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欺瞞的善人の悲哀

欺瞞は汚いので消します。カレーはポークです。 この世の「最良の精神たち」よ さあ共に闘おう!

排斥という脅し

2010-04-15 14:01:52 | 破壊的カルト・宗教
排斥されるとエホバの証人の家族からどう扱われるか  に書き込めませんでしたのでコチラに書きます。

>排斥された人とは挨拶もしない、ってのがエホバの証人の基本的な教えです。
>7節によれば家族の霊的な活動には耳を傾けることはできても参加はできないとのことです。

ようは組織はそういう縛りによって、「コントロールしたい」ということです。
根本的に、エホバは散々方針転換二枚舌してますし、あとは輸血禁止、ということでも、「塩水を代用にすることで輸血は回避できる」とか
言っていますが、
ここで可笑しいのは、「塩水で回避できるんなら輸血禁止と言う必要すら無い」ということです。 医師は率先して塩水を使用するでしょう。
塩水では助からないから、輸血するわけです。
こんな簡単なことさえも、彼ら信者は気付けません。 そして、破壊的カルトのシステムはどこも同じです。
それは、単純なトリックですが、人の心にはバグが多いので、そこを突かれれば容易に嵌ります。

>家族が離れたくらいでひどく扱われるくらいなら「真理」じゃない証拠と思います。
そのとおりです。
ハッキリ言いますが、エホバの組織は、輸血拒否という「妄想の縛り」によって、毎年大勢を殺しているのです。
その人数は、オウム真理教の被害者の数よりも多い、と言われています。

何があっても感謝

2010-04-10 13:00:17 | 破壊的カルト・宗教

信者の夫様へ (streamatpastoral)  2010-03-22 00:00:11

幸福は不幸の裏返しであり、コインの表裏のようなもので、
どちらに執着することも仮のものに実体を見出そうとしていることで、苦しみの元を断つことはできない。
真如苑においてそのことが教えられていることは間違いないと私は確信しています。

しかし、
「良いことがあれば教えのおかげ、悪いことがあれば修行が足りないせい」
と処遇されることで萎れてしまっている人がいかにありふれていることか。嘆かわしいことだと感じています。

そしてまた、何があっても「感謝」で受け止めることのできる人も真如苑の中で普通に見聞きできることも確かで、
そういう人は強く生きている、と感じます。

どんな集団に属していようと、本人がただ漫然と暮らしているだけでは弱者と呼ばれることに甘んじなければいけない、
と大切な奥様にお伝えいただければ幸いです。

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↑上記は 信者さん (streamatpastoralさん)の書き込み です。
では、以下にてツッコミます。↓

>真如苑においてそのことが教えられていることは間違いないと私は確信しています。
確信するも何も、教えのその部分を抜き出すなりすれば良い。 それが 布教ということではないでしょうか。

>「良いことがあれば教えのおかげ、悪いことがあれば修行が足りないせい」
これは真如苑に限らず 新興宗教の台詞です。
真如苑では「勧誘が最も功徳がある」と言っていますね。 さて、その、功徳って何を指すのでしょうか。 篤信者(教団事務局員)に聞きましたが、病・貧・争が
解決するとか。
これだと真っ赤なご利益信仰ですね。

押入れのどこかに在るのですが、「家族の病気を治すために、手当たり次第に入信してもらった」という手記も在りましたよね。 これは教団発行のものですから、
大量勧誘が病気治癒に繋がる! と教団は認めていることになります。

>何があっても「感謝」で受け止めることのできる人も真如苑の中で普通に見聞きできることも確かで、
これは、精神麻痺とどう違うのか。 あるいは、もう後戻りできないだけなのか。
万物に感謝というのは仏教にも通じますが ニュアンスが違いますね。 「何が何でも感謝」ということであればそれは馬鹿ですよ。
仏教では、万象の中に自分が生きているのであって、それは、何かに「生かされている」というよりも、自分が万象の一部である、という捉え方だと思われます。
であるならば、我執から離れて、あるがままを観る客観視が可能となるでしょう。客観視が出来るのであれば、それは我欲から放たれて、利他にも繋がることでしょう。
このように、仏教とは、「論理的な教え」でしょう。
真如苑のように、確認も出来ない真如苑用語としての「因縁」を、それと因果関係があるかどうかも分からない「勧誘やら献金で」解決しよう
という 妄想迷信的な教えではありません。

いずれにしろ、真如苑は、勧誘/献金/献身 が眼目である、月並みな新興宗教ですね。 修行内容がこれでは、本人が感謝感謝かどうかは知りませんが
教団にとってはまさに「感謝感謝、信者様は神様です」といったところでしょう。
ちなみに、「何があっても感謝」というのは、こちらにて指摘されています。↓ どこも構造は同じなのです。

http://life.2ch.net/psy/kako/1026/10264/1026448127.html 337

>どんな集団に属していようと、本人がただ漫然と暮らしているだけでは弱者と呼ばれることに甘んじなければいけない、
そのとおり。 どこででも、出世するにはノルマ以上の業績を揚げることである。しかし、宗教信者が弱者と言われるのは意味が違います。 弱っているから「藁にも縋ってしまう」ということです。

そしてその藁が「悪質な藁」であれば、弱みを突かれ、その精進wが進むにつれてさらに堕ちて行くわけです。 もちろん、組織内ではそれは「向上している」と認識されることは、言うまでもありません。 信者たちは、その精神と人生の有様を、飴と無知で操られ、いや、飴と鞭で操られ、「教団仕様」に改造され、

永続的に宗教商売に加担して行くのです。

聖人への道の険しさ

2010-04-07 14:46:01 | 破壊的カルト・宗教
聖人への道の険しさ  2010.3.21 03:22

ポーランド出身の前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、死後ただちに、あらゆる方面から「すぐに聖人に」という声が上がったほど近年まれなる偉大な法王であった。だが、いくら偉い前法王でも一足飛びに聖人にはなれない。


ごく簡単に言えば、専門の機関が聖人の資格審査を始めると「神の僕(しもべ)」と呼ばれ「尊者」の宣言を受ける。続いて聖人になる前の段階の「福者」になる審査を受ける。
だが、この審査は最低1つの奇跡を起こしたか否かを含む厳しいもので、今でこそ非常に簡素化されたが、昔は数百年を要することも珍しくなかった。
さて、前法王が起こした奇跡とは、2005年6月2日夜、パーキンソン病を患っていたフランス人修道女が前法王の夢を見たところ、一夜にしてパーキンソン病が治ってしまったというものである。
だが、このほど科学審査を行った4人の医師団のうちの1人がこの修道女の病名に疑義を示したから大変。今年の10月か11月に予定されていた福者を祝う「列福式」が大幅に遅れる恐れが出てきた。
もっとも、特別秘書として前法王を長年にわたり支えた現クラコビア大司教は、「前法王に関する奇跡としては実に251件もの事例が提出されたから、別のものを選ぶにしても問題はない」としている。

それにしても、聖人になる難しさに対する認識を新たにした次第である。(坂本鉄男)

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真如苑とも仲良しらしいローマ法王の話題ですが、専門の機関が聖人の資格審査をするのですね。 結局は、それを判断するのは愚かな人間ですか。

>パーキンソン病を患っていたフランス人修道女が前法王の夢を見たところ、一夜にしてパーキンソン病が治ってしまった
それはいいですが、それならどうせなら、全員治して差し上げればよい。 パーキンソン病患者そのものを、この世から無くしていただきたい。

ところで、奇跡を起こすと「聖人」なんでしょうか。 観点は、聖か邪かだと思うのですが。

哀しき信仰妄想・欲を刺激され

2010-03-30 19:59:03 | 破壊的カルト・宗教
宗教の道は 自ら考え、探る性質のものでは無いが故に、信者さんは、その教義を盲信するしか術が無い。 宗教とは、それが森羅万象の法則から紡ぎ出された真理なのか、あるいはそれは誰かの妄想の産物なのか。 それが妄想であるならば、それは何故造られたのか。

昨今、破壊的カルトと呼ばれる組織が、ご利益や冥罰を掲げて信者を集め、蔓延っています。 傍目には、単なるカルト・マインドコントロールを駆使した罠であると感じられるのですが、何故信者は信者と成るのか。それは、信じたいから、信者に成るわけです。 では、何故、信じたいのか。それは、彼らが「欲」を刺激されたからなのです。

曲がりまっすぐ? をみても分かりますが、この信者さんは、「自己を超越したい」という欲を刺激されています。 この様態は奇しくも オウム真理教の信者さんと同質であると言えるでしょう。 

参考: かもめのジョナサン Wikipedia

物語後半からはジョナサンが通常のカモメの飛行能力を遥かに超えた能力を身につけ、それらはすでに飛行という次元を超えており、さらには岩盤に激突したカモメを生き返らせる場面も登場する。それらが原因で新興宗教の布教を連想する人も多い。ちなみに、刺殺されたオウム真理教の村井秀夫幹部も本書の愛読者だった。 また神慈秀明会では、初代会長による本書の解説書を発行しており、その解説書は同教団青年部の布教活動における必携の書とされていた。

オウム真理教の一件を他山の石として得て、その同じ罠に嵌らないのが賢者と言えるでしょうが、新興宗教の信者さんたちの場合はそれは当てはまらないようです。何故か。それは、彼らが馬鹿だから、ではありません。 オウム真理教がエリート集団だったことからもそれは伺えるでしょう。彼らが、愚かにもカルト組織の罠に嵌ってしまうのは、「欲に目が眩んでしまったから」なのです。 眼が眩めば、真理が見えなくなります。

宗教の妄想は、それが救済を目的とするではなく、騙し利用するためのツールであるならば、当然の如く実態と現象の間に隔たりが生まれ、想定外の事態に陥ることになる。それは、親信者の「実態を告げない詐欺的勧誘」から発するものではあるが、親信者もそう為さざるを得ない状況に追い込まれていることから、「無限連鎖講」と呼ばれてしまう。もちろんこれも、組織の思惑である。 修行?過程での歪みは、当然理屈に合わない要素も多く、そこには、親部長や親信者のパワハラやモラハラも含まれる。 親信者もまたそのような、教義の歪みから来る、理屈に合わない圧力を受けているはずであり、それを下流へと流さざるを得ないわけである。 そのような、表面と実体の差異に対して、教団は「人に依らず法に依れ」などと言い、目を逸らさせ誤魔化すが、原因元は、教団の思惑が、その表層とは隔たっていることから来るわけで、この不全なシステムが続く限りは、この種の被害が解決されることは無い。 むしろ、解決を期待してしまうのならば、それは無駄だと言えるだろう。

何故ならば、破壊的カルト宗教は、霊的詐欺のために存在するからであり、信者は、救世のために入信するのではなく、むしろ自己満足を目的としているからである。 その証拠に、信者に説明を求めれば、「教義は真理である」と言うが、それは到底真理とは呼べないような、教団内でのみ通用する独自の「信仰」である場合が多い。故に彼らは、言葉だけで終わり、実証もできず、証拠を示せずに倒れてしまうわけである。 仕掛ける側である教団組織は、「人の欲を満たす麗句」を提供し、信者はそれを喜んで自ら進んで信じる。これは真に理に適った共依存システムであると言えるだろう。

「それは妄想ではない、真実だ」と信者は言うが、その証拠として出してくるプルーフ(証拠)とは如何なるものか。 病気が治った。ご利益があった。人間関係が改善した。これは真実である場合も多いだろう。偽薬効果により病気は治り、麻薬効果により気分は高揚し、選ばれたと言われその気になり、下座の勧めにより協調性が生まれる。しかしどんな破壊的カルトでも効果は在り、たとえばオウム真理教でも在る。創価学会でも在る。 そして、一般社会でも在る。 つまり、どこでも在る。 よしんばカルト修行により改善したとしよう。 しかし、それに伴い、そこに副作用は無いか。 友人を失わないか。献金額が青天井ではないか。おかしなことを口走らないか。嘘吐きになっていないか。平気で、不義理な自己正当化の捨て台詞を吐くように変貌していないか。

それを、プルーフ(証拠)とか言われても、はあ。としか言えません。

そして、カルト組織が生む協調性とは、表面的な他者との融和に過ぎません。何故ならば、教団内では 言うまでも無くコチコチにその教義に染まることが推奨されるからです。そして、その教義とは、表面的な美しさとは裏腹な「詐欺的システム」であるが故に、社会と調和することはありません。 故に教団は、

慈善事業や公の展覧会や、信者を使ったボランティアなどにより、教団の社会性を、殊更に強調するわけです。 これは、「カルトの正当化事業」だと言えるでしょう。

「宗教離れ」と「貧・病・争」

2010-03-30 13:48:55 | 破壊的カルト・宗教
「宗教離れ」と「貧・病・争」 
産経新聞 2010.2.22 07:50
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100222/acd1002220755004-n1.htm

戦後に急成長した某新宗教の幹部に聞いてみた。「信者さんの数が増えているのでは?」
「いやいや。それどころか、お布施が減って大変です」 新宗教、伝統教団を問わず多くの日本の宗教には、社会の「貧・病・争」に向き合ってきた歴史がある。福祉制度や地域社会ではどうにもならない悩みを吸収することで成長してきた。人々も「苦しいときの神頼み」と、宗教を頼りにしてきた。

昨年末の生活保護世帯数は125万世帯とバブル期の倍。完全失業者数は317万人、バブル期の2.5倍にもなる。現代の日本には「貧」に直面している多くの人がいる。けれども、冒頭の人の話を聞いた限りでは、人々は宗教に救いを求めようとしていない。

昨年秋に社会面で「直葬」という企画を連載した。「葬儀をせずに、火葬しか行わない弔い」が増えていることを紹介した。火葬だけだから、僧侶も呼ばない、戒名もつけない。立ち会う人もごく少数。墓に入らない場合もある。

直葬が増えた背景には、価値観の多様化、単身世帯の増加といった理由のほかに、葬式をする金がないといった事情がある。「立ち会う火葬の約3割が直葬。これからも増えるだろう」という葬儀社の声も聞いた。

「葬式仏教」という言葉があるように、寺院の中には葬式をあげることに熱心というところが少なくない。けれど社会の現実は、葬式仏教としての存在意義すら揺るがせつつある。

オウム真理教に代表されるように、宗教の中に反社会的な振る舞いをするところがあることは否定できない。しかし、多くの宗教はオウムなどとは違い、長い年月にわたって日本人の生活の中に溶け込み、倫理、文化、道徳といったものをはぐくむのに寄与してきた事実がある。 

それが最近はちょっと変化しているようだ。「貧」の世情とかみ合わないばかりか、葬式にも呼ばれない現代の宗教。日本人の情操観が廃れつつある予兆でなければいいのだが。

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IT革命後、宗教や真如苑を含む破壊的カルトの実態が明らかになるにつれ、宗教離れが加速するのは至当だろう。 仏教には葬儀の要素は無く、キリスト教は妄想殺人宗教と確認される。 本来の仏教とは、精神修養という表現では顕せず、むしろ信仰を排斥する、精神物理学のスタイルである。

日本人の情操観は、そもそもの「神道」を根本として、檀家制度を使用する「伝統仏教」に支配され、操られて来た歴史があるが、そこに「貧・病・争」の即効解決を謳う新興宗教が入り込み、隆盛して来た。その実態が、オウム真理教事件により一気に表面化して現在に至っている。

「神道」は、「国家神道」によって悪用され、本来の、八百万の潔い佇まいは 既に遺忘されている。 日本民族は、遂に、自らの国家政策により、宗教難民化し、それに大衆は気付き始めているということである。