国と地方の財政赤字が、1000兆円~1400兆円などと言われている。隠れ資産も結構あると言われているが、子供や孫たちに「つけ」を回さないように行財政改革は必要だろう。
「時代が違う」と一笑にふされる向きもいらっしゃるかもしれないが、江戸時代に藩の大赤字財政を見事に借金ゼロにし、黒字財政にした例が結構ある。
歴史を紐解くと、必ず、名君(藩主)とキーマンが存在している。幕藩体制で上意下達が通用した面もあるし、現代は、民主主義で選挙の洗礼があるなど違いはあるが、やはり、キーマンの圧倒的な責任感と気迫、そして自ら泥をかぶり、命がけになっているという姿勢がある。
そして、藩主もよくその人を信頼し、任せ、報告を受け、必要に応じて相談も受け、絶対的な味方になってくれている。
もちろん、個人の能力、人間力、それを支える藩主や、そして周りの人たち協力を得る、人徳、人望力のようなものも必要だし、率先垂範する姿勢も大切だ。
最初からいい顔を見せる改革などは、決して無いから、忍耐力、粘り強さ、あきらめない心も重要になってくる。
江戸時代のそういう例としては、まず、「日暮硯」という本で扱われている、1700年代中期の信州松代藩の例がある。
恩田木工(民親)という家老の藩の財政再建の物語だ。当時の西武の堤清二さんが、現代語に訳した三笠書房から出版された本が読みやすかった。恩田木工の命がけの姿勢が感動する。
まず、妻に離縁を告げるところからすごかった。結局、今までのような暮らしから自分がこれから課す「一汁一菜」のような食事や、衣服も綿入れも無いような質素な暮らしで我慢するという誓いをしてもらって、離縁は取り消し てはいる。
領民に対しても今とは時代が違うにしても、対話を重ねて、納得するように改革を訴えている。商業博打は禁止だが、慰みとしては許すなど、絶妙のニュアンスの人心掌握をしたりしていたと記憶する。結局、赤字は無くなり、借 金も返済して健全な財政になったようだ。
2番目は、上杉鷹山の話だ。ケネディ大統領が、尊敬する人に挙げていた人物だ。当時の日本人のほうが、「誰だそれは」、という顔をするひとも多かったそうだ。
上杉鷹山は内村鑑三の「代表的日本人」にも取り上げられている人物だ。この本が英語で書かれていたためにケネディが読んでいたのだ。
竹俣当綱という民政家のような人物に改革を任せ、当時の上杉家古参の家柄を重んじる誇り高き守旧派とも言える家老たちと大変な軋轢を生みながらも、家老を退け、竹俣当綱を擁護している。天明の大飢饉でも、東北で大変多く 餓死者が出る中、鷹山の藩は比較的少なかったようだ。
また、学問の師である、細井平洲を招いて藩校を再興して身分を問わず学問を学ばせたという。大赤字もいいところだった藩は、隠居した後、次の藩主の代で借金が完済している。
3番目は、幕末だ。備中松山藩の山田方谷だ。板倉勝静はいろいろありながら老中筆頭にまでなっている。山田方谷という人物は大変優れた人物だった。「知行合一」を旨とする陽明学者でもあった。
司馬遼太郎の「峠」にも出てくる河井継之助が師と仰ぐほどだった。河井継之助が家老だった長岡藩も最後は火の海のようになってしまった面もあるが、一時は改革が進んでいたようだ。ちなみに、河井とともに家老であった、「米百俵」の逸話で有名な小林虎三郎は、吉田松陰とともに佐久間象山の2大弟子と言われていた人物だ。
山田方谷の改革は、目覚ましいもので、最終的には、かつて大変荒れていた松山藩に入ったとたんにそこが、松山藩とわかるほど立派な藩になっていたという。
安岡正篤さんも、山田方谷の理財論として、よく紹介していた。なお、二松学舎大の前身の学校を設立したのは、山田方谷の弟子の三島中州である。
「時代が違う」と一笑にふされる向きもいらっしゃるかもしれないが、江戸時代に藩の大赤字財政を見事に借金ゼロにし、黒字財政にした例が結構ある。
歴史を紐解くと、必ず、名君(藩主)とキーマンが存在している。幕藩体制で上意下達が通用した面もあるし、現代は、民主主義で選挙の洗礼があるなど違いはあるが、やはり、キーマンの圧倒的な責任感と気迫、そして自ら泥をかぶり、命がけになっているという姿勢がある。
そして、藩主もよくその人を信頼し、任せ、報告を受け、必要に応じて相談も受け、絶対的な味方になってくれている。
もちろん、個人の能力、人間力、それを支える藩主や、そして周りの人たち協力を得る、人徳、人望力のようなものも必要だし、率先垂範する姿勢も大切だ。
最初からいい顔を見せる改革などは、決して無いから、忍耐力、粘り強さ、あきらめない心も重要になってくる。
江戸時代のそういう例としては、まず、「日暮硯」という本で扱われている、1700年代中期の信州松代藩の例がある。
恩田木工(民親)という家老の藩の財政再建の物語だ。当時の西武の堤清二さんが、現代語に訳した三笠書房から出版された本が読みやすかった。恩田木工の命がけの姿勢が感動する。
まず、妻に離縁を告げるところからすごかった。結局、今までのような暮らしから自分がこれから課す「一汁一菜」のような食事や、衣服も綿入れも無いような質素な暮らしで我慢するという誓いをしてもらって、離縁は取り消し てはいる。
領民に対しても今とは時代が違うにしても、対話を重ねて、納得するように改革を訴えている。商業博打は禁止だが、慰みとしては許すなど、絶妙のニュアンスの人心掌握をしたりしていたと記憶する。結局、赤字は無くなり、借 金も返済して健全な財政になったようだ。
2番目は、上杉鷹山の話だ。ケネディ大統領が、尊敬する人に挙げていた人物だ。当時の日本人のほうが、「誰だそれは」、という顔をするひとも多かったそうだ。
上杉鷹山は内村鑑三の「代表的日本人」にも取り上げられている人物だ。この本が英語で書かれていたためにケネディが読んでいたのだ。
竹俣当綱という民政家のような人物に改革を任せ、当時の上杉家古参の家柄を重んじる誇り高き守旧派とも言える家老たちと大変な軋轢を生みながらも、家老を退け、竹俣当綱を擁護している。天明の大飢饉でも、東北で大変多く 餓死者が出る中、鷹山の藩は比較的少なかったようだ。
また、学問の師である、細井平洲を招いて藩校を再興して身分を問わず学問を学ばせたという。大赤字もいいところだった藩は、隠居した後、次の藩主の代で借金が完済している。
3番目は、幕末だ。備中松山藩の山田方谷だ。板倉勝静はいろいろありながら老中筆頭にまでなっている。山田方谷という人物は大変優れた人物だった。「知行合一」を旨とする陽明学者でもあった。
司馬遼太郎の「峠」にも出てくる河井継之助が師と仰ぐほどだった。河井継之助が家老だった長岡藩も最後は火の海のようになってしまった面もあるが、一時は改革が進んでいたようだ。ちなみに、河井とともに家老であった、「米百俵」の逸話で有名な小林虎三郎は、吉田松陰とともに佐久間象山の2大弟子と言われていた人物だ。
山田方谷の改革は、目覚ましいもので、最終的には、かつて大変荒れていた松山藩に入ったとたんにそこが、松山藩とわかるほど立派な藩になっていたという。
安岡正篤さんも、山田方谷の理財論として、よく紹介していた。なお、二松学舎大の前身の学校を設立したのは、山田方谷の弟子の三島中州である。
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