知り合いから「前回の記事をもう少しわかりやすく説明して欲しい」と要望がありました。
なので、再度語りたいと思います。
5chである方が
「運命というものは認める・認めないに依らず、純然としてある(存在する)
その運命の影響を誰しもが受ける。
その(悪い)運命を変えることができるのが因縁解脱なのだ」
と言う旨の発言をしている人が居りました。
つまりはこの人は因縁解脱を提唱する「阿含宗」を擁護し、正当性を主張しているわけです。
しかし、自分はこの人の主張に対し「違うよ」と反論しているわけです。
因縁解脱というのは阿含宗の専売特許のように映りますが、実はそうではなくかなり昔の頃から存在していて、発生・普及・有名にさせたのは「とある有名な新興宗教」であると言われています。
そして阿含宗は認識度や広まりがある「因縁解脱」を用い、宗教展開をしていったわけです。
またただ単によそ様の発祥のものをそのまま使ったのでは芸が無い。
このベース的な「因縁解脱」を阿含宗開祖である「桐山靖雄」が独自の解釈~つまり味付けをして展開をしていった。
それが阿含宗なわけですね。
ですから阿含宗以外の教団の教団も「因縁解脱」を説く教団は多数あります。
ですが、阿含宗の教義の中にある「因縁解脱」は他の教団とまた違ったものがある。それが今私が言った「味付け」であり「解釈」です。
この「味付けや解釈」があるために、それを信じて入信するというのがありますね。
他教団で因縁解脱なるものを講じてきたが、うまく行かなかった。
だが阿含宗での展開を知り「ここなら因縁解脱できるかも」と入信する人もいる。
そういったものがあると思ってください。
ただ、これらは本当の仏教の内容を知っている人から見ると、茶番であり明らかな間違いであり詐欺であるとわかります。
つまり、発祥自体がその因縁解脱を打ち出した人そのものが「仏教を知らなかった」ゆえに考えた発想・思考なのです。
だから仏教のどこを見ても・調べても「因縁解脱」は出てきません。
なぜなら、お釈迦さまが説いた教えではなくて、後世の新興宗教の教祖が考えたものだからです。
なので、仏教に因縁解脱を求め、血眼になって調べても欠片すら出てこないのは、当たり前なのです。
お経自体に書かれてもいないし、仏教学者に聞いても「そんなのはお釈迦さまは説いてないよ」と言われて終わりです。
だからこの主張をする人は「本当の仏教を知らないただの御馬鹿さん」なのですね。
そして因縁解脱から離れて「運命」のことに参りましょう。
この人はやたら運命のことにかまけてしつこく色々述べていますね。
個人的見解で個人で色々考える・講じるなら特に問題はありません。
しかし、掲示板と言う誰でも見れる公的なものに書き込みをして、尚且つ阿含宗の正当性を述べているので、これはやぶさかではない。
そこで私が言ったのは基本の基本である「お釈迦さまの言われた内容~本当の仏教」に照らし合わせて、尚且つ天照風に砕けた説明をしたというのが前回の記事です。
要は大事なのはこの人の言うように「運命があるかないか」なんかは大事ではなく、本当の仏教をやる気があるのかどうか、なのです。
わたしはいつも言うことですが、嘘の(偽の)仏教を講じるなら巷にいくらでも溢れています。
だからそのどれかを講じよう・行おうと、いうのはその人の勝手ですし自由です。
ただ、本当の仏教を講じたい、というなら「本当の仏教」を知ってそれを講じなければいけません。
だって、間違ったものを覚えて行ったら、道が逸れる。または結果が得れないのは明白ではないですか。
仏教とは一体何なのか。何を目的に講じるものなのか、が判ってなければ講じようもないし講じても意味が無い。
本当の仏教の教えは仏陀になって涅槃へ入ることが目的です。それ以外は無い。
そこには因縁解脱も霊障も無いのです。また巷に遍満する教えの大半は間違いだらけですから、何も確認せずに講じれば、本当の仏教から逸れます。
仏陀に成るどころか、下手をすれば普通の生活すら壊す教えなどもあるほど酷いものもあります。
そんなものは本当の仏教どころか、宗教ですらありません。ですが、そういう教えを煌々と説いているところもあるんですね。
本当の仏教を学んでいくとこの人の主張など「子供の戯言以下」というほど浅く阿呆なレベルと言うのが判ります。
本当の仏教というのはシンプルでありながら奥が深い。
例えば前回も説きましたが、運命なんてのは有っても無くても「関係ない」んです。仏教と言うのはそういう風に凄くシビアというかはっきりしている。
凡夫が仏陀になってその後修行をして研鑽を重ね、涅槃へ入るために努力するわけです。そのために必要なことはするが、関係ないことは一切しない。
だから運命があってもなくても、それは修行に関係ないとみなすし、取り合わないんです。
そういうと必ず擁護者が言ってくるのが
「仏教では仏陀になり涅槃へ入るというのはわかるが、自分が持つ悪因縁。つまり過去世での悪業の影響、つまり運命のせいで修行が頓挫する場合があるでしょう。
日々修行に励んで精進している人がいたとする。真面目に悪いことを一切しないで本当の仏教を講じている。
だが、その人が過去世の悪業があるために、例えば横変死するとする。若い頃に仏教に目覚めたのはいいが、修行を完成しない前に交通事故やら何かで命を失う運命だとする。
だったら、その人は修行が完成しない前に死んでしまうことであり、修行が不完全であるということになろう。
そういう運命を無くして、完全もしくは完全に近い状態でなければ涅槃に入るなどできないのではないか。
つまり阿含宗教祖「桐山靖雄」のいうとおり、仏教の修行を満了・完成するためには「悪い運命を無くす、または改善する必要がある」というのは必須ではないか。
涅槃に入りたかったらまず先にやるのが「因縁解脱」ではないのか」
こういう風に言ってきますね。私も昔信者でしたから、その辺りはよくわかりますよ。
ですが、この思考自体が「そもそもの間違い」なのです。そして騙されている人はこの間違いに「気づかない」
いいですか。本当の仏教が凄い、というのはここなんです。よく知って置いてください。
例えば、横変死の因縁(運命)を持っていようが、ガンの因縁を持っていようが、その他何かの因縁を持っていようが「関係ない」とするのが「本当の仏教」なのです。
本当の仏教は「ひたすら生きている間、清浄行を基本に本当の仏教の講じを行う」のが正しい内容なのです。
だから仮にこの主張者の言うように、真面目に修行をやっていたとしても途中で命が尽きる。過去世の自分が作った悪業のために悪い運命がその人にある。
だが、それはそれであり、尚且つ悪業は誰も消せない、と言っているのです。消せないだけでない。減滅や相殺もできないと言う。
ただ運命に対してできるのは「自らそれを受けるだけしかない」とお釈迦さま自身が言っているのです。
その実際的な示しとしてお釈迦さまの弟子たちに不幸な亡くなり方をしている方がいます。
この方々が過去世で積んだ悪業の報いを受けて、そのように亡くなっている訳です。
これを因縁解脱を物差しで考えたら、仏教の修行を行っているのにそれが効いてない。効果が無い、と言っているようなものです。
自家撞着を起こしていることになる。
これが本当の仏教でみると「物の道理は皆因果応報である」となっている。またそれをお釈迦さまは実際に説いていますよね。
因縁解脱なんてのは説かないが、因果応報、因縁果報は説いている。縁起の法、というやつですね。
この真理は本当にシンプルです。シンプルなんだが、融通が利かない。
いわゆる因縁解脱の理論でいうところの「善果で悪果(悪業)を相殺や減滅。帳消しが出来ない」んです。
つまり、善果は善果。悪果は悪果、と言う風に別々に別れ、存在するのです。だからお互いをどうにかして相殺・減滅などの調整ができないんです。
だから、お釈迦さまも最初からそれが判っているから、悪果を背負えば自分がそれだけ痛い目に遭う。または仏教の修行をする際にも満了の阻害になるのは判っています。
なので、弟子たちに
「悪いことをするな。戒律を守り悪業を作るな」と、しつこいほど言われているのですね。
悪果を作ってしまったら最後、どこまでも追いかけてくる。
例えば、自分が今の世、現世で過去世の悪業がたまたま発生しないとします。ですが、その人に絶対的に過去の悪業はあるわけです。
ただ、現世でその悪業がヒットしない。つまり発生させるだけの人生で無い場合がある。
そういう場合はその人が死んだ後、転生してきますからその来世以降で必ず報いが生じるんです。つまりは「どこまで行っても逃げられない」のですね。
そして山ほど善い事をしても、善果が一杯有るから多少の悪果を減らしてよ。又は無しにして、と思っても因果応報の法則は善悪の区別がありませんから、必ずその人に各々の種類で降りかかる。
いい事はいい事の反映。悪いことは悪いことの反映として、それぞれに現れるんです。
だから因果応報を運命だとか何かの名称で呼ぼうが、それは「因果応報でしょ」で終わりなんです。
いい事が起きてそれを味わうのも運命であり、悪いのも然り。それは全てその人がやった行為の反映ですから、その人のものです。
他者や何かで介在・調整できないんですよ。勿論本人ですら何も出来ない。できるのは「ただ、反映を受けるだけ」です。
なので、もし修行の途中で横変死して頓挫したとしても、それはその人が悪い。
だから、また生まれ変わって来世で修行をやれば良い。
それこそ悪業を受けないで逃げ切れる法があったとしましょうか。でも消すことは出来ないのでいつかどこかの生、つまり生まれた世で必ず報いを受けなければいけない。
モッガーラナ尊者がまさにそれです。
仏教の修行を満了して後は涅槃へ入るだけのお方が横変死した。これはまさにモッガーラナ尊者の「ミス」です。
そして仏教の修行で神通力を持っていましたから、もしかしたら悪業をスカすテクニックも行使できたかもしれない。
だが、それをやればせっかく現世で涅槃へ入れるチャンスなのに、また転生しなければいけない羽目になります。
それは悪業が有るために涅槃へ入れないからです。悪業が輪廻する原動力になってしまう。
それなら悪業の報いは痛いし嫌だが受けるしかない。なので現世で悪業を受けて横変死したわけです。
そして悪業の清算をして、晴れて涅槃へ入れたのですね。
お釈迦さまだって何かしてあげたかったでしょう。ですが、因果応報の法則は絶対であり真理です。
如何に修行を完成し、神通力があるお釈迦さまでも、モッガーラナ尊者の悪業をどうにかはできなかった。
だから全てをわかっていて、尚且つ自分の弟子である人物が痛い目にあって居るのを目の当たりにして心を痛めないはずが無い。
ですが、仏教は心を乱しては駄目ですから、そういう事項に遭遇してもそれに翻弄されてはいけない。誠に厳しいものです。
唯一のものはお釈迦さまには神通力があることです。如何に現世で横変死したとしても、死後涅槃へ入るのを見れるお釈迦さまは現世での非業は目にしても、ねはんへ入ったお弟子さんらを認識できるわけです。
これが唯一、安堵をもたらしたと自分は推測しますね。
また仮に涅槃へ至れないで非業な死を遂げたとします。しかし、現世で行った修行の程度はその人に残ります。
これもある種「因果応報の法則」なのですね。その人の行った行為はその人の反映される、が法則ですから、その人が行った修行はその人に残るわけです。
だから生まれ変わってまた修行にはなるが、過去世で修行をしたという記録は自分に残るわけです。
何度も何度も行って、ようやく到達したのです。お釈迦さまもお弟子さんたちも。
だから、もしも自らの悪業で非業な死を得ても、悪い運命でもそれはそれであり、しょうがないとみなすわけです。
そして生まれ変わってやり直すしかない。
お釈迦さまもあの世では修行は出来ないといっています。やはりこの世で身体を得て修行が出来ると。
だから、死んでは生まれ、生まれては死にを繰り返す。果てしない輪廻を繰り返し、その果てに仏教の修行を満了した果てに得れるのが「涅槃」という完全完成形に至るわけです。
それまではせっかく積んだ善果を使い果たしたり、又は悪業が少なく出来た世もあったのに、転生した地で悪業を増やしてしまったり、とかもあることでしょう。
本当に涅槃へ入るまでは、物凄い大変なのですよね。
だから努めて「悪いことをするな。善い事をせよ」を守り、行う。そして仏教の正しい教えを実践してゆく。これは本当の仏教の教えであり、内容です。
ここには因縁解脱も運命も無いのがよくわかるでしょう?
なので、この発言者は本当の仏教をわかってないし、わかろうともしていない。
詐欺師で間違った教えを「正しいもの」として信じて疑わない。
私は無知で阿含宗を知ったのだから、騙されました。ですが、後になって本当の仏教を知ったら「何だ、偽仏教だったのか」とわかり退会したわけです。
阿含宗が本当の仏教を教えて講じさせる教団だったら、死ぬまで辞めないですよ。
阿含宗こそが本当の仏教教団、と言うから信じて入信した。だが、中身は嘘だらけであった。
こういう事実も理解できないで「やれ運命」とか「桐山靖雄の悪口を言うな」というのは、本当に阿呆だ馬鹿だと言うしかない。
過去の私のように「何も知らないで居たから騙された」というのならまだわかります。
この発言者は何年も何度も掲示板で正しい教えを示されても、理解を示さない。脳が逝かれているというしかないお方です。
だから、運命がどうだとか、因縁解脱だのほざくまえに気が付かねば成らないことがあるでしょうが。
また、ペテン師である桐山靖雄とお釈迦さまとどっちをとるのか、もある。
お釈迦さまを取らない時点で「ああ、この人は偽・嘘仏教をしたいんだな」と言うのが丸判りです。
本当の仏教なんて要らなくて、オカルト思考や内容が間違ってても自分が欲する欲求を満たすものならそれでいいという思考の持ち主なんだなと。
かつての阿含宗が「超能力を獲得できるぞ」と嘯いたのを信じて信仰をした人たちと変わりない。
そういう人が己の愚かさや低劣に気づかず、発言しているのですね。
そういうことでこの章は終わりにします。
次回からはまた違ったものを書きますね。それでは。
なので、再度語りたいと思います。
5chである方が
「運命というものは認める・認めないに依らず、純然としてある(存在する)
その運命の影響を誰しもが受ける。
その(悪い)運命を変えることができるのが因縁解脱なのだ」
と言う旨の発言をしている人が居りました。
つまりはこの人は因縁解脱を提唱する「阿含宗」を擁護し、正当性を主張しているわけです。
しかし、自分はこの人の主張に対し「違うよ」と反論しているわけです。
因縁解脱というのは阿含宗の専売特許のように映りますが、実はそうではなくかなり昔の頃から存在していて、発生・普及・有名にさせたのは「とある有名な新興宗教」であると言われています。
そして阿含宗は認識度や広まりがある「因縁解脱」を用い、宗教展開をしていったわけです。
またただ単によそ様の発祥のものをそのまま使ったのでは芸が無い。
このベース的な「因縁解脱」を阿含宗開祖である「桐山靖雄」が独自の解釈~つまり味付けをして展開をしていった。
それが阿含宗なわけですね。
ですから阿含宗以外の教団の教団も「因縁解脱」を説く教団は多数あります。
ですが、阿含宗の教義の中にある「因縁解脱」は他の教団とまた違ったものがある。それが今私が言った「味付け」であり「解釈」です。
この「味付けや解釈」があるために、それを信じて入信するというのがありますね。
他教団で因縁解脱なるものを講じてきたが、うまく行かなかった。
だが阿含宗での展開を知り「ここなら因縁解脱できるかも」と入信する人もいる。
そういったものがあると思ってください。
ただ、これらは本当の仏教の内容を知っている人から見ると、茶番であり明らかな間違いであり詐欺であるとわかります。
つまり、発祥自体がその因縁解脱を打ち出した人そのものが「仏教を知らなかった」ゆえに考えた発想・思考なのです。
だから仏教のどこを見ても・調べても「因縁解脱」は出てきません。
なぜなら、お釈迦さまが説いた教えではなくて、後世の新興宗教の教祖が考えたものだからです。
なので、仏教に因縁解脱を求め、血眼になって調べても欠片すら出てこないのは、当たり前なのです。
お経自体に書かれてもいないし、仏教学者に聞いても「そんなのはお釈迦さまは説いてないよ」と言われて終わりです。
だからこの主張をする人は「本当の仏教を知らないただの御馬鹿さん」なのですね。
そして因縁解脱から離れて「運命」のことに参りましょう。
この人はやたら運命のことにかまけてしつこく色々述べていますね。
個人的見解で個人で色々考える・講じるなら特に問題はありません。
しかし、掲示板と言う誰でも見れる公的なものに書き込みをして、尚且つ阿含宗の正当性を述べているので、これはやぶさかではない。
そこで私が言ったのは基本の基本である「お釈迦さまの言われた内容~本当の仏教」に照らし合わせて、尚且つ天照風に砕けた説明をしたというのが前回の記事です。
要は大事なのはこの人の言うように「運命があるかないか」なんかは大事ではなく、本当の仏教をやる気があるのかどうか、なのです。
わたしはいつも言うことですが、嘘の(偽の)仏教を講じるなら巷にいくらでも溢れています。
だからそのどれかを講じよう・行おうと、いうのはその人の勝手ですし自由です。
ただ、本当の仏教を講じたい、というなら「本当の仏教」を知ってそれを講じなければいけません。
だって、間違ったものを覚えて行ったら、道が逸れる。または結果が得れないのは明白ではないですか。
仏教とは一体何なのか。何を目的に講じるものなのか、が判ってなければ講じようもないし講じても意味が無い。
本当の仏教の教えは仏陀になって涅槃へ入ることが目的です。それ以外は無い。
そこには因縁解脱も霊障も無いのです。また巷に遍満する教えの大半は間違いだらけですから、何も確認せずに講じれば、本当の仏教から逸れます。
仏陀に成るどころか、下手をすれば普通の生活すら壊す教えなどもあるほど酷いものもあります。
そんなものは本当の仏教どころか、宗教ですらありません。ですが、そういう教えを煌々と説いているところもあるんですね。
本当の仏教を学んでいくとこの人の主張など「子供の戯言以下」というほど浅く阿呆なレベルと言うのが判ります。
本当の仏教というのはシンプルでありながら奥が深い。
例えば前回も説きましたが、運命なんてのは有っても無くても「関係ない」んです。仏教と言うのはそういう風に凄くシビアというかはっきりしている。
凡夫が仏陀になってその後修行をして研鑽を重ね、涅槃へ入るために努力するわけです。そのために必要なことはするが、関係ないことは一切しない。
だから運命があってもなくても、それは修行に関係ないとみなすし、取り合わないんです。
そういうと必ず擁護者が言ってくるのが
「仏教では仏陀になり涅槃へ入るというのはわかるが、自分が持つ悪因縁。つまり過去世での悪業の影響、つまり運命のせいで修行が頓挫する場合があるでしょう。
日々修行に励んで精進している人がいたとする。真面目に悪いことを一切しないで本当の仏教を講じている。
だが、その人が過去世の悪業があるために、例えば横変死するとする。若い頃に仏教に目覚めたのはいいが、修行を完成しない前に交通事故やら何かで命を失う運命だとする。
だったら、その人は修行が完成しない前に死んでしまうことであり、修行が不完全であるということになろう。
そういう運命を無くして、完全もしくは完全に近い状態でなければ涅槃に入るなどできないのではないか。
つまり阿含宗教祖「桐山靖雄」のいうとおり、仏教の修行を満了・完成するためには「悪い運命を無くす、または改善する必要がある」というのは必須ではないか。
涅槃に入りたかったらまず先にやるのが「因縁解脱」ではないのか」
こういう風に言ってきますね。私も昔信者でしたから、その辺りはよくわかりますよ。
ですが、この思考自体が「そもそもの間違い」なのです。そして騙されている人はこの間違いに「気づかない」
いいですか。本当の仏教が凄い、というのはここなんです。よく知って置いてください。
例えば、横変死の因縁(運命)を持っていようが、ガンの因縁を持っていようが、その他何かの因縁を持っていようが「関係ない」とするのが「本当の仏教」なのです。
本当の仏教は「ひたすら生きている間、清浄行を基本に本当の仏教の講じを行う」のが正しい内容なのです。
だから仮にこの主張者の言うように、真面目に修行をやっていたとしても途中で命が尽きる。過去世の自分が作った悪業のために悪い運命がその人にある。
だが、それはそれであり、尚且つ悪業は誰も消せない、と言っているのです。消せないだけでない。減滅や相殺もできないと言う。
ただ運命に対してできるのは「自らそれを受けるだけしかない」とお釈迦さま自身が言っているのです。
その実際的な示しとしてお釈迦さまの弟子たちに不幸な亡くなり方をしている方がいます。
この方々が過去世で積んだ悪業の報いを受けて、そのように亡くなっている訳です。
これを因縁解脱を物差しで考えたら、仏教の修行を行っているのにそれが効いてない。効果が無い、と言っているようなものです。
自家撞着を起こしていることになる。
これが本当の仏教でみると「物の道理は皆因果応報である」となっている。またそれをお釈迦さまは実際に説いていますよね。
因縁解脱なんてのは説かないが、因果応報、因縁果報は説いている。縁起の法、というやつですね。
この真理は本当にシンプルです。シンプルなんだが、融通が利かない。
いわゆる因縁解脱の理論でいうところの「善果で悪果(悪業)を相殺や減滅。帳消しが出来ない」んです。
つまり、善果は善果。悪果は悪果、と言う風に別々に別れ、存在するのです。だからお互いをどうにかして相殺・減滅などの調整ができないんです。
だから、お釈迦さまも最初からそれが判っているから、悪果を背負えば自分がそれだけ痛い目に遭う。または仏教の修行をする際にも満了の阻害になるのは判っています。
なので、弟子たちに
「悪いことをするな。戒律を守り悪業を作るな」と、しつこいほど言われているのですね。
悪果を作ってしまったら最後、どこまでも追いかけてくる。
例えば、自分が今の世、現世で過去世の悪業がたまたま発生しないとします。ですが、その人に絶対的に過去の悪業はあるわけです。
ただ、現世でその悪業がヒットしない。つまり発生させるだけの人生で無い場合がある。
そういう場合はその人が死んだ後、転生してきますからその来世以降で必ず報いが生じるんです。つまりは「どこまで行っても逃げられない」のですね。
そして山ほど善い事をしても、善果が一杯有るから多少の悪果を減らしてよ。又は無しにして、と思っても因果応報の法則は善悪の区別がありませんから、必ずその人に各々の種類で降りかかる。
いい事はいい事の反映。悪いことは悪いことの反映として、それぞれに現れるんです。
だから因果応報を運命だとか何かの名称で呼ぼうが、それは「因果応報でしょ」で終わりなんです。
いい事が起きてそれを味わうのも運命であり、悪いのも然り。それは全てその人がやった行為の反映ですから、その人のものです。
他者や何かで介在・調整できないんですよ。勿論本人ですら何も出来ない。できるのは「ただ、反映を受けるだけ」です。
なので、もし修行の途中で横変死して頓挫したとしても、それはその人が悪い。
だから、また生まれ変わって来世で修行をやれば良い。
それこそ悪業を受けないで逃げ切れる法があったとしましょうか。でも消すことは出来ないのでいつかどこかの生、つまり生まれた世で必ず報いを受けなければいけない。
モッガーラナ尊者がまさにそれです。
仏教の修行を満了して後は涅槃へ入るだけのお方が横変死した。これはまさにモッガーラナ尊者の「ミス」です。
そして仏教の修行で神通力を持っていましたから、もしかしたら悪業をスカすテクニックも行使できたかもしれない。
だが、それをやればせっかく現世で涅槃へ入れるチャンスなのに、また転生しなければいけない羽目になります。
それは悪業が有るために涅槃へ入れないからです。悪業が輪廻する原動力になってしまう。
それなら悪業の報いは痛いし嫌だが受けるしかない。なので現世で悪業を受けて横変死したわけです。
そして悪業の清算をして、晴れて涅槃へ入れたのですね。
お釈迦さまだって何かしてあげたかったでしょう。ですが、因果応報の法則は絶対であり真理です。
如何に修行を完成し、神通力があるお釈迦さまでも、モッガーラナ尊者の悪業をどうにかはできなかった。
だから全てをわかっていて、尚且つ自分の弟子である人物が痛い目にあって居るのを目の当たりにして心を痛めないはずが無い。
ですが、仏教は心を乱しては駄目ですから、そういう事項に遭遇してもそれに翻弄されてはいけない。誠に厳しいものです。
唯一のものはお釈迦さまには神通力があることです。如何に現世で横変死したとしても、死後涅槃へ入るのを見れるお釈迦さまは現世での非業は目にしても、ねはんへ入ったお弟子さんらを認識できるわけです。
これが唯一、安堵をもたらしたと自分は推測しますね。
また仮に涅槃へ至れないで非業な死を遂げたとします。しかし、現世で行った修行の程度はその人に残ります。
これもある種「因果応報の法則」なのですね。その人の行った行為はその人の反映される、が法則ですから、その人が行った修行はその人に残るわけです。
だから生まれ変わってまた修行にはなるが、過去世で修行をしたという記録は自分に残るわけです。
何度も何度も行って、ようやく到達したのです。お釈迦さまもお弟子さんたちも。
だから、もしも自らの悪業で非業な死を得ても、悪い運命でもそれはそれであり、しょうがないとみなすわけです。
そして生まれ変わってやり直すしかない。
お釈迦さまもあの世では修行は出来ないといっています。やはりこの世で身体を得て修行が出来ると。
だから、死んでは生まれ、生まれては死にを繰り返す。果てしない輪廻を繰り返し、その果てに仏教の修行を満了した果てに得れるのが「涅槃」という完全完成形に至るわけです。
それまではせっかく積んだ善果を使い果たしたり、又は悪業が少なく出来た世もあったのに、転生した地で悪業を増やしてしまったり、とかもあることでしょう。
本当に涅槃へ入るまでは、物凄い大変なのですよね。
だから努めて「悪いことをするな。善い事をせよ」を守り、行う。そして仏教の正しい教えを実践してゆく。これは本当の仏教の教えであり、内容です。
ここには因縁解脱も運命も無いのがよくわかるでしょう?
なので、この発言者は本当の仏教をわかってないし、わかろうともしていない。
詐欺師で間違った教えを「正しいもの」として信じて疑わない。
私は無知で阿含宗を知ったのだから、騙されました。ですが、後になって本当の仏教を知ったら「何だ、偽仏教だったのか」とわかり退会したわけです。
阿含宗が本当の仏教を教えて講じさせる教団だったら、死ぬまで辞めないですよ。
阿含宗こそが本当の仏教教団、と言うから信じて入信した。だが、中身は嘘だらけであった。
こういう事実も理解できないで「やれ運命」とか「桐山靖雄の悪口を言うな」というのは、本当に阿呆だ馬鹿だと言うしかない。
過去の私のように「何も知らないで居たから騙された」というのならまだわかります。
この発言者は何年も何度も掲示板で正しい教えを示されても、理解を示さない。脳が逝かれているというしかないお方です。
だから、運命がどうだとか、因縁解脱だのほざくまえに気が付かねば成らないことがあるでしょうが。
また、ペテン師である桐山靖雄とお釈迦さまとどっちをとるのか、もある。
お釈迦さまを取らない時点で「ああ、この人は偽・嘘仏教をしたいんだな」と言うのが丸判りです。
本当の仏教なんて要らなくて、オカルト思考や内容が間違ってても自分が欲する欲求を満たすものならそれでいいという思考の持ち主なんだなと。
かつての阿含宗が「超能力を獲得できるぞ」と嘯いたのを信じて信仰をした人たちと変わりない。
そういう人が己の愚かさや低劣に気づかず、発言しているのですね。
そういうことでこの章は終わりにします。
次回からはまた違ったものを書きますね。それでは。