前のエントリで、真如苑がマインド・コントロールを行っているという批判の声がネット上に存在することについて触れましたが、マインド・コントロールという言葉が「独り歩き」することがあるように見受けられますので、補足します。
西田公昭著「マインドコントロールとは何か」は、破壊的カルトがメンバーを獲得するために用いている説得のテクニックについて解き明かし、説得を受ける側がそのテクニックを無効化できるようになることを意図していると読めます。
その目的自体は十分に社会的意義のあることです。
ところで、本書の中で、そのテクニックは、心理学の研究成果の実践的応用という面からは心理療法やスポーツにおけるセルフコントロール、セールスや企業広告におけるプロパガンダの手法としても用いられる社会心理学的手法と類似しているとされています。
しかし、破壊的カルトがそうした手法を用いる場合には、その目的は明白に異なり、かつ「マインド・コントロールを用いているといわれている多くの破壊的カルトは、それを用いるいくつかの手法において、非常に類似性が高い」ことから、その手法に対して「カルト・マインド・コントロール」というラベルが付与されています。
その一方で、「カルト・マインド・コントロール」と、その他の類似した社会心理学的手法との間の本質的な違いについては議論されていないように読め、このラベルづけについては本書の目的に照らして間違っていないとは思われますが、やや過剰ではないかという気がします。
このことに起因してか、読者がそうした社会心理学的手法一般に対して無用な価値判断を与えることになってしまい、その上で、しばしば不毛な議論がなされることがあるように見受けられます。
「あの集団はマインド・コントロールを行っているから反社会的カルトである」
「いや、社会そのものがマインド・コントロールを行っているじゃないか」
といった具合にです。
これがなぜ不毛かというと、マインド・コントロールと称される手法自体、悪でもなければ善でもないからです。
さらに言えば、「マインド・コントロール」という名前自体、それ自身価値中立的である社会心理学的手法に対して、反社会的集団がそれを行う主体であるケースに対してのみそう名づけられたものだとすれば、「マインド・コントロールを行っている集団は反社会的である」という言説は同義反復にすぎないことになります。
そもそも宗教、特に大乗仏教はその思想をプロパガンダすること=布教をその目的のうちに内包しているので、説得的手法を用いること自体は動機にかなったことと言えます。
本質的な問題は「マインド・コントロールを行っている」との批判が存在するという事実が意味するもので、そこは追って考えていきたいと思っています。
西田公昭著「マインドコントロールとは何か」は、破壊的カルトがメンバーを獲得するために用いている説得のテクニックについて解き明かし、説得を受ける側がそのテクニックを無効化できるようになることを意図していると読めます。
その目的自体は十分に社会的意義のあることです。
ところで、本書の中で、そのテクニックは、心理学の研究成果の実践的応用という面からは心理療法やスポーツにおけるセルフコントロール、セールスや企業広告におけるプロパガンダの手法としても用いられる社会心理学的手法と類似しているとされています。
しかし、破壊的カルトがそうした手法を用いる場合には、その目的は明白に異なり、かつ「マインド・コントロールを用いているといわれている多くの破壊的カルトは、それを用いるいくつかの手法において、非常に類似性が高い」ことから、その手法に対して「カルト・マインド・コントロール」というラベルが付与されています。
その一方で、「カルト・マインド・コントロール」と、その他の類似した社会心理学的手法との間の本質的な違いについては議論されていないように読め、このラベルづけについては本書の目的に照らして間違っていないとは思われますが、やや過剰ではないかという気がします。
このことに起因してか、読者がそうした社会心理学的手法一般に対して無用な価値判断を与えることになってしまい、その上で、しばしば不毛な議論がなされることがあるように見受けられます。
「あの集団はマインド・コントロールを行っているから反社会的カルトである」
「いや、社会そのものがマインド・コントロールを行っているじゃないか」
といった具合にです。
これがなぜ不毛かというと、マインド・コントロールと称される手法自体、悪でもなければ善でもないからです。
さらに言えば、「マインド・コントロール」という名前自体、それ自身価値中立的である社会心理学的手法に対して、反社会的集団がそれを行う主体であるケースに対してのみそう名づけられたものだとすれば、「マインド・コントロールを行っている集団は反社会的である」という言説は同義反復にすぎないことになります。
そもそも宗教、特に大乗仏教はその思想をプロパガンダすること=布教をその目的のうちに内包しているので、説得的手法を用いること自体は動機にかなったことと言えます。
本質的な問題は「マインド・コントロールを行っている」との批判が存在するという事実が意味するもので、そこは追って考えていきたいと思っています。
改めて述べますが、
前者は広範な精神操作を指しますが、後者は破壊的カルトが信者を操る為のツールです。操る、というのは、もちろん、騙して利用することです。
まず、前者はあらかじめその道筋と結果を示され、了承の上で、自ら、または第三者により施行される。そして本人があらかじめ望んだ結果が得られることを目的とする。しかし後者は、事前の情報開示は組織により意図的に制限され、「まず実践」という美名の下に、組織貢献が先に立つ。一般社会では、事前説明が無い契約は「詐欺」と言われるが、宗教法人ではそれは許されてしまうようである。だから、反社会的宗教が蔓延ってしまうことになる。
では、何故、まともな契約も無しに、人は破壊的カルトに入信してしまうのか。それは人の心のメカニズムの欠陥を突かれるからである。カルトは、病・貧・争の解決を表に出して釣ることが多いが、それに加え、悟りや霊能力会得も売り物にする。「バビル2世」という漫画があるが、人はやはり超能力に惹かれてしまう。あるいは「魔女っ子なんとか」もある。 オウム真理教信者も、そういった、心の要素を突かれて嵌められたのである。そしてそこには、「霊的位階」が設定され、人の進級欲を刺激する。 本来仏教にも「阿羅漢」と言う位があるが、それは欲で欲して得るものでは無いはずであり、もしそうならば、「解脱」とは真逆の「執着」であり、本末転倒であると言える。
詳細を隠されたまま入信した信者は、実践先行の精進?の中で、次第に後戻りができなくなる。これが、カルト必殺の「認知不協和理論」の悪用である。「いつでも辞められる」と、軽い気持ちで入信するが、自らの心理システムによって、自らが縛られてしまうのである。この時点で、あらかじめの予定とは「ずれて」しまい、組織の土俵の上で育成されてしまっている。しかも、本人には騙されている意識は無い。これが、無知の怖さである。
このように、「カルト・マインドコントロール」とは、言わずもがな人の錯誤を利用した技術であるが、それ故に多くの歪みを生む。それは、結果として、たとえば信者が、操られているが故に嘘吐きになるとか、親恋人をも捨てて教祖の元に走るとか、そういうあからさまな異常に至ることで分かるが、また別にそのように表面化しない症状もあるから厄介だ。 教団の実践徳目として、勧誘・献金・献身があるのは言うまでも無いが、それは可能な限り隠されて実施されるし、立ち振る舞いは一般人のようでいて、実は教祖盲信である場合は、一見しては分からない。その意味では、過激カルト教団よりも、穏便組織の方が危険である。最も酷い様態としては、「結婚後、子供が出来てからその信仰を告白される」事態である。これは巷のカルトの常套手段であり、容易に後戻りはできないから、最も悪質な加害である。そしてこれは、教団の指示である。言い換えればこれは、被害者である非信者の夫、または妻に対する、「人生の破壊行為」と言えるだろう。
また、「教団システムの歪み」に気付く場合も多いだろう。たとえば、支部長の集金主義や傲慢は多く報告されているし、では何故そのような者が抜擢されたのか、と考えれば、芋づる式にマインドコントロールから目覚めてしまうこともあるだろう。しかしそこでも組織は先手を打っているはずである。むしろ、打っていないとすれば3流、いや、8流カルトだと言える。そして、その「先手」は、ほぼ全てのカルトが採用する「恐怖の原理」、つまり、「辞めれば不幸になる、因縁に襲われる、神罰が下る」というもの。 果たして、そんな「霊的脅し」が我々に効くだろうか。もちろん、教団の舞台システムに乗っていない我々には無効だが、人類宇宙を救うという「輝ける箱舟」に乗った信者たちには効くのである。 そして、その箱舟に乗るには、勧誘・献金・献身が不可欠であり、乗れば幸せに、乗らねば不幸に、という単純なスローガンが、集会/発表会などで連呼される。
救済という美名で釣られ、感化され、だいぶん精進?し深く染まったその後に、それが時限爆弾となり、信者の心身、つまりその「人生そのもの」が捕獲されてしまう。逆に言えば、「救済」は、単なる看板に過ぎず、実際にはそれは目的とされていない。もちろん、本人には騙されている意識は無い。自らの意思でここまで進んで(嵌って)来たのである。
そもそも、カルトの修行?は、「現実から乖離した麻薬的な恍惚感」が得られるので、本人は嬉々として歩むことが多いだろう。その世界は、巷の戦場には無い安らぎがある。しかしそれは架空の箱庭であり、そこに一旦疑問を持ち始めると、上記の「時限爆弾」が発動するように、あらかじめ仕組まれている。それは精神の奥深く食い込んでいるので、摘出は困難である。食い込ませる手法は、「まず実践」である。これは、組織が、事前の情報開示無い勧誘を実施させるからこそ、成立する「被害」である。言うなれば、そこにこそ、「カルト・マインドコントロール」の特長が見られると言えるだろう。
そして、社会にも、人を操るマインドコントロールはあるが、では「カルト・マインドコントロール」との差異は何か。
戦前の日本は、「天皇」という虚像の元に、選ばれた民として開戦した。実際は米国の罠に嵌っただけだったようであるが、国民は虚像による扇動に乗り、操られた。現在でも、首脳の煽りによりコントロールされているが、果たして、学校で、勤務先で、「○○○を鵜呑みに信じて実践しなければ悪い種子が噴出して滅びる」と言うだろうか。 カルトには言わずもがな「教義」があり、それは、学校や企業にも在るが、その差異は何か。
カルトには、信じる対象があり、その教義は、証明しようが無い「妄言」ではないか。「やればやるほど幸せになる」と言うが、その統計結果は出したのか。信者個人の、人生の、経常利益は毎年確認されるのか。美味しい結果だけを公表するのなら、それは悪質なプロパガンダである。そして、「事前の情報開示無し」に「甘い妄言」に釣られてしまうのも、本人に心の隙があるゆえであろう。もちろん組織の魅力はそれだけではない。 刺殺されたオウム真理教の村井秀夫幹部は、「かもめのジョナサンになりたかった」と語っている。
ネット上にはこの手の解析は多く在りますので、早速色々調べてみては如何でしょうか。
宗教カルトはこのような手法を駆使して拡大し利益を揚げます。真如苑に限らず、教祖はこのようなシステムを血の滲むような努力の結果、創り出しました。あとは自動的に儲かるので、企業として「秀逸」だと言えるでしょう。
参考サイト: 総論:カルトに関する基本的理解 http://www.geocities.jp/cultseminar/whatscult.htm
> まず、前者はあらかじめその道筋と結果を示され、了承の上で、自ら、
> または第三者により施行される。そして本人があらかじめ望んだ結果
> が得られることを目的とする。しかし後者は、事前の情報開示は組織
> により意図的に制限され、「まず実践」という美名の下に、組織貢献
> が先に立つ。
手段は同じでも、誰がどんな資格のもとに何のために行うか、その意図
するところの違いを表すために後者を「カルト・マインドコントロール」
と区別する。そこは同意できます。
> 一般社会では、事前説明が無い契約は「詐欺」と言われるが、宗教法
> 人ではそれは許されてしまうようである。だから、反社会的宗教が蔓
> 延ってしまうことになる。
宗教においても、個人の求めに対する成就を約束するという「契約」
(と仮に言うならばですが)についての説明はあるといえます。
この「事前説明」とは何についての説明でしょうか?目的成就のための
手段についての説明がない、ということであれば、それが「詐欺」と呼
ばれる理由が明らかではありません。
> カルトは、病・貧・争の解決を表に出して釣ることが多いが、それに
> 加え、悟りや霊能力会得も売り物にする。「バビル2世」という漫画が
> あるが、人はやはり超能力に惹かれてしまう。オウム真理教信者も、
> そういった、心の要素を突かれて嵌められたのである。そしてそこには、
> 「霊的位階」が設定され、人の進級欲を刺激する。 本来仏教にも
> 「阿羅漢」と言う位があるが、それは欲で欲して得るものでは無いはず
> であり、もしそうならば、「解脱」とは真逆の「執着」であり、本末
> 転倒であると言える。
カルトとは宗教的装いを持った反社会的集団である、との定義どおりです。
> 詳細を隠されたまま入信した信者は、実践先行の精進?の中で、次第に
> 後戻りができなくなる。これが、カルト必殺の「認知不協和理論」の悪
> 用である。「いつでも辞められる」と、軽い気持ちで入信するが、自ら
> の心理システムによって、自らが縛られてしまうのである。この時点で、
> あらかじめの予定とは「ずれて」しまい、組織の土俵の上で育成されて
> しまっている。しかも、本人には騙されている意識は無い。これが、無
> 知の怖さである。・・・
以下、相手が反社会的集団と知らずに「マインド・コントロール」的アプ
ローチを受ければどのような結果となるか、ということを書かれています。
確かにそれは非常に怖いことです。
> そして、社会にも、人を操るマインドコントロールはあるが、では「カ
> ルト・マインドコントロール」との差異は何か。
>
> 戦前の日本は、「天皇」という虚像の元に、選ばれた民として開戦した。
> 実際は米国の罠に嵌っただけだったようであるが、国民は虚像による扇
> 動に乗り、操られた。現在でも、首脳の煽りによりコントロールされて
> いるが、果たして、学校で、勤務先で、「○○○を鵜呑みに信じて実践
> しなければ悪い種子が噴出して滅びる」と言うだろうか。 カルトには
> 言わずもがな「教義」があり、それは、学校や企業にも在るが、その差
> 異は何か。
>
> カルトには、信じる対象があり、その教義は、証明しようが無い「妄言」
> ではないか。「やればやるほど幸せになる」と言うが、その統計結果は
> 出したのか。信者個人の、人生の、経常利益は毎年確認されるのか。美
> 味しい結果だけを公表するのなら、それは悪質なプロパガンダである。
> そして、「事前の情報開示無し」に「甘い妄言」に釣られてしまうのも、
> 本人に心の隙があるゆえであろう。
これは奇しくも、競争社会から脱落すれば下流の生活が待っている、稼げ
ば稼いだだけ幸せが待っている、という価値観のもとに経済的繁栄を築いて
きたが、経済的豊かさと幸福感とが比例するとは実は誰も証明したことが
なく、むしろ反比例する現実がある中でグローバリズムの戦略に嵌っていた
だけだった、という陰謀論と重なります。社会的制度とマスメディアを利用
したプロパガンダを手段として用いるかどうかという以外、差異はないよう
に思います。「心の隙」は本人の問題というより、たいていの人に隙がある。
そうでなければそう簡単には歴史は繰り返さないことでしょう。
> もちろん組織の魅力はそれだけでは
> ない。 刺殺されたオウム真理教の村井秀夫幹部は、「かもめのジョナサ
> ンになりたかった」と語っている。
これは何をおっしゃりたいのか、よくわかりません。
> ネット上にはこの手の解析は多く在りますので、早速色々調べてみては如何でしょうか。
はい。これらのネタ本はいくつか読んでおります。
> 宗教カルトはこのような手法を駆使して拡大し利益を揚げます。真如苑に
> 限らず、教祖はこのようなシステムを血の滲むような努力の結果、創り出
> しました。あとは自動的に儲かるので、企業として「秀逸」だと言えるでしょう。
宗教カルト被害者本人には「だまされている意識はない」ということですが、
私もご多聞にもれず、宗教カルトに騙されているという意識はありません。
「宗教カルトに騙されている哀れな被害者の目を醒ましてあげよう」という善意
からいただいたコメントと理解したいのですが、あなたの仰ることを素直に受け
取れば、私は永遠に騙され続けることにしかならず、あるいは私が騙されて
いることに気づくことを期待されているのであれば、「その程度」のカルト
と認めておられるということなのか…理解に苦しみます。
公開前に内容を読ませていただいたのですが、あまりにも詭弁が多く、正直辟易としてしまいました。
下の掲示板にも公開されているのと同様の内容ですが、もしこちらで公開を希望されるならば、大変不本意ながら使われている詭弁に対する指摘を私からの返答コメントとして公開せざるを得ないと考えますが、それでも公開を希望されますでしょうか?
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/9418/1209906332/r62-64
それなら、果たして「詭弁かどうか」を書き現わせば良いと思います。 それが、多くて疲れるならば、1個でも良いのではないでしょうか。
残りは捨てて流して。
>詭弁に対する指摘を私からの返答コメントとして公開せざるを
そもそも、公開する為にブログが在るのです。 最も恐れるべきは、「結論があやふやになりフェード・アウトしてしまうこと」でしょう。
それでは意味が無い。 もちろん、返答しない自由も在ります。しかし、
ここはあなたが成長するチャンスでもあります。
誰しも自分の主張を詭弁的と指摘する内容のものを公にされて気持ちの良いものではありませんので、何でも公開すれば良いというものではありません。
あなた自身が、自身への批判を受け止める用意があるならば公開せずにメールでお送りするという方法もありますが、いかがでしょうか?
残念ながら、あなたが自身への批判を受け止める用意があるかどうかという点については文面からは疑わしいと感じているのですが…
信者は弱者なのです。
そして、
幸福な人には
「信じないと、今の幸福は続きません。」
不幸な人には
「信じないと、今より不幸になりますよ。」
幸福な人も、不幸な人も
もしも、幸福なことがあれば
「信じていたので、幸福になりました。」
幸福な人も、不幸な人も
もしも、不幸なことがあれば
「信心が不足したので、不幸になりました。」
心の弱い人にとって
これらの言葉は、非常に強い影響力があります。
そして、より強いマインドコントロールに支配されます。
本当の宗教であれば
このような内容を伝えることはありません。
これは宗教ではなく
単純なマインドコントロールです。
それが分からないこと自体が、悲劇です。
幸福は不幸の裏返しであり、
コインの表裏のようなもので、
どちらに執着することも仮のものに実体を見出そうと
していることで、苦しみの元を断つことはできない。
真如苑においてそのことが教えられていることは
間違いないと私は確信しています。
しかし、
「良いことがあれば教えのおかげ、悪いことがあれば修行が足りないせい」
と処遇されることで萎れてしまっている人がいかにありふれていることか。
嘆かわしいことだと感じています。
そしてまた、何があっても「感謝」で受け止めることのできる
人も真如苑の中で普通に見聞きできることも確かで、
そういう人は強く生きている、と感じます。
どんな集団に属していようと、本人がただ漫然と暮らしているだけでは
弱者と呼ばれることに甘んじなければいけない、
と大切な奥様にお伝えいただければ幸いです。