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ヒルティの「眠られぬ夜のために」について ーーー 仏教とキリスト教の「反省」

2024年08月26日 | カール・ヒルティ
仏教の教えの中に「反省」がある。仏教の中でも重要な教義というか実践法のひとつだろう。
 日々の仕事などで忙しく動き回っていると、様々な日常の雑事に追われ、心が落ち着く暇が無いことが多い。脳波で言えば、ベータ波の状態と言えようか。
 でも出家した僧侶でもなく、在家の者であれば、そういう状態は日常的なものである。
 だからこそ、お釈迦様は、1日の終わりには、多少の時間をとって、落ち着いて1日を振り返り、反省する時間をとることを勧めたのだろうと思う。今の時代の言葉を添えれば脳波をアルファ波の状態にして。もちろん1日の終わりだけでなく、よこしまな思いや悪しき思いが心の中に浮かんでしまった時は、即座に反省の思いを入れることは必要なことだ。
 お釈迦様が座禅を組むような結跏趺坐のような姿勢をしているのは、奈良や鎌倉の大仏の姿を見ても分かる。大悟した時の菩提樹の木の下での瞑想の時の姿でもあるだろう。
お釈迦様の存命中には、反省の仕方なども、弟子には教えていたのではないだろうか。

 キリスト教でも、「悔い改めよ」という言葉はよく聞く言葉だ。
 ヒルティは、岩波文庫でも出版されている「幸福論」全3巻で有名だが、同じ岩波文庫から「眠られぬ夜のために」全2巻も出版されている。
 ヒルティは、眠られない夜はつらい面もあるが、精神の向上のための絶好の機会として活用する側面を強調されていた。ヒルティの死後、365日の日付をつけて出版したのは、娘さんだったようだが、眠らぬ夜に後世の財産となるような名言、箴言を残しているのは、ヒルティの思想家的資質や通常の仕事としての文筆量の多さとしての産物だとも言えると思う。
「眠られぬ夜」を活用した実際の実践としての証明でもあろう。
悔い改めとは少し違うが、キリスト教徒でもあったヒルティは、反省という言葉は使っていないが、眠られない夜を逆手にとってというか活用して、仏教で言うところの「反省」と同様のことをしていたのではないかと思う。それもその思索の結果としての考察を書いて結果として書物として後世に残してくれているのだ。



正義は勝つとは限らないが、神は勝つ

2022年10月26日 | カール・ヒルティ
若い頃盛んに読んだヒルティの「幸福論」の中に、「正義は勝つとは限らないが、神は勝つ。このことは、大いなる慰めである。」というような主旨の印象に残る一節があった。
ヒルティは、キリスト者でもあった から、こういう表現をしているが、一般的な言い方をすれば、「正義と信じて行動し闘ったとしても、必ずしも勝つとは限らない。しかし大きな目で見た、全体最適のような視点からすれば、良い結果になる。」というような言い方になろうか。後者の表現が、最適なものかどうかは、多少の疑問が残るとしても・・・。
少し狭い解釈かもしれないが、戦前の日本も、慢心があったり、軍部が独走した面など様々な不幸が重なったことも否めないが、大筋では、自衛の戦いで正義の戦い、という風に思っていた節はある。しかし、日本は戦争に負けて、焦土になってしまった。
日本側の論点から見れば、「正義は勝つとは限らない」という面は、あっただろう。
しかし、戦後77年が過ぎて、現在の視点から見たら、どうであろうか。
 問題点を指摘すれば、多々あるかもしれないが、全体最適からすれば、国際協調の中で、結果的になるべくしてなったとも言えるのではないだろうか。
 300万人以上が亡くなった、未曽有の不幸な戦争であったことは間違いなく、2度とあのような戦争を起こさないように国民一人ひとりが、愛と平和の心を持ち続けていくことが必要だろう。そして国民から選ばれた政治家も、世界情勢を見極め、あるいは、新たな道を創り上げていくような壮大な理想を胸に、現実を見極めながら国のかじ取りをし、世界をよりよくするような意見を発信する必要がある。
 日本は、国連に加盟し、常任理事国にはなってはいないながら、世界の協調の中で、重要な役割を果たす一国となった。GDPもアメリカ、中国に次いで、世界第3位である。これからも、世界の中で、重要な役割を担い続けていく必要がある。もっと言えば、日本から世界へ日本の伝統や国民性、独自の経験を踏まえた意見を発信したりして、世界に役立つ名誉ある役割を担っていく必要があると思う。

「突破せよ!」

2015年08月28日 | カール・ヒルティ

 カール・ヒルティの著作に青年期の憂鬱になる時期についての言及があったと思う。
そして、そういう青年期の壁に当たったように思えた時の心構えや気の持ち方として、
その時の合言葉は「突破せよ!」という記載があったと記憶している。
 
 乱暴をするという意味ではないが、自分の青年期を思い出しても、
「自分に負けないこと」「克服すること」そして、この「突破せよ!」という言葉は、
そういう時期に必要なことであったように思う。


「突破せよ!」

「壁にぶつかっている」
と君は言う
「人生に壁なんか本来無い」
と私は答える

もし壁があるとすれば
それは自分が勝手に作り上げた壁だ
日々の思考の習慣にとらわれ
想像力そして創造力が
働かなくなっているのだ
想像力で壁を勝手に創り上げて
本来は無い壁に
ぶち当たっていると
思っているだけなのだ
幻の壁を消し去って
壁があったと思われたところを
勢いよく突破せよ
もしどうしても
壁が消せないのなら
さらなる想像力で
その壁をぶち破ってでも
突破せよ!

突破せよ!
突破せよ!
突破せよ!

あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい

2014年09月01日 | カール・ヒルティ
 
 ヒルティが「まさに食らうべきもの」と表現した「聖書」に、以下の記述がある。

 ヨハネ伝8章冒頭にある部分だ。律法学者やパリサイ人たちが姦淫の現場から連れてきた女を、モーゼの立法で石で打ち殺せと書かれているが、あなたはどう思うかと問う場面だ。彼らは、イエスから何か訴える口実を得ようと試すつもりの行動だったのだ。イエスは、地面に何か書いておられたが、何度も問われるので、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と答えて、また、身をかがめて地面に何か書いていた。
 
 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりひとり出て行き、ついに、イエスと女だけになった。イエスは、身を起こして「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」と問うと、 女は「主よ、だれもございません」と答えた。するとイエスは「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と言われたというところである。
 
 この記述が、聖書にあったことを、ヒルティは、深い感慨を持って述懐していた。弁護士からスイス陸軍の法務長官まで歴任し、そしてベルン大学でも法学関係を教えていたヒルティは、いわば、イエスの時代からすれば当時の律法学者の範疇に入ると言っても過言ではない。しかし、ヒルティは、聖書を座右の書にしていた。特にイエスが発した言葉を大変重要視していた。
  
 ヒルティは、イエスの時代から時が経過し、祝福、恩寵は、あれから多岐にわたって浸透しているというような立場から、学問や著述活動にも意義を見出していた。
ただ、法律論だけでない、この一説は、長年の聖書の伝承の中で、良く残った1節でもあろうと思う。

カール・ヒルティの贖罪観念について

2013年10月29日 | カール・ヒルティ
 カール・ヒルティの贖罪観念について

 ヒルティは、聖書を熱心読んだクリスチャンであった。特にイエス・キリストの話した内容部分については、絶大な信頼と信仰を持っていた。
ただ、ヒルティ著作を読んだ、一部の人(クリスチャン)から、贖罪観念が乏しいと批判を受けていたという。
 しかし、キリストの言葉に、人間が罪の子であるなんていう内容が、あっただろうか。
 自らを低くするものが高くされ、とか、赤子のようなもの、もっとも小さきものに天国の門が開く、とか「富んでいるものが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」というような内容はあったが、人間の本来の姿が「罪人」であるとか、罪の子などとは、イエス様が言ったとは到底思えないし、そういう記述はないはずだ。
 むしろ、人間は「神の子」であり、「光の子」であるという言葉を、イエス様は、残しておられるのだ。
 罪というのは、極端に言えば、たとえば人殺しをしたり、あるいは、盗みをしたり、ひとを騙したり、姦淫をしたりして人間が年をとり人生経験を重ねるうちに発生するもので、本来は人間は、罪の子、罪人ではなく、神の子、光の子なのである。
 そういう意味では、生まれにおいては、人間は、もともと善なるものであり、性善説に立脚するものなのだ。
 もちろん、生きていく中で、誰にでもある「間違い」を反省する姿勢は大切なことだ。
 聖書にもあるように、神の子、光の子であると思っていたであろうし、実際そういう人生を送った方だった。
 結婚して3人の子供をもうけ、人生の艱難苦難とは闘いながらも、自分に厳しい謹厳実直な人生を送り、家庭も幸せに守ったヒルティに、人間はもともと罪の子などという観念は、無くて当然だったのだと思う。