天照の独り言

つれづれに思った事を書き綴るブログへと変更(2019年1月1日より)
以前は「某宗教団体の欺瞞を世に知らしめるブログ」

供養って何?2

2015-04-09 22:12:05 | Weblog
それでは続きを書きます。

では「供養」というのはどういうものか?ということです。
ネットでも出てきますので、みてみましょう。

■ 供養(くよう)とは、サンスクリット語のプージャーまたはpūjanā(プージャナー)の訳で、仏、菩薩、諸天などに香・華・燈明・飲食などの供物を真心から捧げること。

・ 日本の民間信仰では死者・祖先に対する追善供養のことを特に供養ということが多く、これから派生して仏教と関係なく死者への対応という意味で広く供養と呼ぶこともある。
また動物等に対する供養、さらには針供養や人形供養のように生き物でない道具等に対する供養もある。

・ 死者の冥福を祈って法会を営むこと。また、開眼供養・鐘供養・経供養など寺院の仏教行事をもいう。供養会(くようえ)。「先祖の供養をする」
・ 仏・法・僧の三宝や死者に、供物を供えること。また、その法会(ほうえ)。
・ 供養のために建てる塔。石塔婆・層塔など。
・ 密教で、仏・菩薩(ぼさつ)・天部などの諸尊や経を供養するためにする行法(ぎょうほう)。また、その仕方を記したもの。
・ 三宝・父母・師長・死者などに対して行う供養の法式。


これらをみるとわかりますが、これが巷にある供養の一環です。
ただしお釈迦様が示した供養はこれでは有りません。示した一覧の中にありますが、主たるものはこれらがお釈迦様の示した供養です。

・死者の生前の遺徳を偲ぶこと。
・出家者に飲食などを布施すること
・貧者や弱者を助けること

これらが示された供養です。

ただお釈迦様はこの事項だけ守り後は駄目だ、というようなきつい言い方はしていませんでした。

例えば土着信仰や民間信仰で「死者の墓前などに生前好きだった食べ物などを供える」などは供えても供養にならないことはわかっています。
しかしそれは生きている人が「行いたくて行っている行為」ですから敢えて禁止としませんでした。
つまり民間信仰や土着信仰は出家者がやるには禁止したが、在家者や一般の人には特に禁止はしなかったということです。

ただこれが釈尊滅後どんどん仏教自体も変化し大乗仏教(大衆派仏教)がブームになったのもあり方便が先に立ち、本来のお釈迦様の示された供養よりも
ネットで出てくるような「供養」がレギュラー化されて今に至る、ということなのです。

ですから一般の人がお経を唱えたり、お坊さんを呼んで法要をしてもらうのも供養の一環、となっていますが、本来の供養ではなく後から派生したものだ、ということです。




私が強く主張するこの供養に関して言いたいことがあります。
それが元でこの項目を挙げて記事を書いたわけですが、ぜひ皆様も考えてほしいことがあります。




例えばそのお釈迦様も容認なさった「土着信仰や民間信仰」及び釈尊滅後構成の人間が勝手に作った「大乗仏教流行の影響で派生した供養等」は果たして供養の意味を成すのか?です。

それを知るためには本当の仏教の知識が必要です。




私が一番ショックだったのは、お釈迦様が言われた言葉。
人は死んだらどうなるか、に対しての答えでした。

お釈迦様はこのように言われました。

『人は死後、その人が赴くところへ行く』



私はてっきり天国とか地獄とかまたは霊界なんてところへいくぞ、という答えを期待していました。
ところがこのような回答に「カクッ」と来ました。また最初は全く意味が分からなかった。

時間を経てわかったのが、この解釈です。

人は死後タンハーによって輪廻する。つまり生き死にを繰り返している。
ところがどうしてどのように、何に如何様になるかはお釈迦様は示されてないのですね。

どうして説明したりしなかったりするんだろう?意地悪なのか?それとも本当に物事を知っているようで知らないんじゃないの?とか思った。

ところがそうではなくお釈迦さまは仏教は如何に解脱して涅槃へ入るかが目的なので、それ以外の関係ないことは言わないんですね。
だから言わないんです。

だから魂がどうだとか霊感がどうのだとか全然言わない。味もそっけもない、といった有様です。
ですがそれらが解脱に関係ないと言えばその通りです。なるほどなあ、と思った。



そして死後どのようになるかはお釈迦様でも説きようがないのです。
なぜならその人その人の行いや考え、また善果・悪果が多種多様だからです。
なので示しようがない。

また悪果の影響で地獄に行くのも善果のことで天国?へ行くのもその人のすべて行い如何です。
だからこれもまた言いようがない。

だから一言で述べるとなると「その人の赴くところへ行く」というのが正解なのです。



また輪廻する先も同様で、その人が持つタンハーや善果・悪果の如何にも転生先が変わります。
ですからやはり示しようがない。



それこそ昔流行ったスピリチュアルの世界では人は死んだあと「自分が生まれ変わりたいところに生まれる」というのがあります。
これは仏教と関係がないしオカルト的ではありますが、お釈迦さまが示さないんだから例えで引用していますが、それのとおりだとすると言いようがある。

しかし因果応報でどこにどのように生まれるかわからない、となれば示しようがありません。
なので「その人が赴く」というのはその人の善果・悪果の適した場所、ということになるわけです。
本人の望む望まない如何にかかわらず、転生だけはするのはわかっている。しかし選べない、となれば選定されたところへ行くしかない。
つまり赴くまま、というのが出てくるわけです。

そしてあの世へ行ったとしてもどこにいるのかわからない。まして次元が違いますから話もできない。
どこにいるかもわからないわけです。



ですからそのような状態の死者にどうやって食べ物を届けるのか?ということです。
いくら高価な物やたくさんの物を供えても、それはただ墓や仏壇に供えられた物体です。
死者はそれを食べることもできないし、受け取ることもできない。

だからこのブログで過去にも書きましたが「供物を上げてもそれは生きている人の自己満足だ」というのがそれです。
それがわかってからは私は供物を上げるというのはしなくなった。

またお経も真言も同様です。それらを精魂込めてあげたとしてもそれは墓や仏壇、阿含宗なら「ご宝塔」の前で唱えているだけであって何も通じない。
生きている人間の自己満足でしかないのです。



私は先ほど「あの世で云々」といいましたが、もしも死者が転生が早くできたとしたらどうでしょうか?
あの世に死者の魂もいないわけです。そこに対して遺族がいつまでもお供えをしてお経や真言を唱えている。

だが当の供養を受ける側は転生してあの世にはいないわけです。つまり空に向かって供物を並べお経や真言をとなえているようなものです。



滑稽ではありませんか?




だからお釈迦様はそれが最初から分かっているので説かなかった。供物もお経も不要だ。あるのは死者への偲ぶ思いを馳せたりするだけでいい。
または死者の遺徳を偲び、生き方などを見習って人生に役立てる。または心を清浄に保つようにしなさい、だけです。

後は出家者や貧者・弱者に布施をしなさいということだけになるのは当然のことです。
これらを行うことは善果になるぞ、と言われています。

それが逸れていつの間にか供養は辞典やネットで出てくるような意味合いになってしまっているのです。
そしてそれをすることが「供養」だと疑わない人が大勢いるのです。




だから先祖供養する、とるとお釈迦様の説いた「先祖の遺徳を偲ぶ」でいいのです。
お経も真言もお供えも要らないのです。

ですがこれがまかり通れば新興宗教も在来仏教もすべてアウトです。
世の中がすべて変わるといってもいいくらいです。

お寺さんやお坊さんの役目はほとんどなくなり衰退します。また今まで仏壇や墓も売れなくなるでしょう。

それだけ本当に事項はすさまじい影響力があるのですが、それが通ったら生活ができなくなる人が出ます。
だから誰もそれに賛同しないし、公にしないのです。

なので未だに昔ながらの流れを切らずに経過しているわけです。





以降、次回へ続きます。