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人間学 人生や魂に役立つブログ 「魂の人間学」

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「地球環境問題について」 - 地球の酸素ボンベを守れ

2019年09月26日 | 科学と人間
 温室効果ガスの問題、2酸化炭素排出量の問題、地球温暖化の問題が国連や国際世論に広く取り上げられることは大変良いことだし、誠に喜ばしいことだと思っている。
 まるで、現代のジャンヌダルクのように現れた、スウェーデンの16歳の若い女性の登場もその盛り上がりに大きく貢献している。
 地球環境問題。そのことで、ひとつ気になることがある。
ブラジルなどのアマゾン流域などのジャングルや密林地帯が伐採されていることだ。
アマゾンの密林地帯は地球の酸素ボンベでもある。地球スケールで酸素を供給している場所なのだ。これが今、焼き払われたり、伐採されているという。
 現地の人たちも、生きていくためにやっていることで、一概にその人たちを責める訳にはいかない事情もある。これは国レベルの問題ではなく、地球レベルの問題だ。
 国連で解決できればいいが、多分、お金が絡むから難しいだろう。特に自国ファーストが優先されてしまえば・・。こういう地球スケールの問題を解決する地球政府があるべきだとも思うが、現実には無い。今の世界では国際連合がそれに近い組織となっているが、国の連合体であるから、各国内の問題は内政の問題とされてしまうし、アマゾンなどのジャングルや密林伐採について、対策を講じているようには見えない。
 
 日本はODAを政治の一環としてやっているが、アマゾンの密林地地帯の生活者に援助して、伐採や焼き払いを止めてもらうべきではないだろうか。国益優先もいいが、地球益、世界益を考えた行動をしないと、最終的には酸欠になって人類は滅びてしまうだろう。
 
 長い地球の歴史の中で、気温は上下してきた。氷河期だってあった。
しかし、生命が誕生して、酸素不足は人類のまさしく死活問題で喫緊の課題であろう。森林は一朝一夕に出来るものではない。長い年月をかけて地球が創り上げてくれた「地球の酸素ボンベ」を破壊することは自殺行為だ。
 
 投機マネーが世界中で何百兆円も飛び交っていると聞く。分かち合いの精神で、「地球の酸素ボンベを守れ」と声を大にして叫びたい。

人工知能(AI)の進化する社会に必要な考え方

2017年05月11日 | 科学と人間
人工知能(AI)の進化する社会に必要な考え方

人工知能(AI)の進化が著しい。将棋などでも人工知能の方が、人間よりも強くなっているとか。2035年ころには、単純労働をはじめとして今の仕事の大なる部分を人工知能が担えるようになる、という説も出ているようだ。
 ただ、ここで、1点だけ間違ってほしくないのは、人間が主で、機械は従であるという原則だ。数百年後のことまではわからないが、少なくともここ数十年については、人間が自由な時間を謳歌し、自分の個性を輝かせることができるような時間を多く得るために、神経をすりへらすような単純労働や思考パターンのきまっている仕事については、機械に任せていく。
 そういう意味で人間にしかできない仕事が残っていき、機械に任せられる仕事については機械に任せた結果、今の1日8時間労働が、4時間労働になり、週休3日あるいは4日になるかもしれない。その代わりに自分にしかできない自分の個性を輝かせるような創造的な仕事をしていく社会になっていくのだろう。これが労働という意味であれば、週5日1日8時間以上働いているという社会は継続することになるが・・。
 人工知能が進化しても、その際に人間が貧しくなるようなしくみを築いてはならない。人間が単純労働、あるいは機械に任せられる仕事から解放されるためにある社会のしくみであらなければならない。仮に1日4時間労働で週休3日だとしても、現在の豊かさは維持・発展できる社会でなければならないと思うのだ。人工知能がどんどん進化していく社会においては、主客転倒しないように人間が貧しくなっていくような間違った考え方を決して入れないように注意する必要があると思う。

南方熊楠と細胞性粘菌について - 自然や生物から受けるインスピレーション -

2015年02月09日 | 科学と人間

  南方熊楠は、粘菌の研究でも有名だ。
 和歌山県に行った時には、南方熊楠記念館を見学したことがある。生物学者、博物学者として、そして柳田國男などとも交流があり、民俗学にも造詣があった。
 
 若いころ読んだ本に「細胞性粘菌」の記述があり、たまたま、同じ時期に見たその(細胞性)粘菌の映像をテレビで見る機会があって、大変印象深かった。
 私がテレビで見た(細胞性)粘菌の映像は、食物が足りているときは、細胞としてばらばらに生きている。しかし、何らかの環境の変化などで、食物が足りなくなると、そのひとつひとつの細胞が集まって、ひとつの集合体になる。
 
 アメーバというよりは、本当に小さなミミズのような、電子顕微鏡で見た、コレラ菌のような形をしていて、「グループダイナミクス」と言う表現が適切と思えるような動きをする(もののけ姫に最後に出てきた巨大な生物(?) を想起する)。
 
 この集合体で動いて食物を摂取するらしい。

 ある時、この集合体が、地面から細い棒のように伸びて、その上に丸い液体の胞子のようなものが乗っかったような形に変貌する。
  こうやって地面に1本の棒状の足がついたような形の上に丸い球体のような中にいわゆる本体のようなものがあって、生存し続ける。

 そして、また、食べ物が豊富な時期になると、細胞に戻っていく、というような興味深い生物なのだ。専門用語を使わないで説明したが、調べると図解入りで出てくると思う。

 興味深かったという理由は、この細胞性粘菌の行動形態が、「人間社会の営みに似ている」と思ったからなのだ。
 
 会社組織の発生も、この細胞性粘菌みたいだなと思ったものだ。
 
 衣食が足りてくると、人間の生活度合いが個人主義的になるところも似ていると思ったのだ。大家族から核家族とか、単身世帯が多くなるとか・・・・。

もうひとつ興味深く思い出すのは、動物の組織の中の単細胞と、通常のミドリムシとかゾウリムシなどの単細胞との違いを撮影した映像だった。
 
同じ単細胞で、細胞に周りには繊毛のようなものがあって動く。核もミトコンドリアも、小胞体も同じように持っている。しかし、動物の組織の中にあった単細胞は、繊毛で同じ方向に動いていく。
一方ゾウリムシなどの単細胞生物は、自由に動く。

驚いたのは、組織単細胞は、それに触れたら危険な物体、例えば毒物や温度の熱いものなどを置いておいても、そのまままっすぐ進んで、その危険物に当たって死んでしまったことだ。
ゾウリムシやミドリムシは同じ単細胞(脳細部が別にあるわけではないのに)、なのに、たくみに危険物をよけていく。

組織の中でぬくぬくと同じことをしていると、そんな風になってしまうのだと思い知らされたものだ。組織の中でも、ゾウリムシやミドリムシのように自分で(脳細胞?を使って?)危機を回避し、適切に判断できる、そしてもっと言えば究極的には自由裁量で行動できる人物にならなければいけないな、とその映像を見て教えられたものだ。同僚や先輩に話しても同感してくれたものだった。

 
 アリの巣なども、分業で、怠け者の人間より、よく働くのではないかと思えるのだが、ほんとうによく働くのは、約2割で、あとの6割くらいは、中間層らしい。そして、あとの2割はあまり働かないらしい。
 実験でこのよく働く2割を、隔離して別のところに移してしまうと、残り中間層の6割の中から、よく働くアリが出てくるということだ。これが、やはり全体の2割くらいに落ち着いてくるというから面白い。
 何回か同じことを繰り返してもそうなのだろう。最初のあまり働かない2割も、最後は、やむを得ず(餓死しない程度に)働くことになるのだろう。
 
 こういう自然や生物などからインスピレーションのようなものが来る場合があるから面白い。

ニューサイエンスについて

2014年08月07日 | 科学と人間
ニューサイエンスについて

1980年代前半だったが、大学を卒業し、就職してからニューサイエンス関係の本をよく読んだ時期があった。最初に読んだ、とっかかりの本はライアル・ワトソンの「生命潮流」だった。
この本は、冒頭から、誠に不思議なことが書いてある本だったので、分厚い本だったが、引き込まれて、短期間で読んでしまったと記憶する。

そして「還元主義を超えて」という本だったと思うが、部分の総和は、必ず全体より小さい。【部分の総和 < 全体】という、通常の数学とは違う結論を学んだものだ。
頭の中の直観、感覚や概念では、そのようなことを思っていたところに、「そうそれ!」というような言葉を与えてくれたような内容だったので共感したのを覚えている。
 
 あとは、ピーター・ラッセルの「グローバル・ブレイン」などは、大変印象に残っている。やはり、若いなりに物事を考えてはいたが、学問なども細分化されすぎてきて、グローバルな視点から行動を起こさないと、アマゾンやアフリカなどの森林資源伐採などによる、地球の酸素ボンベの危機とか、地球規模の環境破壊や生態系の問題、あるいは核兵器による人類存続の危機といったことに対応できずに、まるでレミングの集団自決のようなことのなりかねないと危機感を持っていたころに出会ったので共感したのだった。
 
 現在でも中央省庁の縦割りの弊害などは、30年前と本質的には変わっていないと言えるだろう。
 まあ、当時から、産学官共同などと言われて、多少は改善されたのかもしれないが・・、。

  要素還元主義は、マクロにとらえる目的を、要素や部分に分けて、解明していくことを目的としてきたと思うが、細部を深めることのみに固執して、それが、いわば目的のようになってしまい、最初の目的であった、巨視的に物事の本質をとらえ直すということを、忘れてしまっているように感じていたのだ。一国の総理大臣とか、シンクタンクとかの、集団指導でもいいから、トータルな視点を、立派な「人物」に委ねた判断が必要になっていると思っていた。
 国連などでは、そういう地球規模の視点からの議論があって、重要なことだと思ったものだ。

  巨視的な視点から、地球規模から問題をとらえるということの必要性を感じていたので、こういう読書傾向になっていったのかと思う。

 「ホロン革命」という本があり、日本でも、この「ホロン」という言葉を題名にした本が出回っていたように思う。医学の分野でも、ホーリスティックなどと言って、統合医療の重要性が指摘され始めた頃でもあったかと思う。
大学病院などで、何科、何科と分かれているが、2つや3つの科にまたがるような合併した病気もたくさんある。自分の専門と違うから何科に行ってくれと、また検査のやり直しをしたりすることもあり辟易することもある。病院が変われば、やり直しはつきまとうのが通常だ。

 確かに高度な医療には専門性が重視されることもわかるが、患者を診て、触診して、どこが悪いかをある程度はわかるような医者が本物で、次に検査があるのではないか。人の顔もロクに見ないで、検査の値のみしか見ない医者を、どうも心底信用できない気がしてならないのだが・・。

 まあ、個人のカルテの共用システムのような、ITに依存する部分や厚生行政の決断によるところもあろうが・・。
西洋医学は、要素還元主義、東洋医学は、どちらかというと統合医療のようなものに近いのかもしれない。両刀づかいで、長所をとれば、鬼に金棒になるのかもしれないが・・・。

ホロンという言葉から、密教の曼荼羅を連想したり、雪の結晶のような、切片曲線論を結びつけたりしたのも、その頃だったかと思う。
 スタニスラフ・グロフという人の「スフィンクスと虹」という本も印象に残っている。
単なる、実験物理や化学、のみでなく、人の心理や、念いのようなものも考慮した、科学のようなものの必要性を感じていた頃に、いわば同通、同期したように、ニューサイエンスの本を読み漁った日々だった。

「アインシュタインの相対性理論」と「ハイゼンベルグの不確定性原理」から思うこと

2014年02月24日 | 科学と人間
 アインシュタインの相対性理論とハイゼンベルグの不確定性原理

 E=mCで代表される、アインシュタインの相対性理論だが、ハイゼンベルグと言う人が不確定性原理というものを発見し、ニールス・ボーアらが量子力学に発展させて科学的に主流になってくると、アインシュタインが、晩年になるまで、「神がサイコロを振って物事をお決めになるはずがない」、と言って相対性理論の正しさに固執していたという話を耳にしたことがあった。

ハイゼンベルグの不確定性原理は、測定者の主観や思考も観察する客体に影響をあたえてしまうため、従来の客観的態度で観察物を測定することは不可能で、測定した瞬間に値が変化してしまうということだったように記憶する。
 
アインシュタインは、科学的な客観的態度は、あくまで客観的に物理的に物事を測定する態度であった。自分を勘定に入れず、というか。
 
しかし、自然科学では従来認めてこなかった、本質的には、自他一体のしくみが存在するため、自分を勘定に入れない客観的測定は、厳密には、ありえないとする原理が発見され、確率論を包含した量子力学として、定着していったということだと思う。

 「思いは実現する」とか、「言葉の創化力」などは、この辺に由来する。

 もっと言えば、プラズマ論などにまでいけば、ニュートンの万有引力の法則も、修正しなけれなばならないほどの理論と現実が発生している。

 故政木和三博士も、スプーン曲げのいかさまを科学的に論破しようと思って、眼に見えないほどの1000分の3ミリだけスプーンが手を触れずに曲がっているのを発見してしまい、超能力を科学として研究するようになってから、奇跡のようなことを数多く体験することになったとのことだった。

 自然科学は、人間の意識とか、想念の力というものを度外視する態度をとり続けていると、時代遅れになっているし、本当の意味での正しい自然科学的態度ではない、時代にとっくの昔からなっているのだが、そこの部分に学会の重鎮レベルで変わっていっていないのではないだろうか。

 最近、東大病院の先生が、「人は死なない」という本を出版されているが、魂や霊魂のことも含めた自然科学というものを築いていかないと、本物時代の自然科学としては、片手落ちになってしまう時代がすでに来ていると思う。
 たとえば、魂というものは、大宇宙に遍在している神とも言われるべきエネルギーから分かれてきた、いわゆる、分け御魂というべきものだ。自然科学の主体客体は、もとはひとつであり、霊的にはつながっているとも言える。

 ここに、厳密に主体と客体を分けることが困難な状況が発生しており、自然科学がこのことに追随している状況なのだ。だから、従来の観察者を勘定にいれない、客観的な科学的態度というものは、非常に厳密な世界の中では、時代遅れにならざるを得なくなってくるわけなのだと思う。

 目に見えない世界のことも考慮に入れた自然科学というものが、メジャーになってくるのが時代の要請であり、必然でもあろう。