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個人的に「語り継ぐ戦争」2

2016年08月17日 | 随筆
父は、昭和14年に祖父に伴って当時、日本であった満州に移住した。その後、陸軍士官学校に入学した。満州から単身、本土の全寮制の陸士で訓練と勉強をしていた。子供のころ、「あと3か月か半年、戦争が長引いていたら、多分、特攻隊か何かで戦死していたと思う」と父が話していたのが記憶にのこっている。
昭和20年8月15日、父は埼玉県の朝霞にあった学校にいたらしい。玉音放送を聴いた次の日の8月16日の昼、「○時に校庭に全員集合!」の命令が出た。
校庭に集合すると、全員に乾パンの袋を2袋だけ渡されて、「本日をもって解散する。全員国(くに)へ帰れ!」というような命令をされたそうだ。
実家が今の日本国内にあれば、なんとか時間をかけてでも帰ることができる。でも父の実家は満州にあった。当時、8月9日にソ連が参戦を決めて、満州にはソ連が機関銃を撃ちまくりながら攻めてきていたようだ。帰ろうにも帰るすべがないのだ。
年子の姉と妹は、年頃の娘だったし、父母、そして当時生きていた祖母もどうなっているのか、全く消息が不明だった。
 結局、帰るところがないので、満州に渡る前に近所に住んでいた、遠い親戚を目指して、帰っていったらしい。
 父は、その時のことを、あまり語らなかったが、私が青年の頃に聞いた一言は、「とにかく泣きの涙だったよ。」ということだった。
 親戚の立場からすれば、自分たちの食糧も無い時代に、思いもかけない屈強の食べ盛りの青年が急に現れて、多分、迷惑だったに違いないことは想像に難くない。
 父は、当時、安全衛生管理が全くできていない、近くの化成ソーダ工場に働きに出たそうだ。親戚のおじさんは親切にしてくれた、という言葉も記憶に残っている。
 そして、両親と姉・妹は、どうなったのか全く消息がつかめなかった。敗戦で陸軍士官になる道はなくなり、家族も消息不明。身を寄せているのは、あまり親しくはない遠い親戚の家なのだ。確かに「泣きの涙だった」という気持ちはよくわかる。
 その約6か月後、両親と姉と妹が無事帰ってきた。祖母は、引き上げの苦労と疲労が激しく満州で亡くなったそうだ。姉と妹は、わざと顔に炭をつけて、男のような恰好をして難を逃れたらしい。帰国後は、母親が、シジミやエビを採ってきて食料にしたそうだ。父親は、なかなか職がみつからなかったらしい。
 その後、父は、姉の勧めで学費が無料の大学に入学した。新聞配達などをしながら、生計を立てていたようだ。大学を卒業し、会社員となって、結婚し、私たち家族が存在しているのだ。

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