幕末維新を巡る旅 山口県 城下町長府編
山口県の城下町長府を訪れた。
下関や新下関駅前からバスが出ている。
城下町長府のバス停から歩くと、「維新発祥の地」と刻まれた石碑がある。
古くは、豊浦宮があって、仲哀天皇や神功皇后、そして応神天皇ゆかりの地と言われ、現在はその3神をご祭神とした忌宮神社が中心部にある。
そして、幕末になると1863年の8.18の政変で京都から追放された三条実美をはじめとする七卿が長州に落ち延びた際に住まっていた功山寺が有名だ。
高杉晋作が卿に誓う形でこの「功山寺」で挙兵をし、最初はわすか80数名で、藩論を後の正義派の藩論に変えせしめた、まさに維新回天の原動力になった地でもある。
功山寺には、高杉晋作の馬に乗った精悍な銅像が目につく。
19歳の時に、古川薫さんの本を2冊ばかり持って、新幹線の中でそれらの本を読みながら、この地を訪れた時の感慨は、今でも鮮やかな記憶として残っていたのだが、その感慨が甦ってきた。
若いころには、単純にあこがれた高杉晋作は、今の歳になって思えば、相当癖のある人物だったとは思うが、彼がいなかったら、そして、ここで挙兵をし、藩論を変えていなかったら、明治維新はどうなっていたかわからない。維新に必要欠くべからざる人物であったことは間違いない。ちなみに、伊藤博文もその80数名の中に入っていたのだった。山縣有朋は慎重で、あとからついて行った形になった。
功山寺裏には墓地もあり、大内義長の墓がある。
坂本龍馬と京都行を共にし、寺田屋で襲われた時に一緒にいた槍の名人、三吉慎蔵の墓もここにあった。
長府毛利邸もあり、「切り通し」「古江小路」と呼ばれる、伝統的な景観を残す道も趣がある。
そして、忌宮神社の奥手には、乃木神社がある。乃木大将の生家があったところだ。
西郷隆盛、乃木希典、谷干城は、明治天皇が大変信頼した3人であるそうだ。
明治天皇は、日露戦争で勝利した後の日本人の奢侈に流れる風潮を残念に思われていたようで、孫の昭和天皇の教育を乃木に任せるため、乃木はのちに学習院の校長に任命されている。
山口県の城下町長府を訪れた。
下関や新下関駅前からバスが出ている。
城下町長府のバス停から歩くと、「維新発祥の地」と刻まれた石碑がある。
古くは、豊浦宮があって、仲哀天皇や神功皇后、そして応神天皇ゆかりの地と言われ、現在はその3神をご祭神とした忌宮神社が中心部にある。
そして、幕末になると1863年の8.18の政変で京都から追放された三条実美をはじめとする七卿が長州に落ち延びた際に住まっていた功山寺が有名だ。
高杉晋作が卿に誓う形でこの「功山寺」で挙兵をし、最初はわすか80数名で、藩論を後の正義派の藩論に変えせしめた、まさに維新回天の原動力になった地でもある。
功山寺には、高杉晋作の馬に乗った精悍な銅像が目につく。
19歳の時に、古川薫さんの本を2冊ばかり持って、新幹線の中でそれらの本を読みながら、この地を訪れた時の感慨は、今でも鮮やかな記憶として残っていたのだが、その感慨が甦ってきた。
若いころには、単純にあこがれた高杉晋作は、今の歳になって思えば、相当癖のある人物だったとは思うが、彼がいなかったら、そして、ここで挙兵をし、藩論を変えていなかったら、明治維新はどうなっていたかわからない。維新に必要欠くべからざる人物であったことは間違いない。ちなみに、伊藤博文もその80数名の中に入っていたのだった。山縣有朋は慎重で、あとからついて行った形になった。
功山寺裏には墓地もあり、大内義長の墓がある。
坂本龍馬と京都行を共にし、寺田屋で襲われた時に一緒にいた槍の名人、三吉慎蔵の墓もここにあった。
長府毛利邸もあり、「切り通し」「古江小路」と呼ばれる、伝統的な景観を残す道も趣がある。
そして、忌宮神社の奥手には、乃木神社がある。乃木大将の生家があったところだ。
西郷隆盛、乃木希典、谷干城は、明治天皇が大変信頼した3人であるそうだ。
明治天皇は、日露戦争で勝利した後の日本人の奢侈に流れる風潮を残念に思われていたようで、孫の昭和天皇の教育を乃木に任せるため、乃木はのちに学習院の校長に任命されている。