこに隠されたものに気付かない彼や彼女は、まんまと組織の構成員になってしまうわけだ。
もちろん、そのトリックを成功させる 無数の仕掛けを、教祖はあらかじめ「何重にも」仕込んでいる。
それがある程度まで稼動するまでには、教祖は血の滲む努力を重ねるが、あとは適当に演技して行けば、莫大な富が自動的に納入されてくる。
だから、宗教経営は美味しいのだ。