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カール・ヒルティ 「幸福論」  人間知について

2013年10月14日 | カール・ヒルティ
カール・ヒルティ「幸福論」 人間知について 

 ヒルティの「幸福論」は、本当に、人生の基盤を創ってくれたと言ってもいい本だった。
 若いころ人間関係に悩んだ時期もあった。人間恐怖になった時期も少しの期間だがあった。でも、カール・ヒルティ「幸福論」(岩波文庫)は、「人間知について」という章もあり、人間関係を知るうえで大変参考になったものだ。

 以下に一文を抜粋してみる。

 親愛なる読者よ、一般に、人間知を求めるのに理論的方法に頼りすぎてはならない。人間知の大方は、ただ自分の――しかもたいていは悲痛な――経験によってのみ得られるものだ。ただ、何事も二度と経験すまいと決意したまえ。こういう人こそ賢明な人であって、すこしも過ちを犯さない人は、たとえそのような人がいたとしても賢明だとはいえない。

 また、人間知は、単に牡山羊と羊とを区別し、これからは羊だけを世話するということに役立つのであってはならない。それはむしろ、ひとに瞞されないため、また自分自身をよくするため、さらにまた、運命によって自分と接するすべての人の性格を理解して、彼らをより良くするためにも、役立つものでなくてはならない。

 というのは、人間の魂はそれぞれ無限の価値を持つものであって、努力をおしまずこれを救済する値打ちがあるという考えを捨て去るならば、その人はすでに危うい斜面に立つのであって、やがては再び完全な利己主義に落ちてしまうからである。

人間知の最後の言葉は、すべての人に対する愛でなければならぬ。愛だけが、人間をあるがままにしかと知りながら、しかも人間を見捨てずに済むのである。愛のない人間知は常に不幸であり、それは、いつ世を問わず多くの賢明な人たちが陥った深い憂鬱の原因であった。かような場合、彼らは同じ人間仲間との交わりをあきらめるか、それとも独善独裁にのがれるほかはなかった。

 なぜなら、いったん人間を知ったからには、人間と交わるには結局二つの道しかないからである、すなわち、恐怖によるか、愛によるか。その中間の道はすべてごまかしである。 
  カール・ヒルティ 人間知について 「幸福論(第2部)」岩波文庫から

カール・ヒルティの故郷を訪ねて - ヒルティ参り

2013年10月08日 | カール・ヒルティ

 先月(2013年9月)、スイス旅行に行った。旅行の目的のひとつは、「ヒルティ参り」のためだ。
私は、学生時代にヒルティをよく読んだ。ヒルティとは、スイスのカール・ヒルティ(1833-1909)のことだ。岩波文庫にもある幸福論3巻に代表される著者で有名だ。

 私の場合、人生の土台や基盤をヒルティの著書によって学んだと言っても過言ではない。もちろん本だけでは人生は学べないのだが・・・。
幸福論3巻、眠られぬ夜のために2巻、そして当時、白水社から出版されていた、ヒルティ著作集のすべて、そして、アルフレート シュトゥッキという人による、「ヒルティ伝」など、多分、日本で出版されている、ヒルティの文章のほとんどすべてを読破したと思う。

 このヒルティに出会ったきっかけになったのは、渡部昇一さんだった。たしか学生時代に読んだ、渡部昇一さんのご著書の「知的生活の方法」という本の中で紹介されていて、岩波文庫の幸福論を手にとったのがきっかけだった。全く余談だが、梅棹忠雄さんの「知的生産の技術」という本を、この「知的生活の方法」の前に読んだことを覚えている。
ケーベル博士小品集・随筆集、という本も確か、同書で紹介されていたと思うが、ヒルティを最初に日本に紹介した人が、ケーベル博士だったそうだ。ケーベル博士は、明治26年から大正3年まで、日本政府の招聘外国人のような形で東京帝国大学の先生をやっていた人だ。

 渡部昇一さんのご著書に、「ヒルティに学ぶ心術‐渡部昇一的生き方」(致知出版社) という本がある。10年ほど前に出版されている。
私は、ヒルティには大変、お世話になっていたので、ご著書も購入して読んだ。
正確にはヒルティの著書にはお世話になった、と言ったほうがいいのだろうか?
しかし、伝記などで、ヒルティの人となりについても読んで学んでいた。それで、なおさら心酔する人物のひとりになったのだった。
実は、渡部昇一さんの本も、ひところは、新刊が出版されると欠かさず読んでいたものだ。
 
 前置きが長くなってしまった。話を戻そう。前記の「ヒルティに学ぶ心術‐渡部昇一的生き方」に、スイスのヒルティが住んでいた家や青年期を過ごした、ヒルティのお父さんが購入した、古いお城(ヴェルデンブルグ城)、ベルン大学教授時代の家などを渡部昇一さんが訪れたことが書かれていた。出版社との企画でもあり、「ヒルティ参り」という記載があって、大変興味深く読ませていただいた記憶があった。

 今回、もうひとつのある重要な理由でスイスに行くことになったのだが、せっかくスイスに行くのなら、と3連休を加えて、私も「ヒルティ参り」をさせていただこうと決意した次第だった。

成田からドバイ経由でチュリッヒに向かった。チューリッヒで1泊して、次の日、予定通り「ヒルティ参り」に出発した。

 チューリッヒから南東の方角にあるサルガンスという駅に向かった。約1時間ほどかかった。
たまたま電車が途中で10分ほど遅れてしまったので、普通なら接続できた、リヒテンシュタインのファドゥーツ行きのバスが出発してしまっていた。1時間に1本程度しか出ていないバスだった。

 せっかくだからすぐ近くのリヒテンシュタインにも行こうと計画していたのだ。あまりガチガチな計画を立てていったわけではなかったこともあり、どちらが先でもよかったので、たまたまブッフス(buchs)行きのバスが20分後位に出ることになっていたので、それに乗ってヒルティの生家があるブッフスに向かった。

 ブッフス駅に着くとインフォメーションセンターがあったので、ヴェルデンベルグ城の行き方を聞いて、指定の停留所番号のバスに乗った。運転手さんにも行き先を言ったのだが、思ったよりずっと近かったようで、4つめの停留所くらいで降りるべきだったようだ。

 小さな湖があったので、「あれっ」とは思ったが、近すぎると思ったので、そのまま乗り続けていると、運転手さんとバックミラーで目が合った。運転手さんは、額をたたいて、「しまった」という顔をした。
手招きしているので、行ってみると、やはり通り過ぎてしまっていたらしい。2つか3つ行き過ぎた停留所の間で降ろしてくれ、私は、来た道を徒歩で戻ることになった。景色と空気がとてもよく、歩けたほうが良かったな、と思ったほどだった。

 しばらく行くと、井戸のようなものがあり、住人らしき男の人が、ペットボトルに水をいれていた。私は、興味があり、写真を撮影し、男の人に、「飲めるんですか?」と聞いてみた。「もちろん、飲める」という。「どこから来たのか?」というので、日本の東京です。というと、「福島の水は飲めないのか?」と聞いてきた。福島第一原発のことをニュースで知っていたのだ。

 そのまま、バスできた道を歩いていくと、遠くの高台の上に、ヴェルデンベルグ城と思しき城が見えてきた。

写真を撮影して、どんどん歩いていくと、渡部昇一さんの本に出ていた、レストランと思われる、鹿肉を出すレストランがあった。
本が出た頃の(現在もかどうかは不明)城の持ち主であるガンデバイン氏と一緒に食事をしたと書いてあったレストランだ。鹿を銃で撃つ絵が描いてあったので、多分間違いないと思う。


 城のある高台の下でゴミを分別している女性がいたので、念のため、あれはヴェルデンベルグ城ですか?と聞いてみた。確かにヴェルデンベルグ城だった。

早速ヴェルデンベルグ城の高台に登っていく。ちょうど上に行く少し日本でいうと私道に近いような道があったので、そこから登っていった。

 
 誰も通らないような結構な坂道を歩いていくと、ヴェルデンベルグ城の説明看板のようなものがあった。3か国語で書かれていた。カール・ヒルティの記述もあった。結構古い城なのだった。ヒルティのお父さんが購入したようだ。ヒルティのお父さんは、お医者さんで、後で書くことになる、城の下の方にある、生家(赤い家と呼ばれる)の前にドクターズハウスという家で開業をしていたようだ。
 
 カール・ヒルティは、高校生の夏休みなどには、このヴェルデンベルグ城で過ごしたそうだ。
 その城を見たってどうなるもんでも無いのではあるが、やはり、個人的には、見に行きたかったのだ。それも仕事でもなく、もちろん自費であってもである。
 
 さらに急な上り坂を登っていくと、右側に、さきほど歩いてきたところも含めて、遠くの山々まで、自然の景観が素晴らしかった。
家々も山肌にあったりその配置や形を含めて、日本ではなかなか見られない、景観だった。カール・ヒルティは、このような良い眺めときれいな空気を吸ってすごしていたのだろうなーと想像できた。ヒルティの著書にも、健康の秘訣は「山間部の良い空気」という表現があったと記憶している。
 

 さらに登っていくと門が見えてきた。城の向きからすると裏門なのだろう。
 門に入らず、城の裏側に回ってみると、塀が高くて、城は高くそびえていて、まさしく「城」という感じであった。

 門を入って中に入っていくと、大きな城の正面からの全貌が見えてきた。
 
 月曜日だったので、あいにく休館日である、ということは、ブッフスのインフォメーションで聞いていた。なので、誰もいなかった。私一人なのだ。城は、結構高く、窓がたくさんあり、正面の壁に絵が描いてあった。絵は、ヒルティの頃には無かったのかと思う。でも、ドアは、古く、ヒルティの居たころから使用されていたものなのではないかと思った。ドアノブを握ってみた。

 ヒルティもこのドアノブを握ったのではないか、と思いながら・・・。
 
ドアノブは、しっかりしていて、鍵もついていた。見るからに年代物だった。ドアも木製だったが、お城らしく分厚く、これも年代ものだ。

 城は、高いので、窓からは坂を上ってくる時に見えた、遠くの山々と美しい景色が良く見えることだろう。山間の良い空気を吸って、ヒルティが若い頃を過ごしたことがよくわかる。そして、ご自身が言われていた、しっかりした中流家庭(こちらの解釈では、お城を見ると上流の手前くらいには見えるが、下の赤の家を見るとやはり中流くらいであろう)で少年から青年期を過ごされたことがわかる。
 
 城の敷地を見渡すと、来た方向とは反対側に、塀があり、窓のようなものがある。その昔は、ここから鉄砲でも打つための穴だったのかもしれない。

そこから景色が見えるのだが、こちらの方は、来た方向とはうって変わり、湖が見え、ブドウ畑がひろがり、家々も見える。ヒルティの生家である、赤の家もこの下のほうにある。こちらも、湖があって、やはり美しい景色だ。両側をあわせて風光明媚と言っていいだろう。

 敷地の隅に、見逃してしまうような、古い石碑のようなものがひっそりとあった。何か刻まれており、よく見ると、 HILTYの名前が書かれているようだったが、詳しくは、不鮮明なこともあり、よくわからなかった。
 
 しばらく、城の敷地にいて、建物を見上げたり、写真を撮ったり、物思いにふけったりしていたが、来たほうとは反対側の門をくぐって、坂を下りることにした。
 階段があり、両側が結構高い塀がある。塀の外側は、ブドウ畑が広がっている。結構階段を下っていくと道にでた。そこをまた下っていくと、渡部昇一さんのご著書にも出ていた、ヒルティの生家、「赤い家」があった。文字通り、赤というか、えんじ色の木製の家なのだ。

 ヒルティの家だったということは、家の色もさることながら、小さな看板のようものがカール・ヒルティの家でることを示していたので、すぐっわかった。門の前には、やはり、井戸があり、2つにわかれた、水溜があった。1937という石碑もあった。

 やはり、しばらくそこで写真を撮ったり、ヒルティに思いをはせたりしていると、前の家にの塀には、古い騎士のような絵が描かれていた。何だろうとよく見ると、ここは、「ドクターズハウス」と書かれていた。

 ヒルティのお父さんは、ここで開業していたのではないだろうか。ここのことは、渡部昇一さんのご著書には、あまり触れられていなかった。ここが仕事場で、生活する家は、前にあり、別荘のように、高台にあった城が売りに出た時に、購入した、ということなのだろうと推測した。ドクターズハウスは、ヒルティの兄弟子孫が継いだのかもしれないが、その辺はわたしにはよくわからない。オットー・ヒルティという物理学博士の方が1900年台後半まで住んでいて、ドクターズハウスと呼ばれるようになったという記述もあったようだ。
 
 おおきな道に出て、バスの停留所があったが、1時間に1本しか来ないので、歩くことにした。やはり歩いて良かった。湖からヴェルデンベルグ城が赤い家越しにきれいに見えたし、何より、途中に、スイスに行く前にグーグルの地図で見ていた「カール・ヒルティ通り」に行きつけたからだ。
 
 カール・ヒルティ通りには、その看板が出ていて、ヒルティの生きた年、1833-1909の表記もあった。写真を参照してほしい。そして、この通りをしばらく歩いてみたが、人通りや車もあまり通っていなかった。
 バスの停留所は、ブッフスの駅からたしか4つくらいだったので、歩いて、駅に行けるのでないかと思いながら、教会などもある道をずっと歩いていくと、商店街に出た、これは、来るときに駅から通ってきた商店街だ。月曜日だったこともあったのか、結構人出が少なかった。
 
 結局ブッフスの駅まで歩いで帰ってきたのだった。40分から50分くらいだったのではないだろうか。バスは1時間に1本しかないので、道さえわかれば、歩いて行くという手もあったかとは思う。タクシーという手もあったかもしれない。
 だが、歩いたからこそ、いろいろわかったり美しい景色や、さまざまな距離や角度からヴェルデンベルグ城を見ることができたし、周りの景色いろいろな角度から見られたり、何より、歩いたおかげで、カール・ヒルティ通りを見つけることができたことはラッキーだった。ただ、日本でこの通りの名前を知らなかったら、通り過ぎてしまっていたかもしれないことは確かだ。下調べをある程度しておいて、本当に良かった。
 
 そして何より、渡部昇一さんのご著書の内容が、私をはるばるスイスまで「ヒルティ参り」するきっかけになったことは間違いない。渡部昇一さんにも感謝したい。
 
 さて、ヒルティは、ベルン大学の教授や学長もやっていらっしゃった。ベルンで過ごした家にも行ったので、次は、ベルンの家について紹介させていただきたい。

 
 ベルンのカール・ヒルティの家は、「ポルトガッセ通り68番地」という住所の情報を渡部昇一さんのご著書から得ていた。これがわからなければ、そもそもたどり着くことはできなかった。今は、Google mapという便利なものがあるので、日本で地図を表示し、調べておいた。 ベルンは、思ったよりこじんまりした街だったので、これなら行けそうだな、という感触はあった。

 ベルンは街自体が「世界遺産」なのだ。街の真ん中にある、大時計が11時50分に鳴るとうので、ちょっと立ち止まって見てみたりした。観光客も結構な数、集まって見ていた。あっというまに終ってしまって、ちょっと肩すかし気味だったが・・。

 スイスのガイドブックは購入していった。そこのベルンのページに、アインシュタインの家があると書いてある。街の中心部、目貫き通り沿いにあった。さきほどの時計からもすぐ近くだった。しばらく歩くと、アインシュタインの家があった。

看板が出ていて、意識していれば、すぐわかった。興味があったし、せっかくの機会だったので、有料だったが、入ってみた。1階は、カフェになっており、その2階と3階が、家で、記念館のようになっていた。最初の奥さんと過ごした家がそのままのような形で残されているのだった。

 アインシュタインの住んだ期間が、書いてあったが、ちょうどヒルティの晩年と重なっていた。1902年~1909年に住んでいた、ということだったので、アインシュタインは、ヒルティと歩いて5~6分のところに住んでいたことになる。
 ヒルティは、その期間、ベルン大学教授でもあったはずだが、アインシュタインは、ずっと後年にベルン大学で教えていた期間があったようだ。ヒルティとアインシュタインに妙な縁を感じた瞬間だった。
 
 ベルンの目貫き通りは、世界遺産だけあって、街並みが美しかった。ただ、上空から見た方が、建物の屋根がえんじ色で統一されていて、美しいだろうとは思ったが。
 また、道の真ん中に、数百メートルごとに、オブジェというか、像があるのだ。観光客が写真を結構撮っていた。

 さて、ヒルティの家だが、地図をたよりに、目貫き通りを左に曲がって、すぐポルトガッセ通りが見つかった。120番地台くらいだったので、どんどんベルン駅に戻る方向に歩いていくと、番地の番号がどんどん少なくなっていく。
 
 68番地をどんどん歩いて探していくと、「あった!」68番地が、案外順調に見つかった。写真を何枚も撮影した。この建物の全部がヒルティの家だったのかどうかは、不明だったが、この建物全部だとすれば、相当広い家だし、部屋もたくさんあることになる。1階は、何かの事務所のようだった。

  しかし、ヨーロッパの家というのは、石づくりで、何百年も持つようで、日本とは感覚が少し違っていた。

 当時のベルン大学は、そこから徒歩10分以内くらいのところだった。現在のベルン大学は、位置が変わっており、ヒルティの家から見てベルン駅の先の方に位置しているが、当時のベルン大学は、私も行ってみたのだが、現在カジノになっているところだった。アインシュタインの家からはさらに近く、4~5分のところだった。
 
  こうして、私のスイスでのヒルティ参りは、一応終了になったのだった。

カール・ヒルティについて

2013年10月07日 | カール・ヒルティ
カール・ヒルティの生命存続の思想

「来世を信じるか否かの一点によって、われわれの人生哲学の全体が左右されるのである」

あらゆる疑問と謎とに満ちた現世の生活に、道理ある解決を与えるものは、ただ死後の生命存続の思想である。それをひとたび固く信ずるようになると、全存在の一部にすぎないこの短い期間中に経験する楽しみや苦しみが、ほんのちょっぴり多かろうと少なかろうと、そんなことは直にどうでもよくなってくる。前には重大であった多くのことが、まるで抜け殻のようにわれわれから脱け落ちてしまう。
このような生命存続の思想なしに、現在あるがままの不正や苦悩や情熱にみちた現世だけについて、正義と全能の神を信じようとしても、それはもともと全く不可能なことである。だから、来世を信じるか否かの一点によって、われわれの人生哲学の全体が左右されるのである。 カール・ヒルティ  

幸福論 第2巻(岩波文庫) 「超越的希望」から  

ヒルティは、熱心なキリスト教信者だった。聖書を「まさに食らうべきもの」と表現する文章に共鳴していた。ただ、教会活動に熱心なのではなく、聖書の原典にあたる人だった。そして、特に聖書の「イエス・キリスト」が発言した部分を重要視していた。その他は長い歴史の過程で変わってしまっている可能性があることに気づいていたのかもしれない。

そういう意味では、聖書のみをたのみとしたマルチン・ルターや、日本の無教会主義キリスト教の内村鑑三に少し似ているところがあると思うのは私だけだろうか。

そして、聖書に出てくる、百卒長のコルネリオを実際の人物としては、信仰の手本のように記述していた記憶もある。

イエスご自身も、「イスラエルでこれほどの信仰を見たことがない」と言わしめた人物である。大佐などのコロネルの語源は、このコルネリオからきているのではないだろうか。

キリスト教は、仏教と違い、転生輪廻や生命の永遠性の思想は、あまりないと言われている。実際は、「我は、アブラハムが生まれる前からあるなり」、とか、ほかにもそれを示唆するイエス自身の表現はあるのだが、転生輪廻や生命の永遠性の思想とまでには、定着しなかったといったほうがいいのかもしれない。

人生の苦難を経るうちに、生命の永遠性を確信するようになっていった過程で、聖書のほかにダンテの「神曲」は、ヒルティにとって、重要な書物であったことは、上記の文書からもうかがえる。私自身も、学生時代には、情報としてとらえていたこの部分が、今は、確信になっていると言っても過言ではない。この文章によって、からし種ひとつでも、学生時代に蒔いておけて感謝していると言ってもいい。

最近は、「人は、生まれ変わる」とか、「人は死なない」とか、船井幸雄さんとか、東大病院の先生とか渡部昇一さんもそういう本を出版されている。「オーラの泉」なんていう番組も確か土曜日のゴールデンタイムにやっていて、結構視聴率をとっていた記憶もある。

30年前よりも、ずっと生命存続の思想、魂の永遠性、生まれ変わりが、常識化してきていると思われるのだ。スピリチュアル系の本などでもそうだろう。

かつては、「前世」や「生まれ変わり」などというと、まゆをひそめられるような時代もあったと思うが、今や普通に「前世」生まれ変わりという表現が、バラエティ番組にも出てきて、違和感がなくなっている。芸能人のほうが、かえって一般人よりも、こういう方面には敏感なような気もする。

話を戻すが、ヒルティは、ダンテの「神曲」を座右の書にしていた。「神曲」には、あの世のことが、ふんだんに書かれている。スウェーデンボルグの著書を、ヒルティが読んだ記録はなかったと思う。多分どこにも記載されていなかったので、翻訳されて出版されていなかったか、出会わなかったかのどちらかであろう。キリスト教的には、ダンテやスウェーデンボルグは、聖書に付け加えて、あの世のことを詳細に記述し、著したことになる。

学生時代には、幸福論第1巻の「仕事と習慣」や、とにかくとりかかること、最初のひとくわを打ち入れることが、とかくおっくうなので、とにかく最初にひとくわを入れることが大切、という表現が大いに学びになったものだ。

弁護士からベルン大学教授、学長、下院議員や陸軍法務官などを歴任してきた、ヒルティの実務能力と仕事の経験からくる珠玉の知恵が詰まった本だった。第1巻は、学生時代に読んでおいてとてもためになった。良い習慣がいかに大切か、とか早起きの大切さとか。 

ヒルティは、夜10時には寝て、朝は、5時頃には起きていたようだ。大学の講義でも早朝が好みだったようだ。

そして、ヒルティの膨大な論文のテーマは、一言で言ってしまうと「仕事と愛」になるのではないかと思う。もちろん、一言などでは言えないことが前提で、強いて一言で言えば、ではあるが。

ヒルティの臨終に際には、机の上に、「永遠の平和」という論文が完成していたという。

そして、長年にわたり、スイス連邦政治年鑑を書き上げていたという。これほど広い範囲の書き物ができる人物は、ヒルティ以外にはおらず、ようやく引き継いだ人は、ブルクハルトだったと聞いている。

晩年のヒルティは、彼の死後勃発する、第1次世界大戦などを予想していたと思われ、1900年代の後半になって、ようやく平和な時代の幕開けが来る、などと記述していたが、果たしてその通りになっていると思う。

ハーグの世界会議などにも参加して、世界平和への理想を追求している。スイスのジュネーブにあるヨーロッパの国連なども、ヒルティの理想が形になったものと言えないことはないのではないだろうか。

幸福論の第2巻、第3巻は、年を経るごとに書かれているので、より、深みを増したり、宗教的教養がより深くなっている感じを受けたものだ。ただ、2巻も、あるいは3巻も最初に学生時代に読んでおいて、本当によかったと思っている。「人間知について」とか、「超越的希望」とか、「高貴な魂」とか、とにかく格調が高いのだ。

純粋な学生時代には、もってこいの著作だったのだ。

その後、年を経てからも、読み返していたが、年を経てからは、2巻、そして3巻を読み直す頻度が増えていったものだ。

以下は、若いころ、幸福論(岩波文庫)から抜粋して手帳に貼り付けていた部分である。

たしか、「高貴な魂」という章からの抜粋だったかと思う。

だから、若い読者よ、あるいは、これまで幸福をさがし求めて満たされなかった読者諸君よ、むしろ直ちに、最高のものを目指して努力しなさい。第1に、それは最も確実にして最上のものである。なぜなら、それは、神の意志であり、また君に対する神の召命でもあるからだ。
第2に、それは、あらゆる努力目標のうちで最も満足の得らるものであり、その他の目標は、すべて多くの苦渋と幻滅を伴うのである。
最後にそれは、同じ勝利の栄冠を目指して人々と競争しながらも、友情と互助が行われる唯一の目標である。そして君がいよいよその目標を到達したとき、君を迎えるものは、羨望者やひそかな敵ではなくて、誠実な友人や同志 ――― つまり高貴な魂ばかりである。ひとはかような人々とでなければ、真に安らかな幸福に住むことはできない。