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仁徳天皇陵見学記  (百舌鳥・古市古墳群など)

2015年02月25日 | 旅行
 仁徳天皇陵見学記  (百舌鳥・古市古墳群など)



 「仁徳天皇陵」を見学する機会を得た。多分誰もが、学校の教科書の写真で一度は見たことがある、あの巨大な前方後円墳だ。
私たちが学校の教科書で習った頃は、「仁徳天皇陵」と習ったものだが、どうも今は、大仙陵古墳とも呼ぶらしい。
 
 日本最大の前方後円墳である仁徳天皇陵は、クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵と並ぶ、世界の3大墳墓ということだった(ピラミッドは墳墓ではないかもしれないが・・)。
しかし、まだ、一般的には、「仁徳天皇陵」とも言われているので、ここでは、「仁徳天皇陵」と書かせていただく。

 仁徳天皇は、丘の上から民の生活を見渡して、かまどの炊煙が、あまり立ち上っていないのに気付いて、民の生活が困窮しているのだろうと考え、民の暮らしが楽になるよう、3年間租税を免除し、自らも質素な暮らしをされたという(その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったと記紀に記録されている)。

 天皇系図では、仁徳天皇は、第16代天皇となっており、応神天皇の子にあたる。応神天皇の先代は仲哀天皇で、その御妃、すなわち応神天応の母は、あの神功皇后だ。
仁徳天皇は神功皇后の孫ということになる。仲哀天皇の父は、あの日本武尊である。この時代の歴史を少し紐解くだけで、日本の歴史のにおいが大いに感じられる。

 さて、仁徳天皇陵は、「百舌鳥」という駅が最寄駅になっている。教科書で見たあの「仁徳天皇陵」の写真は、航空写真であって、百舌鳥駅から地面を歩いて仁徳天皇陵のほうに歩いていっても、あの写真の前方後円墳の形は全くわからない。
 
 周囲にお堀があるから、ここが、仁徳天皇陵だとわかっても、中には森が広がっているようにしか見えない。しかし、陵の正面に行くと、厳かな参拝の区画のようなものがあって、「ここが、あの仁徳天皇陵か」と実感がわいてくる。

 2~3人の同じ黄色いウインドブレーカーを着たボランティアの観光案内の人が、話しかけてきてくれ、パンフをくれたり、少し案内をしてくれた。

 陵を後にして、反対側に道路を隔てて、博物館のほうに歩くいていくと、草むらにあまり見かけない鳥が1羽いた。そのすぐ先に、仁徳天皇と鹿と百舌鳥の白い像があった。説明文を読むと、その昔、仁徳天皇が、御陵を造営しようと、ここに来たところ、鹿が野の中から走り出て倒れ、その耳から百舌鳥が飛び去ったという逸話から、ここ地名を百舌鳥耳原というようになったということだった。百舌鳥と言う駅名もうなずける。

 
 この説明文を読んで、さっき見かけた見慣れない鳥は、もしかしたら?と思い、スマホで百舌鳥を検索してみた。はたして、その通り。さっき見かけた鳥は百舌鳥だったのだ。わたしにも、姿を見せてくれて、正直嬉しかった。
 
 さらに博物館の方に歩いていくと、さっきの百舌鳥が1羽歩いている。少し遠かったが望遠にして写真を撮った(添付写真参照)。


拡大してあるからあまり鮮明ではないが・・。
 
 堺博物館の正面横に、千利休像があった。ここは堺なのだ。



 博物館に入ると、古墳時代の展示も多かったが、堺商人に関する記述も多かった。

 この近辺には、履中天皇陵など、多数の前方後円墳や古墳がある。中国の歴史書「宋書」倭国伝には、421年から約半世紀にわたり、讃・珍・済・興・武という倭国の王による遣使があったとの記録があり、「倭の五王」と呼ばれ、応神天皇から雄略天皇の代という説があり、「この倭の五王」の時代に、百舌鳥・古市古墳群の造営が行われ、巨大な前方後円墳に葬られた、ということだった。ただ、応神天皇陵などは、大阪府ではあるが、少し離れた道明寺駅方面にある古墳群の一番大きな前方後円墳として存在している。

歩くと、小さな古墳にも出会う。小さな古墳も入れると本当に多数存在していた。「いたすけ古墳」という大き目の古墳もあった。

「邪馬台国」「卑弥呼」「臺與(台与)」を巡る旅 ――― 纏向遺跡と箸墓古墳、三輪山近辺散策記

2014年08月29日 | 旅行
   纏向遺跡と箸墓古墳、三輪山近辺散策記

 昨年、吉野ヶ里遺跡に行ったことは、このブログにも記載させていただいたが、今月、奈良県桜井市の纏向遺跡一帯から三輪山近辺を散策してみた。
JR巻向駅から三輪駅を、遺跡を巡りながら4時間くらいかけて徒歩で散策したのだった。

 
 その中で最も大きな遺跡と言えるのが、箸墓古墳だった。倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)のお墓ということだ。
一部には卑弥呼の墓という説があるようだが、私は、全く専門家ではないのであるが、臺與(台与:トヨ)の墓ではないかと思って散策をしていた。
 
 今回の纏向一帯に行く理由は、この臺與(台与:トヨ)のお墓、巨大な前方後円墳を実際に自分の目で見てみたかった、というのが大きな理由だ。
NHKの特集や専門書の読みかじりなどから、自分の中では、邪馬台国(本来は、ヤマト国と言うらしい)は、卑弥呼(本来は日向(ヒムカ)と言うらしい)の時代には、九州にあったが、臺與(台与:トヨ)の時代に、どうも纏向あたりに移ってきたらしい、というのが、真実なのではないかと思って、今回はここに行くことにしたのだった。

 邪馬台国(ヤマト国)は、魏志倭人伝や中国のその他の文献などから、巫女の能力があった卑弥呼(日向)の死後、男王が立ったが、男王が立ったとたんに各地から反乱ののろしが上がって、国がまとまらなくなったという。そこで、卑弥呼(日向)のそばで巫女の修行をしていた、卑弥呼(日向)から一番信頼の厚かった縁戚関係の臺與(台与:トヨ)に白羽の矢が立って、後継者となると国が収まったという話が残っているのだ。

 邪馬台国(ヤマト国)には、所在地として九州説と畿内説があって、どちらの学説もゆずれないようだ。でも、2世紀から3世紀のことだから、日本国内の文献的にも非常に乏しく、中国の魏や晋の時代の記録を主に頼っているのが現状のようだ。
 古事記や日本書紀は、あとから書かれた本だ。邪馬台国(ヤマト国)は、最初は九州にあったが、卑弥呼の死後、臺與(台与)の時代に畿内に遷移したとすれば、2つの説が両者とも間違ってはいないということになる。
 
 散策しながら、3世紀には、当時としては栄えていたであろう、巻向駅から三輪駅一帯は、現在は、大変のどかな田園地帯であったのが、少し意外というのか感慨深かった。まあ、当時もこんな感じだったのだろうな、とは思ったが、現代にしてみると、当時の日本の首都のような地だったはずの、このあたりが、昔のまま、のどかな原っぱと田園地帯であるということに少し、おもしろいものだな、という感想を持ちながら・・。
 
 思えば、ギリシャのパルテノン神殿やゼウス神殿、アポロン神殿なども、当時は文明の中心地であったであろうが、今は、観光客は多いが、完全に遺跡になってしまっているのを、なんとなく連想しながら歩いていたのだった。
たんぼには、多数のカエルや、都会では見られない大きな黒い貝がたくさんいた。
 
 田んぼのあぜ道のようなところや、草原のようなところを歩いていくと、バッタも結構飛んでいた。詳しい種類はわからなかったが、昔は良く見ることのできた、トノサマバッタなども結構いたようだ。いわば散策には、もってこいの、のどかな田園地帯なのだった。

 巻向駅は、無人駅だった。でも、スイカ、パスモなども使える機械は設置されていた。大阪からパスモで入場したので、機械がなかったら、どうしようかと、少し不安だったのだが、ホッとした。


 巻向駅から、しばらく歩くと、4つくらい古墳があった。見学して写真を撮ったりして散策していった。巻向駅近くには、柿本人麻呂の住居跡もあって、やはり、3世紀以降少なくとも8世紀くらいまでは、日本の中心地と言ってもいいほどの場所だったのだな、と実感した。



 
 景行天皇陵や額田王の碑などの、近くまで行って巻向駅に戻る形で、箸墓古墳に向かった。木が生い茂った大きな前方後円墳なので、遠くからでも、あれが、箸墓古墳なのだな、ということがすぐにわかった。
 
 近くに行くと、池があって、一部で金魚の養殖もされているようだった。


 古墳の正面になると思われるところに、鳥居があって、倭迹迹日百襲姫命という石碑が立っていた。箸墓古墳自体が神社のようになっていたのだ。

  
 
 箸墓古墳を後にすると、三輪駅方面に向かった。直行するのではなく、遺跡のありそうなところを少し遠回りするように散策していった。
 
 村社国津神社という神社があった。


あまり詳しくはないのだが、そういえば、天津神系と国津神系の2つの系統があって、古代には、多少いさかいのようなものもあったように聞いたことがある。

 さらに歩いていくと、三輪山のふもとを歩いていた。古来から山自体が信仰されていて、立入禁止だった時代が長かったと聞く。大物主という神が祭られているとも・・。確か、美内すずえさんの「アマテラス」という漫画だったかで、この辺が取り上げられていたのを思い出した。古代の神話や遺跡に事欠かない地なのだ。
 
 三輪明神「大神神社」の大きな看板があったが、社はない。広告塔でもあるのだろうが、三輪山自体が御神体なので、三輪山をバックにした一番いいロケーションに、この看板があっても不思議ではない。


遠くには、見るからに巨大な鳥居が見える。毎年、千鳥が淵の花見の際に見ることになる、近くの靖国神社の鳥居と同じか大きいくらいの巨大なものだろう。

 さらに進んで、わざと小さな道を歩いていくと、富士神社、厳島神社(弁天社)の2つの小さめの社があった。
  

さらにいくと、三輪山をバックにした、非常に景色と場所がいいところに、倭迹迹日百襲姫命を祭った社があった。大神神社摂社、神御前神社とある。

  
 今でこそ、電線や家が写ってしまっているが、古代以降、三輪山を後ろに最高の景色であったであろう。崇仁天皇ゆかりの地で、江戸時代には、栄えた神社であったような記述もある。

こういう、見落としてしまうような小さな場所でも、古代から重要な役目をはたしていた場所に出会えることは、徒歩での散策の醍醐味を味わえるというものだ。
 
 そして、さらに歩いていくと、三輪駅の近くに来たようだ。巨大な鳥居が近くなっている。三輪明神「大神大社(おおみわ大社)」の神社が近くにある。鳥居は、駅をはさんで、神社と反対側にある、4分ほど歩くところだ。高さが32メートルもあるとのことだった。昭和59年に昭和天皇が行幸され、在位60年を記念して、建てられたとのことだ。


 最後は、「大神大社(おおみわ大社)」の神社にも参りした。由緒ありそうな立派な神社だった。

吉野ヶ里遺跡を訪ねて

2013年10月26日 | 旅行
吉野ヶ里遺跡を訪ねて

 今年の夏、吉野ヶ里遺跡を訪れた。邪馬台国だったのではないか、という説もある遺跡である。博多から長崎に向かう電車の中から、高床式というのか、遺跡の背の高い建物だけは、何回かほんの一瞬の間、見たことがあった。
 今回は、実際に現地に行ってみたのだ。

 夏の暑い日だったためだろう。人はまばらで、空いていた。敷地は思ったよりずっと広かったので、タイミング良く、出発するところだった、敷地内の連結カートのようなものに乗って、最初に奥の方まで行ってみて、戻ってくることにした。
 埋葬地のようなものがあり、大きな瓶のようなものがたくさんあった。この中に入れて埋葬したようだ。青い宝石の首飾りや銅険が発見された瓶もあったようだ。当時の身分の高い人のものだったらしい。
 いろいろ回ったが、やはり中心地のひときわ高い建物の巫女が神託を受けている場所がとても印象に残った。
 建物の最上階で巫女に付いている女性と、「さにわ」というのか、数人がいるのみで、榊のような神棚の中身のようなものの前で巫女が座っている。
その下の階には、男たちが集団で控えているのだ。

 邪馬台国は卑弥呼がいたが、卑弥呼には子供がいなかった。
 卑弥呼の死後、男たちが群雄割拠してしまうようなことになり、国が乱れた。そこで卑弥呼の姪にあたる、壱与(とよ)(「いよ」という説もある)が、巫女も兼ねて卑弥呼の後を継ぎ、女王のようになると、国は治まったとうことだ。
「邪馬台国の卑弥呼」は、本当は「大和(ヤマト)国の日向(ひむか)」であったということをどこかで聞いたこともある。

 壱与については、詳細なことは史実にはないようだ。

 神功皇后は、卑弥呼であったという説もかつてあったようだが、史実からは卑弥呼は、三韓征伐の時は亡くなっていた。

 神功皇后は、この壱与であったのではないかと私には思えて仕方がないのだが・・。

若い頃の幕末維新を巡る旅②  薩摩藩(鹿児島県)ほか

2013年10月21日 | 旅行
若い頃の幕末維新をめぐる旅② 九州 薩摩

 山口をあとにして、熊本城を見た。確か加藤清正の築城した城だったはずだ。背の高い、大きな城だった。木造で古いので、モノクロ感が残っている。姫路城のような華やかさはなかったと思う。実戦重視対応の質実剛健な印象だった。

 熊本から鹿児島へ向かった。若くてあまりお金もなかったこともあり、城山だけをメインに見た。西郷さんの終焉の地だ。煙を上げている桜島も城山からは、見えた。洞窟のようなところも見に行った。そして宮崎まで行って宿泊したのだ。
 ちなみに宮崎では、西都原古墳群を見に行った。歴史のはっきりしない年代の相当古い古墳がたくさんあって、不思議な感じがしたものだ。遠い昔に南の海のほうから来た民族がこのへんに住み着いたのだろうか、などと思ったものだ。

 あとは、日南海岸を見に行った。千葉の九十九里浜のように長い砂浜が続いていた。
 今思うが、日向灘で津波がおこならいことを祈らずにはいられない。

 そして、阿蘇に向かったのだ。阿蘇は当時噴火していて、火口近くには近づけなかった。阿蘇では、国民宿舎に宿泊した。
 高千穂にはいかなかったが、その後20年くらいして訪れた。天の岩戸神社とか、夜、神社で天照大神の岩戸隠れのお話の演劇のようなものが催されて面白く有意義だった。テジカラオなども出てきたのだ。

 天照大御神はこの辺にいたのだろうな、と思わせる旅行になった。なお、今年の夏、佐賀の吉野ケ里遺跡にも行ってみたが、巫女を囲む人たちの人形や建物が展示されていて、当時の状況を彷彿とさせていた。邪馬台国を思わせるような感じだった。
 
 幕末巡りの話からすっかり脱線してしまった。
鹿児島には、6年ほど前にも再訪した。西郷さんの生まれた周辺徒歩10分圏内に、東郷平八郎はじめ、幕末維新や明治期に活躍したキラ星のごとき人物がたくさん生まれているのを見て、歴史の不思議を思ったものだ。

 霧島温泉にも行ってみて、坂本龍馬とおりょうさんが新婚旅行でつかった温泉にも入ってみた。たしか霧島ホテルと言って、龍馬が霧島のことを書いた姉さんへの手紙の写しが展示されていた。

 龍馬の新婚旅行は、薩摩藩との交渉の関係もあったのだろうが、龍馬の性格上、2つを兼ねていたのだろう。西郷さんから、京都で襲撃され、風呂に入っていたおりょうさんが、裸同然、命がけで知らせて逃げられた際の手の傷を鹿児島の温泉で癒されよという申し出にこたえたものでもあった。
 
 龍馬の鹿児島への旅行は実に88日間であったという。電車や新幹線、飛行機がなかった時代とはいえ、新婚旅行だけでは長すぎるだろう。亀山社中の仕事でもある長州への武器輸出やコメの輸入などの交渉やさまざまな人との人間関係も深めて、龍馬得意の耳が学問もしていたことだろう。

若い頃の幕末維新などを巡る旅① 長州藩(山口県)

2013年10月21日 | 旅行
若いころの長州と薩摩への旅  山口県と鹿児島県


読書記録に書き忘れてしまっていたが、20代前半には、「西郷南洲遺訓」も読んだ。結構感動した記憶がある。
これは、幕末の官軍の敵方になった、庄内藩士たちが、まとめたものらしい。敵であったにもかかわらず、非常に寛大な処分とその人格に共感して、編集したものだ。西郷さんの仁徳というものが偲ばれるエピソードだろう。
西郷さんが、佐藤一斎の言志四録の膨大なもの中から自分が選んだ101項目を紙に書きうつして、たえず懐に入れて持っていたという逸話は前に紹介した。

19歳のころに、江戸時代の長州藩と薩摩藩である、山口県と鹿児島県を旅したことがある。西郷さんもそうだが、吉田松陰の松下村塾を含めて幕末の志士たちや明治維新の元勲などにも興味があったからだ。付け加えると、熊本城や宮崎の西都原古墳群、日南海岸、阿蘇山も旅したのだが・・。

山口県では、萩の松下村塾は大変印象に残っている。こんな小さな塾から、幕末維新、あるいは明治に首相や元勲がキラ星のごとくたくさん輩出しているとは。要は、建物の外観や規模ではなく、師である吉田松陰先生が偉大であったのだ。

あの切れば血の出るような、真剣は、塾生たちに、生き様として、その精神を注入したことだろう。桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、などなどそうそうたるメンバーが集まったのだ。維新の斥候ともいえる高杉晋作挙兵の地である功山寺も見に行った。確か「万骨の塔」というのがあったと思う。

幕末ではないが、壇ノ浦も見た。見なかったが、近くには確か、宮本武蔵と佐々木小次郎が対決した、厳流島もあったはずだ。山口県は、歴史の舞台に結構なっているのだ。