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塩野七生さんのエッセイから連想して考えたこと 

2022年12月16日 | 随筆
 塩野七生さんのエッセイ集の最新刊「誰が国家を殺すのか 日本人へⅤ(文藝春秋刊)」を読んでいる。
 過去に「月刊 文藝春秋」に掲載したものを再編集して新刊本としたものだ。
 当時のイタリアの選挙情勢などがアップツーデイトに掲載されていて、4~5年ほど前の情報だが、逆に肩肘張らずに読むことができるし、「ローマ人の物語」15冊や「ギリシャ人の物語」3冊、計18冊を、1冊1年をかけて18年にわたって執筆してきた著者としての見識を持って書かれているので、それら18冊を読破した者としては、それなりの愛着や多少の尊敬心を持って読むことができている。
 まだ、読みはじめたところだが、電車の中で読んでいて、面白いなと思った箇所があった。
 「夏のローマの陽光は強烈で、特に女性は、銀座ではとてもできないお洒落ができる」とのことで、つばの広い帽子とサングラスが欠かせないそうだ。帽子もサングラスもイタリア製が良いそうで、そこからの表現が面白い。「中高年になってからのおしゃれは、自分に似合うことよりも風景画の中の点景になってはどうでしょう。」ときた。「そしてローマは、彫刻家のベルニーニが考えたように、何であろうが上演が可能な「舞台」でもあるのです。」と書いている。
 「自分に似合うことよりも風景画の中の点景になる」という考え方は、私にとっては、大変面白く印象的な考え方であった。女性のおしゃれとは、自分も含めて、もちろんTPOは考えるだろうが、自分に似合うことが1番かと、自分勝手には思っていたし、大体の女性もそうなのではないかと思っていたのだ。
 なんとなくは思っていても、言葉ではっきり表現されると新たな視点をもらったような感覚を持ったのだ。
 この文章を読みながら、あることを考えていた。連想したと言った方がいいかもしれない。
 ヒルティが「幸福論」のどこかで、「悪はどこから」という論考を載せていたことだ。
 しかし、若い頃は、この問題は多少難しくて、ましてやキリスト者でもあるヒルティの文章であることもあってか、なかなか自分の中で結論めいたものを見出せないでいたのだ。
 しかし、15年ほど前だっただろうか、ある本で、「これは」という結論のようなものを見出したのだ。それは、悪の起源とは、「部分が全体であると言い張ることかもしれない」というものだ。「・・かもしれない。」と断定的でないところが、ますます奥ゆかしいというか、そうかもしれないなと妙に納得し、腹に落ちた記憶があるのだ。
 会社でも「全体最適」などという言葉がだんだん聞かれるようになった時期でもあった。
 確かに個人の権利が蹂躙されるのは問題だが、個人の権利を主張しすぎるのも問題がある。ようはバランスの問題でもあるが、例えば高速道路の用地や空港建設の際の土地の問題なども、個々の事情はあるとは思うが、主張するべき権利は主張するにしても、最後は公に協力する精神もないと先に進まず、全体の、あるいは公共の大きな利益が、ごく一部の自己主張のために、そがれてしまい、大きな損失になる場合などがあてはまるのではないかと思ったのだ。
 「自分に似合うことよりも風景画の中の点景になる」お洒落なるものをサラッと着こなせたら、自分の個性と全体の調和をうまい具合にバランスがとれたら、とても素敵なことだし、そんな、「ローマの舞台」を見てみたい。そういう街の景観の「キャンバスの絵」や「写真」などを見てみたいものだと思う。
 自己主張と全体最適との調和、全体の風景、景観を損なわない自己の個性の表現ということができるか否か、そういう絶妙のバランスがとれるかどうかが肝要なのではないか、と思ってしまった次第でもある。

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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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マルテンサイト千年 (明鏡止水サムライ)
2024-05-07 15:52:23
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタインの理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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