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幕末維新を巡る旅 山口県 城下町長府編 

2015年06月25日 | 歴史探訪
幕末維新を巡る旅 山口県 城下町長府編 

山口県の城下町長府を訪れた。

下関や新下関駅前からバスが出ている。

城下町長府のバス停から歩くと、「維新発祥の地」と刻まれた石碑がある。


古くは、豊浦宮があって、仲哀天皇や神功皇后、そして応神天皇ゆかりの地と言われ、現在はその3神をご祭神とした忌宮神社が中心部にある。




そして、幕末になると1863年の8.18の政変で京都から追放された三条実美をはじめとする七卿が長州に落ち延びた際に住まっていた功山寺が有名だ。




高杉晋作が卿に誓う形でこの「功山寺」で挙兵をし、最初はわすか80数名で、藩論を後の正義派の藩論に変えせしめた、まさに維新回天の原動力になった地でもある。

功山寺には、高杉晋作の馬に乗った精悍な銅像が目につく。


19歳の時に、古川薫さんの本を2冊ばかり持って、新幹線の中でそれらの本を読みながら、この地を訪れた時の感慨は、今でも鮮やかな記憶として残っていたのだが、その感慨が甦ってきた。

若いころには、単純にあこがれた高杉晋作は、今の歳になって思えば、相当癖のある人物だったとは思うが、彼がいなかったら、そして、ここで挙兵をし、藩論を変えていなかったら、明治維新はどうなっていたかわからない。維新に必要欠くべからざる人物であったことは間違いない。ちなみに、伊藤博文もその80数名の中に入っていたのだった。山縣有朋は慎重で、あとからついて行った形になった。

功山寺裏には墓地もあり、大内義長の墓がある。


坂本龍馬と京都行を共にし、寺田屋で襲われた時に一緒にいた槍の名人、三吉慎蔵の墓もここにあった。



長府毛利邸もあり、「切り通し」「古江小路」と呼ばれる、伝統的な景観を残す道も趣がある。






そして、忌宮神社の奥手には、乃木神社がある。乃木大将の生家があったところだ。





西郷隆盛、乃木希典、谷干城は、明治天皇が大変信頼した3人であるそうだ。

明治天皇は、日露戦争で勝利した後の日本人の奢侈に流れる風潮を残念に思われていたようで、孫の昭和天皇の教育を乃木に任せるため、乃木はのちに学習院の校長に任命されている。

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幕末維新を巡る旅 山口県 萩編2  木戸孝允 高杉晋作 久坂玄瑞 山県有朋の生誕地を巡って 

2015年06月25日 | 歴史探訪
幕末維新を巡る旅 山口県 萩編2 木戸孝允 高杉晋作 久坂玄瑞 山県有朋の生誕地を巡って 

 NHK大河ドラマ「花燃ゆ」放送のため、萩は、「花燃ゆ 文と萩物語」などと書かれた「のぼり」がたくさん立っていた。明倫館跡地のとなりに「花燃ゆ大河ドラマ館」が、臨時で開設されていた。「花燃ゆ」号という期間限定のバスも金土日のみ1日1往復運転していて、萩と萩・石見空港を結んでいた。




 萩博物館では、新たに発見された、吉田松陰全集に未収録の松陰の自筆の手紙の実物や松陰先生ゆかりのものが展示されていて、大変有意義だった。

 
 松陰神社境内にある宝物殿「至誠館」で展示されている手紙も併せると、萩ゆかりの志士たちの自筆の手紙をたくさん見ることができた。小田村伊之助や桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞などの自筆の手紙の現物だ。当然のことながら、それぞれに筆跡が違っていて、それぞれに字の個性があって面白かった。松陰先生は、右上がりの字と言われるが、そう言われればそうかもしれない。
 
 高杉晋作は、「花燃ゆ」では、真実そうであったのだろうが、同志ながら久坂玄瑞とライバル関係にあったように描かれているが、江戸でひとりになってしまった時に、久坂玄瑞あてに、いかに頼りにし、信頼しているかを綴った手紙も残っていた。

 現在の萩市役所の前に明倫館がある。現在の明倫小学校である。江戸時代には、珍しい、水泳訓練用のプールがあった。




 そこからしばらく歩くと、木戸孝允生誕地、高杉晋作生誕地が徒歩数分程度の近所にある。時代は少し下るが、田中義一首相の生誕地もすぐ近くだった。






 木戸孝允の家は、木戸が生まれた時のまま建て替えずに残っているという。畳は変えていても、家はそのままだということだった。木戸は1833年生まれだから、生後182年だ。もっと前から建っていたのだろうから、ざっと200年(以上?)。


 日本の家屋はそんなに長くもつのかと驚いた。係の人にそのことを聞いてみると、「こうして毎日窓を開けて風を通すと、いつまでももちますよ」という答えがかえってきた。
 
 日本の家屋がそんなに持つとは改めて驚いた。高杉晋作の家も多分同様だろう。
 
 木造家屋は40年~60年くらいで建て替えることが多いので、200年も持つということは、驚きだった。ヨーロッパの家は何百年ももつが、石造りが多い。木造なのに、まるでヨーロッパの家のように持つものなのだ、と妙に納得し勉強になった。
 
 バスで少し行ったところには、久坂玄瑞生誕地もあった。ここには、家は残っていなかったが。


この3人は、いわば徒歩15分圏内で生れたと言えるだろう。近所なのだ。

 バスで萩市の川島方面に行くと、藍場川のほとりに山縣有朋の生誕地がある。ここも家は残っていないが、立派な石碑が立っていた。

 
 同じ川島で徒歩圏に、桂太郎の生誕の地がある。偉くなった後に建てた家だということだった。庭に銅像が立っていた。桂太郎は、特に日露戦争前後は多忙を極めただろうから、ほとんど、この家に来ることはなかったのだろうが、水を流すと音がする井戸のようなものがあり、つかのまの風流を楽しんだのかもしれない。


 萩の町は、海からも近い。女台場と呼ばれる壕が海の目の前にあった。結構な高さだ。女だけで造ったわけではないが、男衆に混ざって、着物の女衆も手伝って造りあげたものだ。


  
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幕末維新を巡る旅 山口県 萩編1 「松陰神社・松下村塾とその周辺 松陰生誕地 そして墓所」

2015年06月24日 | 歴史探訪
幕末維新を巡る旅 山口県 萩編1 「松陰神社・松下村塾とその周辺 松陰生誕地 そして墓所」

 山口県の萩に行ってきた。NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」の幕末の舞台になっているところだ。東萩駅から割と近くにある松陰神社境内にある、松下村塾。19歳の時に見学したことがあったのだが、改めてその小ささに感嘆する。最初はもっと小さかったが、塾生が増えてきたので、増築してこの大きさだ。


その隣に松陰先生の父親である、杉百合之助の結構広い家がある。
 

 安政の大獄で江戸に行く前の松陰先生の肖像画を描いた、松浦松洞の生誕地は、松陰神社の入口前のバス停の目の前にある。


 松陰神社を出て、徒歩すぐに吉田稔麿の生誕地があり、


さらに徒歩で10分もかからないところに、伊藤博文の生家と別邸がある。






本当に松下村塾から近所なのだ。松陰先生のおじの玉木文之信の旧宅もその近くにあった。


 吉田松陰先生生誕地は、そこから、坂を登った萩の町と海を見渡せる見晴らしの良いところにあった。





その上方には、吉田松陰先生とペリーの黒船に一緒に乗り込もうと企てた、弟子の金子重之輔との2人の大きな銅像が立っていた。


 そのすぐ隣には、吉田松陰先生一族の広い墓所があった。妹の文の最初の夫であった久坂玄瑞の墓もそこにあったのだ。


 松陰先生の墓は、墓所の中でも生誕地から離れた方にある。吉田松陰先生のお墓は、松下村塾の弟子たちによって建立されたようで、お墓の建立に関わった者たちの名前が表示されていた。


その上方に、なんと高杉晋作の墓もあった。遺髪が埋葬されたということだった。


そしてまた、すぐ近くには吉田稔麿の墓もある。


  
 久坂玄瑞、高杉晋作、そして、吉田松陰先生のお墓には、生け花が供えてあり、松陰先生のお墓には、御線香とライターまで備え付けられていたのだった。吉田稔麿の墓にも生け花が供えてあった。

 近代日本の繁栄の礎を築いたとも言える、偉人たちの墓前に感慨を以てお参りしてきたのだった。
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戦後70年に思う

2015年06月23日 | 随筆
「戦後70年に思う」

戦争が終わって70年経った
終戦の年に生れても70歳
直接戦争の記憶が残っているのは
75歳から80歳以上の人たちだけとなった訳だ
戦地に行った人は ほぼ90歳以上

風化させてはならない
「過ち」を2度繰り返す
これを「過ち」と言う
広島・長崎に原爆が使用され
空襲や爆撃 
そして激戦に飢えや病気

あれだけ悲惨なことがあって
死者が何百万人も出たのにもかかわらず
負傷者も数えきれないほど
出たにもかかわらず

歴史から学ぶことを忘れた時
日本は 地球人類は
本当に決定的な過ちを犯すことに
なってしまう

平和な日本 平和な世界
愛と平和と笑顔に溢れる
地球にしたいものだと
切に 切に 思い願う
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