仁徳天皇陵見学記 (百舌鳥・古市古墳群など)

「仁徳天皇陵」を見学する機会を得た。多分誰もが、学校の教科書の写真で一度は見たことがある、あの巨大な前方後円墳だ。
私たちが学校の教科書で習った頃は、「仁徳天皇陵」と習ったものだが、どうも今は、大仙陵古墳とも呼ぶらしい。
日本最大の前方後円墳である仁徳天皇陵は、クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵と並ぶ、世界の3大墳墓ということだった(ピラミッドは墳墓ではないかもしれないが・・)。
しかし、まだ、一般的には、「仁徳天皇陵」とも言われているので、ここでは、「仁徳天皇陵」と書かせていただく。
仁徳天皇は、丘の上から民の生活を見渡して、かまどの炊煙が、あまり立ち上っていないのに気付いて、民の生活が困窮しているのだろうと考え、民の暮らしが楽になるよう、3年間租税を免除し、自らも質素な暮らしをされたという(その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったと記紀に記録されている)。
天皇系図では、仁徳天皇は、第16代天皇となっており、応神天皇の子にあたる。応神天皇の先代は仲哀天皇で、その御妃、すなわち応神天応の母は、あの神功皇后だ。
仁徳天皇は神功皇后の孫ということになる。仲哀天皇の父は、あの日本武尊である。この時代の歴史を少し紐解くだけで、日本の歴史のにおいが大いに感じられる。
さて、仁徳天皇陵は、「百舌鳥」という駅が最寄駅になっている。教科書で見たあの「仁徳天皇陵」の写真は、航空写真であって、百舌鳥駅から地面を歩いて仁徳天皇陵のほうに歩いていっても、あの写真の前方後円墳の形は全くわからない。
周囲にお堀があるから、ここが、仁徳天皇陵だとわかっても、中には森が広がっているようにしか見えない。しかし、陵の正面に行くと、厳かな参拝の区画のようなものがあって、「ここが、あの仁徳天皇陵か」と実感がわいてくる。

2~3人の同じ黄色いウインドブレーカーを着たボランティアの観光案内の人が、話しかけてきてくれ、パンフをくれたり、少し案内をしてくれた。
陵を後にして、反対側に道路を隔てて、博物館のほうに歩くいていくと、草むらにあまり見かけない鳥が1羽いた。そのすぐ先に、仁徳天皇と鹿と百舌鳥の白い像があった。説明文を読むと、その昔、仁徳天皇が、御陵を造営しようと、ここに来たところ、鹿が野の中から走り出て倒れ、その耳から百舌鳥が飛び去ったという逸話から、ここ地名を百舌鳥耳原というようになったということだった。百舌鳥と言う駅名もうなずける。

この説明文を読んで、さっき見かけた見慣れない鳥は、もしかしたら?と思い、スマホで百舌鳥を検索してみた。はたして、その通り。さっき見かけた鳥は百舌鳥だったのだ。わたしにも、姿を見せてくれて、正直嬉しかった。
さらに博物館の方に歩いていくと、さっきの百舌鳥が1羽歩いている。少し遠かったが望遠にして写真を撮った(添付写真参照)。

拡大してあるからあまり鮮明ではないが・・。
堺博物館の正面横に、千利休像があった。ここは堺なのだ。


博物館に入ると、古墳時代の展示も多かったが、堺商人に関する記述も多かった。
この近辺には、履中天皇陵など、多数の前方後円墳や古墳がある。中国の歴史書「宋書」倭国伝には、421年から約半世紀にわたり、讃・珍・済・興・武という倭国の王による遣使があったとの記録があり、「倭の五王」と呼ばれ、応神天皇から雄略天皇の代という説があり、「この倭の五王」の時代に、百舌鳥・古市古墳群の造営が行われ、巨大な前方後円墳に葬られた、ということだった。ただ、応神天皇陵などは、大阪府ではあるが、少し離れた道明寺駅方面にある古墳群の一番大きな前方後円墳として存在している。
歩くと、小さな古墳にも出会う。小さな古墳も入れると本当に多数存在していた。「いたすけ古墳」という大き目の古墳もあった。

「仁徳天皇陵」を見学する機会を得た。多分誰もが、学校の教科書の写真で一度は見たことがある、あの巨大な前方後円墳だ。
私たちが学校の教科書で習った頃は、「仁徳天皇陵」と習ったものだが、どうも今は、大仙陵古墳とも呼ぶらしい。
日本最大の前方後円墳である仁徳天皇陵は、クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵と並ぶ、世界の3大墳墓ということだった(ピラミッドは墳墓ではないかもしれないが・・)。
しかし、まだ、一般的には、「仁徳天皇陵」とも言われているので、ここでは、「仁徳天皇陵」と書かせていただく。
仁徳天皇は、丘の上から民の生活を見渡して、かまどの炊煙が、あまり立ち上っていないのに気付いて、民の生活が困窮しているのだろうと考え、民の暮らしが楽になるよう、3年間租税を免除し、自らも質素な暮らしをされたという(その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったと記紀に記録されている)。
天皇系図では、仁徳天皇は、第16代天皇となっており、応神天皇の子にあたる。応神天皇の先代は仲哀天皇で、その御妃、すなわち応神天応の母は、あの神功皇后だ。
仁徳天皇は神功皇后の孫ということになる。仲哀天皇の父は、あの日本武尊である。この時代の歴史を少し紐解くだけで、日本の歴史のにおいが大いに感じられる。
さて、仁徳天皇陵は、「百舌鳥」という駅が最寄駅になっている。教科書で見たあの「仁徳天皇陵」の写真は、航空写真であって、百舌鳥駅から地面を歩いて仁徳天皇陵のほうに歩いていっても、あの写真の前方後円墳の形は全くわからない。
周囲にお堀があるから、ここが、仁徳天皇陵だとわかっても、中には森が広がっているようにしか見えない。しかし、陵の正面に行くと、厳かな参拝の区画のようなものがあって、「ここが、あの仁徳天皇陵か」と実感がわいてくる。

2~3人の同じ黄色いウインドブレーカーを着たボランティアの観光案内の人が、話しかけてきてくれ、パンフをくれたり、少し案内をしてくれた。
陵を後にして、反対側に道路を隔てて、博物館のほうに歩くいていくと、草むらにあまり見かけない鳥が1羽いた。そのすぐ先に、仁徳天皇と鹿と百舌鳥の白い像があった。説明文を読むと、その昔、仁徳天皇が、御陵を造営しようと、ここに来たところ、鹿が野の中から走り出て倒れ、その耳から百舌鳥が飛び去ったという逸話から、ここ地名を百舌鳥耳原というようになったということだった。百舌鳥と言う駅名もうなずける。

この説明文を読んで、さっき見かけた見慣れない鳥は、もしかしたら?と思い、スマホで百舌鳥を検索してみた。はたして、その通り。さっき見かけた鳥は百舌鳥だったのだ。わたしにも、姿を見せてくれて、正直嬉しかった。
さらに博物館の方に歩いていくと、さっきの百舌鳥が1羽歩いている。少し遠かったが望遠にして写真を撮った(添付写真参照)。

拡大してあるからあまり鮮明ではないが・・。
堺博物館の正面横に、千利休像があった。ここは堺なのだ。


博物館に入ると、古墳時代の展示も多かったが、堺商人に関する記述も多かった。
この近辺には、履中天皇陵など、多数の前方後円墳や古墳がある。中国の歴史書「宋書」倭国伝には、421年から約半世紀にわたり、讃・珍・済・興・武という倭国の王による遣使があったとの記録があり、「倭の五王」と呼ばれ、応神天皇から雄略天皇の代という説があり、「この倭の五王」の時代に、百舌鳥・古市古墳群の造営が行われ、巨大な前方後円墳に葬られた、ということだった。ただ、応神天皇陵などは、大阪府ではあるが、少し離れた道明寺駅方面にある古墳群の一番大きな前方後円墳として存在している。
歩くと、小さな古墳にも出会う。小さな古墳も入れると本当に多数存在していた。「いたすけ古墳」という大き目の古墳もあった。
