goo blog サービス終了のお知らせ 

天照の独り言

つれづれに思った事を書き綴るブログへと変更(2019年1月1日より)
以前は「某宗教団体の欺瞞を世に知らしめるブログ」

運命?だからどうした?

2018-06-27 08:00:14 | Weblog
知り合いから「前回の記事をもう少しわかりやすく説明して欲しい」と要望がありました。
なので、再度語りたいと思います。


5chである方が

「運命というものは認める・認めないに依らず、純然としてある(存在する)
 その運命の影響を誰しもが受ける。
 その(悪い)運命を変えることができるのが因縁解脱なのだ」

と言う旨の発言をしている人が居りました。
つまりはこの人は因縁解脱を提唱する「阿含宗」を擁護し、正当性を主張しているわけです。


しかし、自分はこの人の主張に対し「違うよ」と反論しているわけです。



因縁解脱というのは阿含宗の専売特許のように映りますが、実はそうではなくかなり昔の頃から存在していて、発生・普及・有名にさせたのは「とある有名な新興宗教」であると言われています。
そして阿含宗は認識度や広まりがある「因縁解脱」を用い、宗教展開をしていったわけです。

またただ単によそ様の発祥のものをそのまま使ったのでは芸が無い。
このベース的な「因縁解脱」を阿含宗開祖である「桐山靖雄」が独自の解釈~つまり味付けをして展開をしていった。
それが阿含宗なわけですね。

ですから阿含宗以外の教団の教団も「因縁解脱」を説く教団は多数あります。
ですが、阿含宗の教義の中にある「因縁解脱」は他の教団とまた違ったものがある。それが今私が言った「味付け」であり「解釈」です。
この「味付けや解釈」があるために、それを信じて入信するというのがありますね。

他教団で因縁解脱なるものを講じてきたが、うまく行かなかった。
だが阿含宗での展開を知り「ここなら因縁解脱できるかも」と入信する人もいる。
そういったものがあると思ってください。



ただ、これらは本当の仏教の内容を知っている人から見ると、茶番であり明らかな間違いであり詐欺であるとわかります。
つまり、発祥自体がその因縁解脱を打ち出した人そのものが「仏教を知らなかった」ゆえに考えた発想・思考なのです。

だから仏教のどこを見ても・調べても「因縁解脱」は出てきません。
なぜなら、お釈迦さまが説いた教えではなくて、後世の新興宗教の教祖が考えたものだからです。
なので、仏教に因縁解脱を求め、血眼になって調べても欠片すら出てこないのは、当たり前なのです。

お経自体に書かれてもいないし、仏教学者に聞いても「そんなのはお釈迦さまは説いてないよ」と言われて終わりです。



だからこの主張をする人は「本当の仏教を知らないただの御馬鹿さん」なのですね。




そして因縁解脱から離れて「運命」のことに参りましょう。
この人はやたら運命のことにかまけてしつこく色々述べていますね。


個人的見解で個人で色々考える・講じるなら特に問題はありません。
しかし、掲示板と言う誰でも見れる公的なものに書き込みをして、尚且つ阿含宗の正当性を述べているので、これはやぶさかではない。



そこで私が言ったのは基本の基本である「お釈迦さまの言われた内容~本当の仏教」に照らし合わせて、尚且つ天照風に砕けた説明をしたというのが前回の記事です。



要は大事なのはこの人の言うように「運命があるかないか」なんかは大事ではなく、本当の仏教をやる気があるのかどうか、なのです。




わたしはいつも言うことですが、嘘の(偽の)仏教を講じるなら巷にいくらでも溢れています。
だからそのどれかを講じよう・行おうと、いうのはその人の勝手ですし自由です。



ただ、本当の仏教を講じたい、というなら「本当の仏教」を知ってそれを講じなければいけません。
だって、間違ったものを覚えて行ったら、道が逸れる。または結果が得れないのは明白ではないですか。


仏教とは一体何なのか。何を目的に講じるものなのか、が判ってなければ講じようもないし講じても意味が無い。



本当の仏教の教えは仏陀になって涅槃へ入ることが目的です。それ以外は無い。

そこには因縁解脱も霊障も無いのです。また巷に遍満する教えの大半は間違いだらけですから、何も確認せずに講じれば、本当の仏教から逸れます。
仏陀に成るどころか、下手をすれば普通の生活すら壊す教えなどもあるほど酷いものもあります。

そんなものは本当の仏教どころか、宗教ですらありません。ですが、そういう教えを煌々と説いているところもあるんですね。



本当の仏教を学んでいくとこの人の主張など「子供の戯言以下」というほど浅く阿呆なレベルと言うのが判ります。



本当の仏教というのはシンプルでありながら奥が深い。




例えば前回も説きましたが、運命なんてのは有っても無くても「関係ない」んです。仏教と言うのはそういう風に凄くシビアというかはっきりしている。



凡夫が仏陀になってその後修行をして研鑽を重ね、涅槃へ入るために努力するわけです。そのために必要なことはするが、関係ないことは一切しない。
だから運命があってもなくても、それは修行に関係ないとみなすし、取り合わないんです。



そういうと必ず擁護者が言ってくるのが


「仏教では仏陀になり涅槃へ入るというのはわかるが、自分が持つ悪因縁。つまり過去世での悪業の影響、つまり運命のせいで修行が頓挫する場合があるでしょう。
 日々修行に励んで精進している人がいたとする。真面目に悪いことを一切しないで本当の仏教を講じている。

 だが、その人が過去世の悪業があるために、例えば横変死するとする。若い頃に仏教に目覚めたのはいいが、修行を完成しない前に交通事故やら何かで命を失う運命だとする。

 だったら、その人は修行が完成しない前に死んでしまうことであり、修行が不完全であるということになろう。
 そういう運命を無くして、完全もしくは完全に近い状態でなければ涅槃に入るなどできないのではないか。

 つまり阿含宗教祖「桐山靖雄」のいうとおり、仏教の修行を満了・完成するためには「悪い運命を無くす、または改善する必要がある」というのは必須ではないか。
 涅槃に入りたかったらまず先にやるのが「因縁解脱」ではないのか」


こういう風に言ってきますね。私も昔信者でしたから、その辺りはよくわかりますよ。



ですが、この思考自体が「そもそもの間違い」なのです。そして騙されている人はこの間違いに「気づかない」




いいですか。本当の仏教が凄い、というのはここなんです。よく知って置いてください。




例えば、横変死の因縁(運命)を持っていようが、ガンの因縁を持っていようが、その他何かの因縁を持っていようが「関係ない」とするのが「本当の仏教」なのです。

本当の仏教は「ひたすら生きている間、清浄行を基本に本当の仏教の講じを行う」のが正しい内容なのです。




だから仮にこの主張者の言うように、真面目に修行をやっていたとしても途中で命が尽きる。過去世の自分が作った悪業のために悪い運命がその人にある。
だが、それはそれであり、尚且つ悪業は誰も消せない、と言っているのです。消せないだけでない。減滅や相殺もできないと言う。
ただ運命に対してできるのは「自らそれを受けるだけしかない」とお釈迦さま自身が言っているのです。



その実際的な示しとしてお釈迦さまの弟子たちに不幸な亡くなり方をしている方がいます。
この方々が過去世で積んだ悪業の報いを受けて、そのように亡くなっている訳です。



これを因縁解脱を物差しで考えたら、仏教の修行を行っているのにそれが効いてない。効果が無い、と言っているようなものです。
自家撞着を起こしていることになる。



これが本当の仏教でみると「物の道理は皆因果応報である」となっている。またそれをお釈迦さまは実際に説いていますよね。
因縁解脱なんてのは説かないが、因果応報、因縁果報は説いている。縁起の法、というやつですね。



この真理は本当にシンプルです。シンプルなんだが、融通が利かない。



いわゆる因縁解脱の理論でいうところの「善果で悪果(悪業)を相殺や減滅。帳消しが出来ない」んです。
つまり、善果は善果。悪果は悪果、と言う風に別々に別れ、存在するのです。だからお互いをどうにかして相殺・減滅などの調整ができないんです。

だから、お釈迦さまも最初からそれが判っているから、悪果を背負えば自分がそれだけ痛い目に遭う。または仏教の修行をする際にも満了の阻害になるのは判っています。
なので、弟子たちに


「悪いことをするな。戒律を守り悪業を作るな」と、しつこいほど言われているのですね。


悪果を作ってしまったら最後、どこまでも追いかけてくる。
例えば、自分が今の世、現世で過去世の悪業がたまたま発生しないとします。ですが、その人に絶対的に過去の悪業はあるわけです。
ただ、現世でその悪業がヒットしない。つまり発生させるだけの人生で無い場合がある。


そういう場合はその人が死んだ後、転生してきますからその来世以降で必ず報いが生じるんです。つまりは「どこまで行っても逃げられない」のですね。


そして山ほど善い事をしても、善果が一杯有るから多少の悪果を減らしてよ。又は無しにして、と思っても因果応報の法則は善悪の区別がありませんから、必ずその人に各々の種類で降りかかる。
いい事はいい事の反映。悪いことは悪いことの反映として、それぞれに現れるんです。


だから因果応報を運命だとか何かの名称で呼ぼうが、それは「因果応報でしょ」で終わりなんです。
いい事が起きてそれを味わうのも運命であり、悪いのも然り。それは全てその人がやった行為の反映ですから、その人のものです。
他者や何かで介在・調整できないんですよ。勿論本人ですら何も出来ない。できるのは「ただ、反映を受けるだけ」です。




なので、もし修行の途中で横変死して頓挫したとしても、それはその人が悪い。
だから、また生まれ変わって来世で修行をやれば良い。



それこそ悪業を受けないで逃げ切れる法があったとしましょうか。でも消すことは出来ないのでいつかどこかの生、つまり生まれた世で必ず報いを受けなければいけない。
モッガーラナ尊者がまさにそれです。



仏教の修行を満了して後は涅槃へ入るだけのお方が横変死した。これはまさにモッガーラナ尊者の「ミス」です。
そして仏教の修行で神通力を持っていましたから、もしかしたら悪業をスカすテクニックも行使できたかもしれない。


だが、それをやればせっかく現世で涅槃へ入れるチャンスなのに、また転生しなければいけない羽目になります。
それは悪業が有るために涅槃へ入れないからです。悪業が輪廻する原動力になってしまう。


それなら悪業の報いは痛いし嫌だが受けるしかない。なので現世で悪業を受けて横変死したわけです。
そして悪業の清算をして、晴れて涅槃へ入れたのですね。



お釈迦さまだって何かしてあげたかったでしょう。ですが、因果応報の法則は絶対であり真理です。
如何に修行を完成し、神通力があるお釈迦さまでも、モッガーラナ尊者の悪業をどうにかはできなかった。
だから全てをわかっていて、尚且つ自分の弟子である人物が痛い目にあって居るのを目の当たりにして心を痛めないはずが無い。



ですが、仏教は心を乱しては駄目ですから、そういう事項に遭遇してもそれに翻弄されてはいけない。誠に厳しいものです。



唯一のものはお釈迦さまには神通力があることです。如何に現世で横変死したとしても、死後涅槃へ入るのを見れるお釈迦さまは現世での非業は目にしても、ねはんへ入ったお弟子さんらを認識できるわけです。
これが唯一、安堵をもたらしたと自分は推測しますね。



また仮に涅槃へ至れないで非業な死を遂げたとします。しかし、現世で行った修行の程度はその人に残ります。
これもある種「因果応報の法則」なのですね。その人の行った行為はその人の反映される、が法則ですから、その人が行った修行はその人に残るわけです。

だから生まれ変わってまた修行にはなるが、過去世で修行をしたという記録は自分に残るわけです。
何度も何度も行って、ようやく到達したのです。お釈迦さまもお弟子さんたちも。

だから、もしも自らの悪業で非業な死を得ても、悪い運命でもそれはそれであり、しょうがないとみなすわけです。
そして生まれ変わってやり直すしかない。



お釈迦さまもあの世では修行は出来ないといっています。やはりこの世で身体を得て修行が出来ると。
だから、死んでは生まれ、生まれては死にを繰り返す。果てしない輪廻を繰り返し、その果てに仏教の修行を満了した果てに得れるのが「涅槃」という完全完成形に至るわけです。



それまではせっかく積んだ善果を使い果たしたり、又は悪業が少なく出来た世もあったのに、転生した地で悪業を増やしてしまったり、とかもあることでしょう。
本当に涅槃へ入るまでは、物凄い大変なのですよね。



だから努めて「悪いことをするな。善い事をせよ」を守り、行う。そして仏教の正しい教えを実践してゆく。これは本当の仏教の教えであり、内容です。

ここには因縁解脱も運命も無いのがよくわかるでしょう?






なので、この発言者は本当の仏教をわかってないし、わかろうともしていない。
詐欺師で間違った教えを「正しいもの」として信じて疑わない。





私は無知で阿含宗を知ったのだから、騙されました。ですが、後になって本当の仏教を知ったら「何だ、偽仏教だったのか」とわかり退会したわけです。
阿含宗が本当の仏教を教えて講じさせる教団だったら、死ぬまで辞めないですよ。




阿含宗こそが本当の仏教教団、と言うから信じて入信した。だが、中身は嘘だらけであった。
こういう事実も理解できないで「やれ運命」とか「桐山靖雄の悪口を言うな」というのは、本当に阿呆だ馬鹿だと言うしかない。



過去の私のように「何も知らないで居たから騙された」というのならまだわかります。
この発言者は何年も何度も掲示板で正しい教えを示されても、理解を示さない。脳が逝かれているというしかないお方です。





だから、運命がどうだとか、因縁解脱だのほざくまえに気が付かねば成らないことがあるでしょうが。
また、ペテン師である桐山靖雄とお釈迦さまとどっちをとるのか、もある。




お釈迦さまを取らない時点で「ああ、この人は偽・嘘仏教をしたいんだな」と言うのが丸判りです。
本当の仏教なんて要らなくて、オカルト思考や内容が間違ってても自分が欲する欲求を満たすものならそれでいいという思考の持ち主なんだなと。

かつての阿含宗が「超能力を獲得できるぞ」と嘯いたのを信じて信仰をした人たちと変わりない。
そういう人が己の愚かさや低劣に気づかず、発言しているのですね。




そういうことでこの章は終わりにします。
次回からはまた違ったものを書きますね。それでは。

5chで最近投稿された阿含擁護者からみえる「傾向」

2018-06-16 04:44:14 | Weblog

ここ最近変な投稿ばかりしている人だけのレスが多かったのでネタも出しようが無くて遅筆に成っていた自分ですが、久々に阿含擁護なる側の方からの投稿が有りましたので言わせて貰うが如く、書かせてもらいます。


5chの「阿含スレ」を見てもらえばわかりますが、この方は運命のことにかなり執着している。
かく言う過去の私も信者でしたから、この方の言っていることや言いたいことの趣旨はわかります。


ですが、哀しいかな目が覚めてない故に「阿含宗の教えている内容が如何に間違っているか」が皆目わかってないのが丸見えです。
逆を言えば「判らないから擁護している」とも言えますが。


では、どこがどのように間違いかを見て行きましょう。



まずはその方の投稿は記事249より始まっています。
その後批判側の方との投稿を交わしておりますが、その中から言い分を見て行くと、最初はあの東海道新幹線の車内で殺傷事件を起こしたことに対して意見を発した方(記事248)に対し反論したことから始まっています。


でも、5chを良く見ている方や阿含宗の欺瞞いついてよく知っている人から見ると、この249さんの言っている内容の大半が間違っていることに気づきます。
尚且つ阿含宗の教学に疎いのもよく見て取れます。

それらについては批判側の方が反論している中で説いているのでここでは割愛しますが、自分が注目しているのは記事264、293にあるこの方の反論です。
本人は立派に意見を述べているのは判りますが、やはり全然「気がついていない」のが丸見えです。



引用すると長くなるので何ですが、引用しないと判らないので抜粋引用しながら解説して行きます。
全原文を確認したい方は5chで確認してください。


「確かに仏教には無いわな。
だから阿含がそれを説くのはおかしいという批判はできる。
ただ問題は、仏教に無いからといって悪因縁というものが本当に存在しないと言い切れるのかということだよ。
少なくとも占星術では横変死のような悪因縁を暗示する星が出て来る。
では何故そんな星が出て来るのだ?
それともこれ等は全部デタラメなのか。
古代のインド人や中国人が人を脅かして金儲けをするために考え出しだ作り話なのか。
それとも人には確かに運命というものが存在して、それを星という形で割り出すのが占星術というものなのか。
まあ両方考えられるわけだよ。
少なくとも占星術など全部デタラメだと言い切れる材料は批判側は持っていない。 」(途中まで)



これに対し、以降の投稿で批判側に反論と説明をされています。
つまりはこの方は全然阿含宗のインチキに気がついてない状態なのが良くわかります。

批判側の言うように仏教では無かろう。しかし、仏教に無いからと言って本当に悪因縁(なるもの)が無いとは言えないであろう、ということです。
つまりこの方は「仏教に有ろうが無かろうが、この世には運命と言うものがあってそれらの影響を受けるのは間違いなかろう。また存在するであろう」という趣旨のことを主張していますね。


シビアな面で見てゆけば、批判側の言うように「仏教では運命をどうのこうのとか考えないし言わない。またそれをどうするとも言わない」のが正解です。

つまりここを天照風に解説するならば


「本当の仏教では解脱が唯一。そしてその解脱とは凡夫が仏陀になって完全に悟りを得る漏尽解脱のことであって、ゆくゆくは涅槃へ入る人のことを言っていて、仏教の目標ややることはその「解脱を得るため」に様々な修行を行ってその存在になることです。
だからそれ以外の事項には本当に「ここまで無視するか」と言うくらい仏教では取り扱わない。むしろ「無駄」と言って切り捨てる傾向があります。

だから政治や経済もクソ食らえ。ひたすら煩悩を滅し仏教の目標である「解脱を得るため」にまっしぐらなんです。
その本当の内容を知った私は最初は「呆れ返った」ほどです。
(阿含宗の教学に脳が染まっていたからです)



だって阿含宗はもとより他の仏教教団やお経などで言っていることも皆ほとんど嘘っぱちであり無関係になっている状態です。
本当の仏教はシンプルであり奥深くあり、概要は簡単ながら実践は中々大変という代物だと言うのがわかったからです。
そして何よりもその本当の仏教を知ったら、本当に良く判別が付くようになりました。

どこに嘘があるかが浮き彫りになるんですよ。


だから阿含宗はもとより嘘をかなりついている教団が有ったとします。
そこで述べている内容が「本当の仏教の内容」と照らし合わせれば、嘘が浮かんでくるわけです。

今回の着目点では何が要か、というと「運命があるか否か」と言う点です。
これに対しお釈迦さまは


「そんなものは解脱に関係ない。解脱を得るためにひたすら精進し修行せよ」


こういうことです。これに対し


「いえ、お釈迦さま。そうは言っても実際この世にはいろんな運命の影響と言うものに晒されている人が大勢居ります。
そうなると如何にお釈迦さまが「運命などにかまけている暇は無い」と言われますが、そういっていられないのではないでしょうか?
むしろその運命とやらをどうにかしないと、修行の妨げになるとか悪い影響を及ぼしかねない。
実際、モッガーラナ尊者やお弟子さんにも、そういった運命による被害を受けた方も居られるではないですか。
これは重要なことではないかと思うのです」


このように言っているような塩梅だとしましょうか。これに対しお釈迦さまは


「私の話(説法)をちゃんと聞いているのか。私は今まで何と説いた。物の通りというものを最初に教えているではないか。

この世は・・・いや全てのものは「因果応報」によって成される。

どんな貴たるものも、貧するものも、どこの国のものも、また人間以外であってもこの因果応報の法則を免れられない。


善き行いをすれば善きものとなって自分に帰ってくる(返ってくる) 悪しき行いをすれば悪しきものとなって自分に返ってくる。
だから努めて「善き行いをしなさい」というのが私の教えであろう。


私が他の人間と違い「運命をことさら説かない・取り扱わない」のは「因果応報の法則」があるからなのだ。
そして仮に悪い運命を発生させる行為をしてしまったとしよう。


当然法則は絶対だから、その人が起こした悪しき報いは必ず訪れる。いつ、どこでどのようにとは示せないが、100%必ずその人に報いが出ることだけは絶対である。
また、悪業をどのように、如何にして相殺や減滅したいと思って色々しても、相殺や減滅はできない。だからそこが非常に厄介なのだ。


だからモッガーラナ尊者はそれが判っているから、甘んじて己の悪業を受けた。
彼ほどの修行を満了し、神通力も持っているのなら、何とかできたはずだ。

ところが私の言ったように、どこの誰も自分の悪業を消したり減らしたりすることができないのが真理なのだ。
仮にそういうもの(方法)があったら、示しているであろう。

またもしそういう方法があったとしても、それは法則上おかしいことになる。
如何に悪事を行っても、消したり減らしたりできるのなら、この世に秩序と言うものがないことになる。何でもありの世界になってしまうであろう。

むしろ「そういう方法が無い」のが当然であり自然なのである。
それが判っているから自分は最初から減滅や相殺の方法は無いぞ、と説いているではないか。
そして厳然としてあるのが「因果応報の法則」なのである。


過去に悪しき行いをしてその報いを受けたくないというのは、当事者として嫌だとは思う。
しかし、その行為をしたのは自分であり、他の誰でもない。誰かが悪事をしてそれを他人に擦り付けることはできない。身代わりも出来ない。
全てその人が行った行為が反映される。これが真理なのだ。



だから運命が良いのはその人が善い行いをしてその反映があるだけ。逆に運命が悪いのはその人が悪い行為をしてその反映があるだけである。
そこに誰も手出しが出来ないし、調整も何も出来ない。相殺・減滅・身代わり・・・とにかく何も出来ない。出来るのは「受けることだけ」である。



故に運命が善かろうが悪かろうが、それはその人が受ける問題であり、必ず受けなければいけないルートなのである。
仏法に依らずこの全世界・全宇宙にも因果応報を免れる法はないのだから、だから最初から


「善いことをせよ。悪いことをするな」と言っているのがそれである。だから運命なんたらにかまけている暇があったら、モッガーラナのように悪業の報いを受けても解脱できるように精進せよ。」





もしお釈迦さまが言われたのなら、こういう風に言われたかもしれませんね。




仏教で運命を論じない。またはほとんど取り上げないのは今言ったことだからです。
お釈迦さまだって運命ぐらいは当にご承知ですよ。


だけど運命たるものを知ってはいても、それをどうすることもできない。何も出来ないわけです。
だったら、そんなものはどうせ黙っていても来るのだから「捨て置け」と成るのは当然でないか。



また仮に過去世で悪業を積んでしまって、いよいよ現世でそれが「出そうだ」とする。自分の身に降りかかるとしても、どうせ逃げられない。
それを案じてどうするのか?です。


そして巷に有るような「何か失態をしてしまった」ための繕いはできるでしょう。お金で払うとか身を粉にして行いで繕うとか。

だけど、そういうレベルじゃないんですよ。運命と言うものは。




過去に人を殺して、それがいよいよ自分の身に降りかかる。さあ、過去にあんた人を殺したんだから、その償いをしてもらいますよ、と来てどうするか?

お金を沢山払います。何でもします。そういっても相手は「運命」だから通用しないわけです。




それに対し「大嘘」をついたのが「因縁解脱」なんですよ。

過去の悪業や貴方の持つ運命を改善できるぞ。そのように嘘をついた。




誰だって確かに「あんたを殺しますぞ」と言われて良い気分はしない。避けれるものなら避けたいでしょう。
だけど、そういうのがまかり通ったら、どんなことをしても消せるのだから、悪事のし放題でしょう?



またやられた方はそれで済むか?も、ある。





人によっては「まああんたに過去世で泣かされたが、その分をかなりのお金で帳消しにしてもいいよ」と言う人がいたとしても、お互いがその記憶が有りお金の支払いを以って納得がいくのならそれもいいでしょう。
しかし、実際問題としてその人たちが同じ時期や環境に生まれてきてそれを成せるのか?もある。



誰も彼もが輪廻してどこにどのように生まれるかも判らないのですよ。無理でしょう。




だったら因果が回る、というのが当然、となってくるんじゃないですか?




話を戻しますが、運命があるか否かなんてのは「ある」とみていいでしょうよ。お釈迦さまが説かないとしてもですよ。
だが、この世に「因果応報」の法則がある故に、その法則の通り物事は進んでゆくわけです。
そして良いことの反映ならいいが、悪いことの反映ならこれは由々しきである。

しかし、この法則は良いことや悪いことの区別や差別が無い故に、そのまま反映が出てしまうのと誰も調整が出来ないということ。
だからそこがネックなわけです。



この擁護者さんは阿含宗の言うとおり「因縁解脱が出来る」と騙されたままだからこのように物事がいえるのです。
本当に真実と本当の仏教の内容を知れば「運命があるんだ云々」なんて言えなくなる。

いや、百歩譲って運命があったとしてもそれを変えられないのなら、受けるしかないのではないか、に至るはずです。
だからこの人は「何も知らないまま」と言うのが丸判りなんです。





続けてゆきますとこの方の意見には


「桐山さんや信者たちの例だけで占星術そのものを否定するのには無理がある。
そこで悪因縁を説いて死者を侮辱しているぞ、どうだ許せんだろ?という様に人の感情に訴えて悪因縁を否定するしかないのだ。
兎に角批判側は悪因縁を潰さずにはいられない。
自分等の人生上の失敗が悪因縁という形で既に運命づけられていたなんて悔しくてやり切れないからだ。
その気持ちは分からんでもないが、現実を直視する勇気も持たなけばいけないぞ。 」


と言っているのですが、それが自分にリターンしているのもわかりますね。


特に最後の「その気持ちは分からんでもないが、現実を直視する勇気も持たなけばいけないぞ」は「この人に向けられた最適の言葉」ではないでしょうか。




阿含宗の欺瞞を知らないで反論しているのがよくわかる。現実を知らないで居るのは誰だ?それは貴方じゃないか。

阿含宗が如何に嘘をつき多くの人を騙している。特にその影響を受けているのが「信者さん」なわけです。
一番被害を受けているのが「信者さん」なんですよ。



そういうことも判らないで「運命がどうのこうの」
貴方は何を学んで何を信じて生きているのか。




阿含宗は嘘を教えているんだよ、ということをちゃんと学ぶべきでしょうが。
そして本当にお釈迦さまは何を説いたかを改めて知るべきです。




そしてこの方からの文章には教祖などから教えられた「退会者は負け犬」というのが入っているのが取れる。
私も過去、教祖からそのように教えられたから、そのように辞めた人を見たんで、よくわかります。


だが、本当に真実を知ったから辞めたのが批判側なんですけどね。
阿含宗は金がかかるから、とか辛いから辞めたのではない。嘘をつきまくっていて騙されたのを自覚したからです。
偽仏教をやるくらいなら、最初から講じないって。



確かに私も物知らずがゆえに騙されましたよ。
だけど、ちゃんと真実がわかったら在籍などするものか。


宗教は遊びじゃないんですよ。





悪い運命を無くせる、または変えれるというのと完璧な先祖供養ができるというから身銭を切って年月を費やして信仰に励んだのです。
あんな面倒くさい勤行も、遠い遠方にある道場にも通って本当に真面目に信仰を行っていた。



ところがその全部に近い内容が「嘘だらけ」と知ったら、貴方はそれでも阿含の信仰をできるか?です。
悪いが私は「できない」



掲示板に出てきて物を言うのはいいでしょう。しかし、相手の言っていることをもう少し学ぶべきです。


尚且つ5ch(及び2ch)の過去ログも私のサイト(agama考察室)も、このブログも読んでないのでしょう?
あまりにも無知すぎて、ヒザがカクっとしますよ。




もう少し勉強してから物を言って御覧なさい。
そのように感じました。



あと阿含宗の嘘は大分解明されています。それらも勉強が必要でしょう。
本当の仏教の内容と阿含宗の内容との整合性を確かめる。
また阿含宗の嘘と言うものを認識する。


そのためにはこのブログかagama考察室が一番早く出来ます。



ぜひ、早く真実と現実と言うものをみて目を覚まされることをお奨めします。



今日はここまで。

ある方の意見に答える ー 阿含宗批判について

2018-05-09 04:25:38 | Weblog
先般ある方からご意見がありましたので、お答えすることに致します。

その方の意見とはおおよそこういうような内容です。

「阿含宗の批判を何故するのでしょうか。私も被害者でしたが、阿含宗は阿含宗であり桐山さんは桐山さんだと思います。
霊も居て色々有るのですから批判されない方がいいと思います。本など沢山有りますからそれらを読んでみるといいと思います」


どうもこの方は私が阿含宗の批判をしているのが良く映ってないようですね。
その辺りはお察しいたします。

しかし、阿含宗とはどういうところなのか。また桐山氏はどういう人物でどのようなことをされたのかをわかれば、批判する人間の意図もわかるかとは思うのですが・・・。



気になるのは数点あるので見てゆきましょう。
まず1つは「私も被害者でした」とあること。


被害者と言うのですから想像するに宗教詐欺にあった、と言う自覚、もしくは何らかの損失や嫌な思いをした、と受け取っていいと思います。ですが、そういいながら「批判するのはどうか」と言う意見です。



確かに世の中には人や団体から嫌な目に合わされ被害を受けた、と言う方も多く居ります。(阿含宗でなくても)
そういう中で「被害に遭ったことを根に持って恨み言や批判をするべからず」と無言で通す方もいらっしゃいます。

おそらく想像ですが、この方は私がそのような姿勢であればいい、批判をしないほうがいいという助言であると思います。




批判をしている私ですが、これが例えば実際例ですが生きてゆく上で他人様など自分以外の人や対象物から嫌な目に合わされて嫌な思いをしたことはザラです。損害も受けたこともあります。

ですが、そのことに対して全部根に持ち、批判したり糾弾したことは全体の3割ほどであって残りの7割は「ダンマリ」です。つまり、何でもかんでも批判したり責めたりしていないということですね。



一方、そういう輩ながらも阿含宗の批判は物凄く行っている。
それこそ「仇討ちでもしているが如く執拗に批判し責めている」と言う風に映るでしょう。


こちらはそうは思ってないのですが、外部から見るとそのように見える・映っているかもしれませんね。




私が何で批判をするかは、これらの理由に拠るからしているのです。


1)桐山氏のやっていた(きた)ことの良くない点が多すぎるため批判している
2)桐山氏のやっていた(きた)ことの事項が宗教詐欺であり、その巣窟が「阿含宗」であるゆえに阿含宗批判をしている
3)世の中には黙っていれば被害が拡大する、または継続する恐れがあるのでそれを防ぐ、もしくは阻止するために批判をしている
4)かつての自分がそうだったように、阿含宗の欺瞞を知らないが故に騙された。未だ自分と同じように騙されている人に気付きをして貰うため、または機会を得れるために日々批判活動を継続している


大きなものを上げればこれらが自分が主たる批判をする原因であるわけです。



それこそ批判などしないに限るのは私もわかります。
そんなことに時間を費やすのではなく、自分の人生に100%力を注ぐ方にしたほうがラクだし有意義と言うものです。

尚且つ桐山氏は亡くなりました。
私は桐山氏が亡くなれば批判もひと段落であり、しなくて済むかなと思っていました。


ところが残った後釜は「桐山氏が死んだから阿含宗は終わり」とすれば批判しなくて済んだのですが、継続をされた。

つまり桐山氏が死んでも阿含宗は継続できるわけですから、継続する方向に動いた。
そうなると桐山氏はこの世に居なくても後釜の人間たちが相変わらずの「宗教詐欺」を続けてしまうわけですね。



そうなったら過去の自分のように騙されて嫌な思いをする人が増えるわけです。
そういう人は個人的観点から言えばある人が言うように「騙される方が悪いんだよ」とでもいうのでしょうか?

自分は過去騙されたが、愚かだったゆえ騙された、自分が悪いから全て自分の責任だ。阿含宗は悪くない。
そのように言うのでしょうか?



私はそれは違うと思います。




確かに自分の過失を疎かにして相手ばかりを責められはしません。自分にも過失の部分はある。
それは仏教の正しい知識が無いために桐山氏の嘘に騙されて入信した。しかも長年です。
そしてその嘘を信じてお金も物も労力も縁者も貢いでしまったわけです。

これは自分の過失です。


しかし騙した方の過失は無いのでしょうか?
それこそこの世が全て「自己責任」であったなら、騙した方は裁かれず無罪放免となるのですが、それでいいのでしょうか?

そんな馬鹿な話は無いですよね?



ならば悪いことを悪い。またどのように悪いのか。その内容は?と示すのはなんら悪いことでもないはずです。
そういうことを言う、示す、列記するのは総じて「批判」というのです。

自分が愚かだったから騙された。だから皆さんも気をつけてください。そして桐山氏のやっていること。阿含宗の内容はこのようですよ、と言うのは何も問題は無いはずです。

ですが、人間の感情としては悪口に値する言葉や内容は批判を超えて「罵詈雑言」に聞こえて感じてしまう。
私はそのように把握しています。



5chを見てみるとわかりますが、批判側の物言いは本当に冷静で精細です。
桐山氏を馬鹿にしたり阿含宗をクソミソに言っていません。



どのように間違っているか、何が悪いかを述べているのに集中しています。
私は批判する上で行うべき当然のスタイルであると見ています。またお手本であると思います。

信者だったときはそういうこともわかってませんでしたけどね。



尚且つ私は桐山氏が亡くなってからは批判の頻度が減っています。
これは私の考えに拠るものですが、5chにはまずほとんど投稿はされません。

やっているのはこのブログとASCで「助けて」と来た方の対応だけです。
ASCはほとんど人が来ませんので、ブログでの発言・投稿だけとなります。
そしてこのブログは毎日更新、というわけでは有りません。
見てみればわかりますが多くて月に2・3度、下手すれば用事などで2・3ヶ月に一度の投稿のときもあります。

つまり数年前までの掲示板に投稿していたときと比べ、かなり投稿が激減しているのがわかります。



だから私の批判投稿は昔のものが多く、ネットに多数残っているのは過去の投稿、と言うことになります。
そして現在行っている投稿は数が非常に少なく、また掲示板と違って書き方も変えている。

出来るだけわかりやすく、また自分の見地がメインですが、掲示板とは違った味や方向性で阿含宗と桐山氏を批判している有様です。



だから私の動向を見ていれば、なるほど、と思う節がいくつもあるのが見て取れるかと思いますが、いかがでしょうか?




そして私が批判する理由の中の1)と2)はある種セットなのがわかるかと思います。


つまり、桐山靖雄=阿含宗であり、阿含宗=桐山靖雄なんですよね。
これらは切り離して語ることは出来ません。


なぜなら桐山氏は宗教詐欺をしたくて一宗を立てた。最初は「皇大治教」を始めたが芳しくないので「観音慈恵会」にしたが、折を見て「阿含宗」に。

つまり名称がどうであれ一宗を立ててそれを発展させた、と言うのはわかりますよね。


で、中身を見てみると「皇大治教」はさほど続けたものではないので、「観音慈恵会」から見ますが、この「観音慈恵会」から阿含宗になったけれども内容はさほど変わっていません。

そしてその「観音慈恵会」からの内容をみてみると、やはり宗教詐欺の内容が網羅されています。
先に言ったように「阿含宗」の宗の看板が変えられたとしても内容はほとんど同じですから、批判の対象となります。

また教団があるからこそ桐山氏が存在するのであって、桐山氏が実際教祖でしたから切り離せるはずなど無い。



それが「批判は桐山氏だけに留め、阿含宗批判はすべきではない」というのは「指摘の的外れ」と言うしかないのです。



それこそ私からすれば「阿含宗の批判はしないで桐山氏だけの批判をしろ」といったら、逆に「何で?」と言いたくなります。



それこそ先に言ったように「騙される人が悪くて騙す方は悪くない」の考えに近いものがあります。



阿含宗を作ったのは桐山氏です。また亡くなるまで教祖であり活動していたのも桐山氏でした。
教祖と言うことは教団が活動する場所であり、存在する(した)場所でも有ります。

これを切り離してというのはどこか思考回路がおかしいと言うしかない。




わかりづらいと思うので無理やり例えると、先般某アイドルの方が酒のことで事件を起こした。
どうも元来酒癖が悪かったようで、それがとうとう表沙汰になるほどのことになった。



それに対し、コメントする方の中には


「酒が悪いんではなくて、悪いのは本人の自覚・性格だ」というのがありましたが、それはその通りだと思います。



しかし、阿含宗と桐山氏をこれになぞらえると


「阿含宗が悪いのではない。桐山氏が悪い」となるでしょうね。



ですが、果たしてそうか? またはそれで済むか?と言いたいのですね。




某タレントの場合は切り離して考えることが出来ますが、阿含宗と桐山氏の場合は「そうはいかない」
それは桐山氏の一生を見て行き、阿含宗が建てられる経緯や実際の稼動を見ればわかることです。



また百歩譲って切り離したとしましょう。
ならば、桐山氏が亡くなった今、ちゃんと正しい教義に変えるべきではないですか?

桐山氏が悪くて阿含宗が正しいのなら、何で変えないのか。



桐山氏亡き後の阿含宗は、変えるどころか桐山氏の全てをベースに置き継続運営しているではないですか。
後釜の人たちは「正しい仏教に内容を変える」なんてのは眼中に無く、桐山氏が行った「詐欺行為」「間違った内容」をそのまま続けている有様です。



この様相がわかってて「阿含宗は悪くない。批判すべきではない」とは何事か、と言いたいほどです。



だから助言と言うか提言をされたこの方の気持ちが私はある程度わかりながらも、理解不能のほうが圧倒的に多いですね。
何を根拠に於いて言っているのか、考えているのか、と言う感じです。




その表れとしてこういうことも言ってますよね。



「霊も居て色々有るのですから批判されない方がいいと思います。本など沢山有りますからそれらを読んでみるといいと思います」



この「霊もいて」とありますが、どういう霊でしょうか?
アナタはちゃんと霊視が出来るのでしょうか?見てきたのでしょうか?


また本など、と言いますが私は昭和の頃から在籍した人間であり、桐山氏の本を沢山読み、買って入信した人間です。
本などは山ほど有ります。またpdfでも所持しているので、持ってないものはほとんど無いほど所持・網羅している。


そしてその桐山氏の著書の中身はほとんど嘘と妄想(想像)と他者のパクリで構成されています。
そういうものが何の役に立つでしょうか?



結局、この方は「被害に遭ったことがあります」ということを言っているが、生易しいんですよ。
どの程度の被害だったか、またそれによりどれだけ痛い目にあったか。



私の場合は他の信者さんよりは金額が少なくて済んだが、長年居ただけあってやはりダメージはそれ相当にあります。
だから他者と比べれば軽いだろうが、個人的には相当な金額と痛手です。



それこそ詐欺師に何で貢がなければいけないか、です。
自分の家族や惚れた女に貢いだ、ならわかりますが、赤の他人である詐欺師に何で一円でも貢がなければいけないのか。


そして一番嫌だったのは「何の効果も無いものを長年やらされてきた」ことです。
効果があり意義があったら貢いだ金は返さなくてもいいし、後悔も無い。



私は先祖供養をしたくて阿含宗に入ったのです。完全な供養ができるぞ。そのように言っていた。
だから桐山氏の言い分を信じて慣れない宗教の門を叩き、以後供養に励んだ。

自分が儲かるためとか利益するためではなかったのです。




それは全部嘘とわかったら何でいる必要がありますか。だから辞めた。
そして憤りはMAXです。許すべきではないと思った。



だが、自分の非を理解しながらですから、訴訟などはしなかった。
そしてやれることと言えば「批判活動」であった。


自分と同じ哀しい目に遭う人を少なくする。新しく入信される人がいたならば「気をつけなさい」と勧告する。
未だ目が覚めない信者さんらには「早く目を覚ましなさいよ」と呼びかける。
退会したいと悩む人には相談相手になってあげる。


この行為や活動に何か問題が有るのでしょうか?




私が先祖供養をしたいと思ったのは自分の考えです。
そして阿含宗の欺瞞を知って退会したのも自分です。

尚且つ退会後、批判活動を始めたのも自分です。
誰かに頼まれたわけではない。



だから自分のやっていることは全て自己責任です。
そしてその根底にはゆるぎないものがある。



自分が止める、または止め時と思ったら行動はやめるでしょう。
そうでもない限りは細々でも活動はやめません。




この提言を下さった方には提言は提言として受け止めますが、同意はしません。
それらの理由は今日述べた事項であります。



ですからその提言主さんはご自身の考えに基づき、批判されない生き方でいけばいい。
私は私の考えで進みます。



そういうことでご理解をいただければ幸いです。





宗教による金銭苦と自殺に考える

2018-04-23 04:33:59 | Weblog
皆様、お元気でしたでしょうか。久しぶりの投稿であります。
私も風邪をひいたり、職場も人が足らず繁忙に追われようやくひと段落付くことが最近できてきました。

今回は5chで見かけた記事を元に、思うところを書いて見ます。



その記事によれば、ある教団の布施の強要により在家総代の方がノルマを苦に「飛び降り自殺された」と。
お金がない。ノルマ達成出来ない。そう悩んだ末の自殺だった、と記事にありましたが、本当に気の毒なことです。



しかし私はここで1つのことを提案したいと思います。
それは「苦しいのはわかるが、苦しみ=自殺で解決しようと思わないで欲しい」ということです。



人間確かに困窮極まれば「死にたくなる」のはあるかと思います。
しかし、そこを知っていて私は言います。



「死ぬ前にやれることや気が付くことを勧める」



これをもっとぶっちゃけた言い方をすれば



「キレてしまってもいい。変なものから抜け出せば良い」ということです。





例えばこの自殺された方の悩みは


「幸せな家庭を築きたい。子供を一人でいいから産みたい。お金がない。ノルマ達成出来ない。」でした。
(5chにあった投稿による)


しかし、その悩みの大本を考えてみれば4つ有る悩みのうちの前者2つはじっくり時間を掛けて対処してゆくしかないが、後者2つは「宗教・教団によるもの」であり、解決が付きやすいものです。


それは何かと言うと



「そんな金ばかり要求するような教団を辞める。宗教を辞めてしまえば解決できる」からです。




確かに生きてゆく上で悩みは付き物です。その悩み解決するには様々な方法がありますが、その中に「宗教で解決する」というのもあります。

ですが、これが宗教で解決できればいいのですが、解決できないでダラダラ、または宗教や教団の餌食になっているというのも多々あるのです。

そしてこの自殺された方は、どうやらその傾向下にあったと予測されます。




私は阿含宗に居たことから阿含宗に特化して物を言っておりますので、阿含宗に沿って言いますと阿含宗でも似たような環境の人や状況の人は居りました。

自殺云々はあったのは自分は見ていませんが、過酷な環境にあったり追い詰められれば阿含宗でも同様なことはありえたかも知れません。



特に私が言いたいのは阿含宗で言えば教団が執拗に迫る、というのは見ていません。
有るとすれば「信者側が真面目すぎて、尚且つ視界が狭くなっていて簡単に回避判断することができなくなっている」とみます。



供養にお金が掛かる。だけど供養しなければ不幸に陥る。悩みの解決に頓挫してしまう。または過去からの蓄積を続けているのでそれを止める恐怖や違和感、喪失感を得たくないので信仰を行うというのが多かったですね。

つまり強迫観念に縛られたり、自分で自分を追い詰めたり、自己満足をしている感じが阿含宗では多いですね。



ですが、いづれにしても結果は同じです。

いつも慢性的なお金不足と尽きることの無い不満足感。無限ループの供養地獄・布施。こういうものに際悩まされているのは他の教団でも阿含宗でも同じです。そこを私は言うのです。


そしてその原因は?というと、様々ですがこれを回避するには一番いいのが先に言った

「いっそのことキレて辞めちまった方が手っ取り早い」のです。

お金が無いなら「出せない」でいい。また宗教内や教団内の何らかの役職についていたとしても、それを辞めてしまえば追われないで済むわけです。




こと阿含宗で言えば自分も含めていつも信者さんの大半は「お金がない」と言う悩みが多くありました。



阿含宗では財を得るための祈願や大黒天様を祀って功徳を得よう、と言うのをやっていますが、ほとんど効果はありません。
例え詐欺宗教でもそういうもので効果が得られてお金が入るのであれば、大きな支払いでも対応できたと思います。


ところが実際はエセ宗教ですから入るものは限られます。そうなると掛かるものは掛かる。
それをまともに支払えば所持金が少なくなる、又は低所得者には支払いさえまともに払えないとなるのは当然です。



例えば物を買ってそのための支払いで苦労するならわかります。
物を買ったの自分だし、借金が嫌なら物を買わなければいいだけですから。



ところが宗教をやってお金が掛かるのであれば、宗教をやらなければいいだけのことです。
こんな単純なことが宗教だと途端に「わからなくなる」のですね。




だからその阿含宗ではない教団の方が自殺されたのは本当に痛ましいことですが、死ぬ前に


「あ、私、もうこの宗教辞めよう」と考え実行されたなら、死なないで済んだのでは?と思うのです。


だって辞めたらもう「お金、お金」といわれないで済むからです。





それを変に受け止めて「あー、もう駄目だ」といった先が「あの世」です。
死んで花実が咲くものか、と言う言葉がありますが、その方は死んで何かメリットが有りましたでしょうか?




私は損失しか無かった気がします。





そんな馬鹿げたものに固執するのではなく、いっそのことブチ切れる。
そして悪徳宗教から抜け出せばいいのです。




ましてや人を育てて成長させるべきの宗教が人を殺してどうなります?
そんなものは宗教ではない。ましてや教団もそのように指導している自体、間違っているし何様だと思う。




でも、教団にうつつを向かして翻弄されていたのは当人です。
教団も悪いが、当人も悪いと私は見ます。





何で早く間違いに気づかなかったか。何で詐欺宗教だとわからなかったか。
何で自分が苦しんでいる原因は何なのかに気が付かなかったのか。

それが非常に残念で成りません。




自分を追い詰めて追い詰めて、その果てに疲弊し命を尽きさせてしまう。
そんな非業な末路を歩むくらいなら、私は疲弊の元を断ってやろうと考えます。





はるか昔にこういう事件がありました。

あるサラリーマンが300万円の借金を苦に自殺した、という事件です。
かなり前の事件ですが、本当にあった事件です。



私はそのニュースを見て非情でしたがこう思った。




「300万で死ぬくらいならもっと借金をしている人はどうする」




また、こうも思いました。



300万なら時間を掛ければ払えない金額ではない。
それこそ額が何千万とか億単位であったなら自殺もわかるが、何でたかが300万で死ぬのか。


そこそこの高級車でも500万以上はします。
その車以下の金額を背負ったというだけで、自殺するのはナンセンスだ。そのように思った。




それこそ奥様に打ち明けて一緒に成って働く、そして返済すればいいではないか。
又は親戚や縁者に借りて、ゆっくり返せばいいのではないか。
そういう方法だって有った筈です。



それを「ああ、俺は借金をしてしまった。死のう」と判断・行動を実際にやってしまった。
ましてその方にはそこそこの収入があったにもかかわらず、です。





だから全ての自殺をする人が、とは言いませんが、どうも安易過ぎる。
死ねば済むと思っている。



確かに死ぬよりも生きていく方が大変だし苦労もある。
だが楽をしたいから死ぬのか?と私は思う。



そして死ぬだけの覚悟と勇気が有るのであれば、生きて返せないはずがない。
そのように私は思う。




話は戻りますが、問題の核心を見なければいけない。
アナタは何が原因で苦しんでいるのか。



それは宗教だったら「辞めてしまえばいい」のです。
借金を作るよりも簡単な解決方法です。



まあ、稀に宗教のために借金をしている人も居るようですが・・・。




でも、そういう人でない限りは宗教を辞めれば金がない悩みからは解決・解放されます。
こんな小学生か中学生でもわかるような方法が浮かばない、わからないのは「視野が狭いから」です。




辞めてしまえば一発です。そして二度と戻らなければいい。それだけのことです。





せっかくの命を無駄にしてしまった。本当に残念なことです。
そしてそういう煽りをする宗教や教団があるんだということは、実際有るわけです。




もしもアナタが宗教が原因で金銭苦に遭っていてそこから逃れるためには「辞める」のが一番です。





もちろんしがらみがあってそれが出来ない、と言う人も居ます。
そういう人は別途対策が必要ですが、そうでなく独り身や自分で処置ができる人は今すぐにでも辞めるべきです。




今日は5chにあった投稿を元に私が言いたかったことを書かせていただきました。
今日はこれまで。また、次回。

死者の加護を願う傾向

2018-01-17 03:51:32 | Weblog


さて、色々話したいことはありまして昨年から下書きはしてあるものの、投稿を躊躇していました。
それはその出す話がピンと来ないと、ブログに出すのを考えてしまうんですね。

これは今まで何度も有ったことですが、しばらく間が空いたのはそのせいでもあります。
そしてようやく「これを出そう」と成ったのが今回の記事です。


さて、タイトルはどういうことか、ですがこれはこういうことから派生したものです。


例えば自分の家族や知り合いが何かで亡くなったとします。するとそこでよく出てくる言葉が


「あの世で私たちを見守っていてください」


というやつです。



この言葉はよく聞く言葉で、且つ使われる言葉でもあります。
また過去の私もこの言葉に違和感を覚えないでいました。



ですが、ここ数年前から「凄い違和感」を覚えたのです。




それは「死んだ人が生きている人の都合によく合わせられるものだろうか」と言うことから始まりました。



確かに生きている人からすれば生きていた人が生前いろいろ助けてくれたりなどしてくれた存在なので、死してもそれが続くようにと願うのは気持ち的にはわかります。

だが、それが果たして叶うのか?ということです。




またこういうのもあります。よく「ご先祖様が見ている」などと言うのを言う人がいますが、その確証が必ず有るのか。
有るとしたらそれがいつも無いのは何故なのか、と言う疑問です。




死んだ方が死してあの世に行っても私たちを守ってくれるというのはとてもありがたいことでは有ります。
ですが、それがどのようにどのくらい得れるのか。または必ずなのか、というのはわからないことです。


そして死んだ方には生きている人をそんなに守る義務があるのか、ということです。





私にはそれらの言葉はどうも生きている人の都合に寄った考えだなあと思えるのです。





守ってくれるとしたら、では何故守ってもらえたというときと守ってもらえなかったというときが存在するのか。
その差はどこから生じるのか。何でも守ってもらえないときが発生するのか、なのです。



これに対して明確に答えれる人は居ないですね。




それよりも亡くなった方にそういう期待や言葉を発するのではなく、生きていたときは大変であったから「どうぞお眠りください」でいいのではないか。
私たちを守る云々ではなく、死者に安穏を与えることが出来ないのか、と思うのです。


もっと悪い言い方をすれば「死んだ人にあの世へ行っても私たちを守れ」とでも言いたいのか。そこまで依存したいのか、と言うことです。
何で「自分たちは頑張りますから、安心してお眠りください」といえないのか、なのです。




もちろんそのように言う方も居ます。ですが、その逆の「私たちをお守りください」というのをどうか、と言っているのです。
そしてこれが高じると「居もしない神仏に加護をねだる方向」に行ってしまうことです。
つまり詐欺宗教に騙される傾向に入ってしまうぞ、ということです。




私の過去の経験ですが詐欺宗教に騙されない人にはある種の特徴があります。
それは「端から宗教を信じていない・充てにしない人」がその特徴だといえます。



私が過去、阿含宗の欺瞞を知らない時期ですが知り合いの人を阿含宗に導こうと動いたことが何度かあります。
そこで応じなかった人はまずこの傾向があったことです。

当時は確かに「頑固で随分宗教を嫌うんだな」と思いましたが、今になってよくわかります。
つまり依存がない分、宗教はもちろん実際リアルな人にも「頼らない」のがあります。

要は「自分だけを信じ何かを充てにしない」という人ほど宗教の毒牙にはまらない、というのを見せられたわけです。
だから私は当時逆のパターンを通じて「学ばされていた」わけですね。




依存しないのですから如何においしい言葉や内容を言われても「いや、それは自分には不要だから」といって悉く断る。
これが詐欺宗教に騙されない一番の方法です。



だから天邪鬼ではないですが、もしも「亡くなった方が守ってくれる云々」と言うのを言ったらそういう人たちは皆

「いや、自分のことは自分でするから別に守ってもらわなくていい」といいますね。


またお陰話をしても



「いや、欲しいものは自分で働いて買うから要らないし、祈願も祈念も供養も不要だから」といわれます。



今思えばこれが正解なんですね。





ヘタに護摩木に願い事を書いて願えば願いが叶いますよ、とか、うちの神仏は奇跡を起こすんですよ、なんてのに釣られない。
自分だけを信じ、又は自分が信じるものを信じるという強い心があれば、別に宗教なんて要らないんですよね。
だからそのように全然なびかないんです。




だからその人は死んだ人が死して生きている人を守る存在になるとかも考えてないことでしょうね。
もしもそういうのをいっても信じないかもしれません。



だから巷で使われる「耳さわりのいい言葉」や「聞きなれている言葉」に同調しすぎるとヤバイ、と言うことがある。
それは相手とのことで一時的に頷いたり同意はしても、本当に信じてしまっては危険である。私はそのように思います。



死んで人が神とかになると言うのは「神道系」でよく見られる概念です。


しかしそれはその宗教の中だけの概念であって、必ずとはいえない。
また宗旨変えをしたらそれが無くなるとすれば、これはますます「どういうことなのか」ともなる。



お釈迦さまは人が死んだ後、生きている人を守るだのそういうことは一切言っていません。
別な宗教がそういうことを言っていたのを真に受けたり、リップサービスだったものを信じている。
または生きている側がそう願うことで安心を得たいから信じるのが大半です。


良く考えれば死んだ人が守るなんてのは、どこにあるかなんてわからないのです。
それよりもそういうのを充てにせず、自分の力や自分の考えで動く。
それが当たり前であり、当然なのです。



ぜひ、皆さんが詐欺宗教の魔の手から一人でも離れることを祈る次第です。


謹賀新年2018

2018-01-02 05:52:19 | Weblog
皆様、明けましておめでとうございます。
2018年がスタートしました。

昨年も色々と事件や災害があった年でしたが、今年はぜひ安穏に過ごせる年であったら、と思います。

さて、阿含宗も開祖が亡くなってから二年目を迎える年です。
今年はどんなキテレツなことをしでかすのでしょうか。

そう言う一方、私たちは一人でも多く本当の仏教の内容を知って詐欺手法に遭わない。
または餌食になっている人は、一日でも早くそこから抜け出して本来ある自由を手に入れてほしい。
そのように思います。

今年もよろしくお願いいたします。

占いに孕む~ 追記

2017-12-22 17:55:30 | Weblog
占いの章を終えて別なものに移る予定でしたが、その前に1つだけ触れておきたいものがありますので、それを先に行いたいと思います。

それは占いの章でも出てきたことで近い内容ですが、それが占いではない場合もあることがあるのです。

どういうことなのか見てゆきましょう。



まず前の章で言ったのは「占いでこのように出ている。またはその可能性がある」ということで、その原因は「霊障、悪因縁」などが原因ですねといって宗教に誘導するやり方だ、ということです。
つまり占いを利用して宗教に入れさせる、といった方法です。



実はこれが占いを用いなくてもできるしやってもいる、ということがあります。



阿含宗では相談をする前に住所、氏名、年齢、生年月日や相談内容などの概要をお聞きします。
そして相談を開始します。まあ、これはどこでもある事項ですね。


ただ、それが「占いを始めて占いを以っての示唆」でやるのか、それとも「占いを使わず、事項らを聞いての判断で示唆をする」ということです。



多くは占いから始まるパターンが多いので、自分もすっかり忘れていましたが、実が厳密に言えば占いを用いないで相談者の相談内容を聞いて判断して示唆をする時もあるのです。



そういうと「大した差はないじゃない?」とか「必ず占いで何でも、でなくてもそれは有りじゃない?」と思われる方もいると思います。その通りです。


ですが、できれば相談者が占いが好きで占いによる結果の示唆の方が示唆を信じてもらう上で効果的なのはあります。
なので、やはり相談者を自分の教団に引き込む。または信じ込ませるためには活用した方がいいのはあるわけです。



では何で「占いを用いないで示唆をする場合があるのか」です。


それは理由は2つあります。


1つは相手が「占いを嫌っている場合」もあるからです。いきなり占いから始めたら拒否される、または嫌悪される場合もあります。
だからそういったのを回避するためもありますね。

もう1つが一番多いのですが、これが圧倒的理由でしょう。それは

「占いの資格を持っていない人が占いを用いて示唆をしてはいけない」という規則が阿含宗にはあるのです。

だから占いを以って示唆をする人や場合があるのと占いを無しで示唆をする場合があるのがそこですね。



でも、私はこの違いを言いたくて今回記事を書いたわけではありません。



では何を言いたくて書いたのか、です。




それは「占いを用いようが用いなかろうが、結局は相談者を宗教に招き入れるのが目的」なわけですから、途中の示唆経過は「同じような経緯を辿るのです」ということです。



実際的に説明してみましょう。



■占いを用いた場合の例


相談者が相談をしてその結果を見るために占いを使います。
そしてその出た結果を「占いではこう出ています」という感じで説明を進めます。

その結果は人によって違うのですが、大抵「霊障、悪因縁」のことを出してそれが原因であることを述べます。
そしてそれを信じ込ませるわけです。

その結果、そういったものは宗教の力でしか治せない。改善できないと言います。

ですが一口に宗教と言っても阿含宗以外にも宗教はあるわけです。


ただ、そのたくさんあるどの宗教でもいいということではなく、阿含宗にしかないものを打ち出す。
尚且つその霊障を解いて悪因縁から解脱できるということを説明するわけです。



つまり問題解決は「阿含宗でしかできない」ということを信じ込ませるわけです。
その結果相談者が納得してくれて入信してくれれば、はい、信者獲得となるわけです。


■占いを用いない場合の例



相談者が相談をするまでは、同じです。スタートは皆同じです。


ただ違うのはここからで、占いを用いない場合はまず相談者の相談を良く聞きます。

そしておもむろに心当たりがあるであろう事項らを述べてゆきます。



例えば最近とか今から近い時期で身内や縁者に不幸な亡くなり方をした方がいないか。
本人が頑張っているが、中々改善が無く不幸が続いているなどのことらを該当要素を聞いてきます。



すると大抵の悩み事はそういうものに該当したりしますから、話的にはなんとなく辻褄があうわけです。


そこで、因縁の話や先祖が成仏してない可能性があるのでそれが影響している模様だと説明するのです。


中にはそういった事項に反発する人がいますが、多くは「そうかもなあ」と納得しがちな場合が多い。


あと遺伝ではないが、問題を抱えている人の多くは親とか先祖で似たような傾向の人生を歩んでいる場合があったりするものです。
だからその辺りを突いてやれば「何でこの人はこういうことがわかるのか」と信じてしまいます。


あとはそういった説明を色々として阿含宗側はそういったものに対応できる教団ですよ。
悪因縁や霊障といったものから離れることができる。解決できるものを持っている教団なのですよ、という旨を話す。


するとそれを信じて応じたら「はい、入信」となるわけです。




どうでしょう?両者を見ると若干の違いはあるものの、基本的な伏線は外れておらず、結果は占いを用いようが用いまいが「ほぼ同じだ」というのがわかりますね。

これが私が言っていた「後々は同じくなる」というのがここです。



いづれにしても「阿含宗の持つ概念を植え付けて信じ込ませることが手口である」ということです。




私がいつも言うことですが、皆さんは宗教はもちろんのこと、本当の仏教の内容や阿含宗の中身。また欺瞞について知りません。
だから何かあって相談をした際に、その教団が言うことに対して「ここは違う」とか「嘘をついているな」ということが言えないしわからない。

せいぜいあったとしても「納得がいかない」もしくは「なんか変だな。胡散臭い気もする」ぐらいで終りです。



人間というのは悲しいもので、普段は何でもなくても困ったときは藁をもすがりたいものです。

そこに阿含宗でなくても何か優しい対応や相談に乗ってくれると、つい信じてしまいます。



だから大抵の人が騙されるのは「何か困ったことがあってそれが契機」な場合が圧倒的に多いのです。




だって困ってもいないし、悩みもない人が宗教の門をたたきますか?または相談に行きますか?



全くそういう人はいないとは言いませんが、まず99%ないのが現状です。

そして高確率で窓口を訪れるのは「何か困っている場合」が大半なのです。




確かに人間万事悩みもなく、平穏で暮らせるに越したことはない。
だが、人生というものは問題を抱えたり障害が生じたりする場合もあります。


そういった時に宗教の影響を受けることもあるのです。



一生宗教に縁が無い人も居ることでしょう。そういう人は本当に幸いですし理想です。

ですが、そうではない人も居るわけです。
悩みがあって相談をして、促されたから一生懸命宗教に励んでいる人もいるわけです。

何とかしたくて頑張っているわけです。




ところが宗教で問題が解決されるかどうかは、保証はないわけです。
特に病気面では中々解決は難しい面があります。



それに対し「わが教団はどんな問題にも全面的にバックアップします」ということを言う教団はゼロです。
何でか?そう言う教団があったら、皆問題を抱えた人の責任を取らねばならないし、教団自体がその人らを一生面倒見なければいけない。

そんな奇特な教団なんて、どの時代も聞いたことも見たこともありません。



それからわかるように完全に何でも解決ござい、のところはないということです。



また実際問題として、相談には乗るがそれが解決できなくても解決ができないのは「相談者の努力や講じ方が間違っているからだ」とやる教団が多いことです。

つまりはていのいい「いちゃもんをつけて責任逃れをする」ということです。




特に阿含宗は自分が昔いたからその辺りの言動はよく見ています。本当に酷いものです。




信者を食い物にし、搾取するだけ搾取して用が無ければ893のように因縁を吹っ掛ける。とんでももない教団です。

あまりにもうるさい場合は破門もされます。


そんなに気に食わなかったら出てゆけ、ですね。それをやられる。

まあ、そこまで行く人は稀ですが、破門は無くても間違いなくあれこれ言われて「何もなし」です。




こうなると騙される方が悪い、ともいえる所業になる。
だからそういった被害を蒙る前に、自分は警鐘を発して日々呼びかけているわけです。



物事の事象は霊障でもなく悪因縁でもない。また解決は宗教に依らなくてもできるものもあります。

病気なら病院や医学の力で対処すべきですし、諸問題も多くは自分の力かいろんな人のサポートで解決できる場合もある。


宗教に依存しているから騙されるのです。




どうか、私の提唱を皆さんが知って詐欺宗教の餌食にならないようにと願う次第です。

占いに孕む危険性 ③(終)

2017-12-19 15:35:44 | Weblog
では早速、前回の続きに参りましょう。


私が終わりころに言った内容は・・・もうこのブログを長年お読みの方はおわかりですよね?

といっても長年見てない方はわからないので、やはり解説をいたしましょう。



占いの結果に一喜一憂するのではなく、自分を信じて生きることをする。

このことはどこから来たのかというと、実は阿含宗の欺瞞を知らないで入信していた自分が2008年ころに本当の仏教を知るきっかけが生じた。
そこで阿含宗の欺瞞と本当の仏教を知ったわけですが、本当の仏教、つまりお釈迦様の言われた言葉の中にそういうものがあったのです。
それでそのような方向に自分を修正した、ということですね。



もちろん知ったからと言って即日修正ができたわけではありません。
時間をかけて修正し自分を変えてきたわけです。



思えば、自分が阿含宗が占いを用いることに違和感を覚えなかったのは「占いが好き」という考えと心があったからです。
もしも自分が生まれつき「占いが嫌い」であったなら、必ず違和感を覚え疑ってかかったでしょう。


あと本当の仏教を知ってわかった事実があります。
それはお釈迦様自体が「仏教では占いを禁止していた」という事項があったということです。



何でかというと今まで語ったことに理由があります。



占いは良しにつけ悪しにつけ、人にさまざまな景況を与えます。
また心身のコントロールができない人ほど、その影響を受けやすい。


仏教では何を修行するかというと「仏陀になって最終的には涅槃へ入ること」です。
そして仏陀になるためには「煩悩を無くす必要」があります。


その煩悩を消す・起きないようにするために死ぬまでその作業を行うわけですが、かなり大変な作業なわけです。
そして消す・起きないようにするのが目的ですから、生きている最中は死ぬまで煩悩が発生するような行動をしないわけです。


それが仏教の中に戒としてもあるわけです。禁止事項と言っても良い。
その禁止事項の中に「占い」が含まれていたんですね。




私は当時「うーん。お釈迦様もそこまで禁止していたのは知らなかったが、厳しすぎない?」と思いました。


それこそ五戒の中の「不飲酒」というのがありますが、これも個人的に「厳しくないか?」と思っています。


だけど酒にまつわる事項で色々トラブルが現在の世の中にも起きているし、過去の歴史でも世界中にやはりそういうのはある。
酒によることで間違いを犯したり、失敗・失態をしているなどがやはりあるわけです。


そうなると仏教としては禁止である、とするのは当然です。
尚且つ酒は飲まなくても「死なない」わけですからね。



煩悩を発生させたり間違いを起こすようなことをするものは、お釈迦様は前もって禁止事項としていたわけです。
だから占いは私が前に説明したように、良しにつけ悪しにつけ、問題を醸す場合がある。


だから「仏教的に駄目だから」というのが1つ。



他にはこういうのがあります。



占いには限界というのがあります。


これは私が経験したり調べた結果わかったことですし、実際やっている人もわかっている事項です。
つまり占いはどんなに良く当たる占いでも「必ず100%当たる、というものではない」ということです。


そうなると占いは完全でないゆえに、当てにできないともいえる。
また完全に当たるのならどんなに逆らっても駄目となり、占いはこの世を支配し絶対的な影響を与える脅威ともなる。


そんなバカな話はないものです。



また占いの限界を補うとしたら「宗教の介在になってくる」というのがあります。


どういうことか説明します。




例えばある人があまりにも運が悪く不幸続きなことが起きて相談した。

占いで見ると確かに運気の悪い時期に入っているのが見える(わかる)わけです。


そうなると「確かにあなたは運が悪いですね。良くないことばかり遭遇してますしね」と回答する。


ならば相談する人はそのことをどうにかできないか、と大抵は言ってきます。
そうですか、だけでは終わりません。



ところが占いでは「不幸の改善の示唆」は「ない」のです。



占いというものは運命の軌道や中身などを把握したり予見・網羅はします。
だが、解決する方法とかは無いのです。


あれ?占いってよく言うじゃない。
何々を持てば運気が改善とか、のやつ。

それは色だったり食べ物だったりアイテムだったりおまじないではないが、何かの行動をすることで良くなるとかを。




実はそれは占いの中には「ない」のです。
だが、実際的に改善策を言ったりする人がいるのですが、それは「その人らが考えて与えた示唆」なのです。



つまり占い自体には知ったり見たりするものは有るが、それ以上が無いんです。これが占いの限界でもあり、特性です。


だから占いをして悪い結果がわかったとする。するとそれに対すると答えはないから

「運が良くなるまで待つしかないですなあ」などで終わりです。



だが、これでは占いはある種残酷でもあり不完全すぎるわけです。
それを補うために過去の人たちはどうしたか?


運気を良くしたり改善できる方法を模索し、与えたわけです。





ところがこれは結局、行った結果効く場合もあれば効かない場合もあるわけです。
だから如何に欠点を補い、示唆をしても駄目な場合もある。

それは占いに無い事項ですし、欠点ですからそのようなのはある。
だが、放置できないから考えて色々挑むわけです。



そのことが講じた結果、宗教的な意味合いや要素を加えた人がいるのです。


それは私が考察した結果ですから、そのように言う人は少ないですが、現実的にそういうのがありますから嘘ではない。




先の例を用いるとこのようなことがあります。




ある人がどうも不幸続きである。占いで見てもらったらやはり占いでもその様相が出た。
で、その改善は、と言われ回答したのは、


「あなたの先祖に不幸な亡くなり方をした人がいて、その人が良くない影響を与えている」というわけです。



ね?良く聞くセリフでしょう?



または死んだ人を持ち出さないとしてもこういうのも言う人がいます。



「住んでいる土地が悪い」
「持っている物が悪い」
「方角が悪い」


その他もありますが、きりがないのでやめます。ですが、いろんなことを言ってそれらが悪い影響の原因だと。
特に阿含宗なんかは「悪因縁のせいだ」というわけです。


では、それをどうすればいいのか、というと占いだけの回答ですと「ない」で終わりです。
だって占いは人生の軌道を見るアイテムです。占うだけで解決策は出せないのが常ですから。


だから占いとは別なものを出す必要があるが、それで補うしか方法が無いのです。
そしてまじない的なもの、オカルト要素だったり宗教だったりするわけです。


それで完全に解決できなくても、方法の示唆をしないで終わりでは味気ない。
なので、そのようにするわけです。




またこれも考えられる。


宗教自体が占いを用いたとしたらどうか。


占いを利用して解決策をプラスすれば、自然にその宗教に導けるわけです。

実際、そういう教団は阿含宗以外にもありますね。



というか阿含宗は後発な教団ですから、阿含宗ではない別所が先に以前からそういうのを行っていた教団があるわけです。
それを阿含宗は真似たわけです。




私も占い師になろうとして励んだことがあります。
そして占いをしてさほど内容が深刻でない人はいいのですが、深刻な人に対して「しょうがないですな。あなたの人生はそうなのだから」とは言えない。

占いではそれまでなので言いようがなく困ったことがあります。


で、そこからが「宗教の出番」なのです。



阿含宗では先祖供養の他、悪因縁を切ることができる。それを行えば運が悪いのを改善できますよといえば、困っている人は応じたくなるのは必至です。



確かにそういっても「宗教かあ」といって応じない人もいます。
ですが、藁をも掴みたい人はやはり「応じる」ものです。



だから逆になるが、宗教を抜きにすると占いは非常に残酷です。頼りないともいえる。


運気が悪い、または運気が悪くないのに不幸が続く、などの相談には無力ですからね。




だから仮に宗教でなかったとしてもオカルト的なことを言ってやらせようとする。
または霊感を以って何かを示唆したり、などもある。

いづれにしても占いの限界を補う行為だというのはわかりますね。




だから、占い自体は私は色々あっても個人が考え好きになるのは構わないと思う。
ましてや仏教を本格的にやろうとか奉じるのでなければ、別に戒を守る必要もないし。



だが、問題なのは占いを以って人の心や人生に付け込んでくる。または悪用する輩がいることです。
それには注意すべきなのです。



へたに占ってやけに当たる。それが嵩じて何でも占い様様になる。
そこでいいことだらけなら良いが、運が悪くなったり不幸続きが出たらどうか?

占いで示唆されたことを信じて行ってしまう、従ってしまうではないかということです。




だから前に言った「良いことは信じるが、悪いことは信じない」は悪いが「生半可」なのです。
要は「悪いことを改善したくて従ってしまう。信じてしまう」のです。



そして悪いことを企むやつらの餌食になるわけです。






こと阿含宗で見てゆくと阿含宗は「原始仏教教団」であり、「お釈迦様の正しい教えを奉じ講じることのできる教団」です。

ですが、見てごらんなさい。お釈迦様が禁止した事項を「平気でやっている教団」です。これが正しい教団と言えますか?



というか随分矛盾している、支離滅裂な教団だな、となるでしょう。
それはそうです。本当の仏教教団なんてのは嘘で、詐欺宗教ですからね。
人を騙すのが目的ですから、嘘ばっかりなのです。



あと細かいことを言うと密教占星術というのは名称だけで中身は違います。
正しくは「九星気学」という占いです。つまり名称だけ立派な別物をあてがって中身は「別な占い」で往なしているのです。

尚且つ開祖の言った事項は方便だらけです。

例えば密教占星術では人の因縁がわかる、と言っていますが、そういうのはない。
人の運勢や運命の軌道を見るには別な占いが必要です。

それを用いてやっているのですから、公言したことは嘘っぱちになります。



また密教占星術というのは正しくは「宿耀占星術」であり、これは「宿耀」という生まれた人の該当する星の内容を調べ、把握する占いであります。
だからこれを以って「その人の因縁がわかる」というのも嘘です。


だからそれを一言で分かりやすくいうと

阿含宗開祖は人々を騙すにつき様々な嘘を網羅し継ぎはぎにして述べた、ということです。


世の人の多くは本当の仏教の内容も知らない。ましてや占いに於いても同様です。無知な人が多い。
だから如何様に嘘をついても「本当だ」と信じて従う人が多いわけです。

実際、それらが功を奏して過去に絶大な入信者を得たことがあります。

また現在に於いても最盛期には及ばないが、少人数でも人を騙しているのを継続中です。



そういう有様なのです。


だから総括して言うと



占いの種類も違う。名称で騙している。
占いの限界を宗教にて補っている。
尚且つお釈迦様が禁止した事項なのに、わざと使いやっている。
教団はおろか信者にまでやらせている・教えている有様です。



こう言う教団が「本当の仏教」とは冗談が過ぎます。



だからタイトルの「占いが孕む危険性」と題してやってきましたが、そういうことなのです。
占い自体は私は悪いものだとは思いません。ましてや一般人が好こうが嫌おうが、それは勝手だとさえ思う。

占いをやっている人だってそうです。
占いをする人全員が嘘をつき、詐欺を働いているなんて思わない。



ただ、世の中には阿含宗のように嘘をつき、騙しに走るところがある。
騙しの手口に占いを用いている。そういうところがあるんだ。



または個人的に占いをしても阿含宗に近いようなことをしている人もいるでしょう。
そういうのには本当に注意をし、騙されない。


そして一番いいのは占いなど当てにしなくても生きてゆける体制や環境、心が必要だということです。


占いはあくまで参考に、です。そして深く感じ入らない。



私はそのように生きています。



これである程度語りましたので、占いの章は終わります。
また次回からは違うものに移りたいと思います。それでは。

占いに孕む危険性 ②

2017-12-17 05:23:54 | Weblog
さて、前回は自分の過去を交えて考察の一部を語りました。
今回はそれから深い追いをしてゆきます。


私は個人的に占いが好きです。だからなのか阿含宗が占いを用いていたのを別に変だと思わなかったし、習いもした。
また占い嫌いの人には悪いが「占いなんて」と悉く否定するのはどうか、と思う。


問題は「占いに対してどうあるか。そしてどこをみるか」だと思うのです。
そこを知れば、別に否定も肯定も超えてゆける。

今は自分はそういう見地です。



まず、「占いに対してどうあるか」です。



まず、巷の意見を聞いた中で多かったのを挙げてみましょう。
この回答が一番シンプルであり、的確だからです。


「占いは良いことだけ信じて、悪いのは信じない」


私的には半分正解なんですが、まあ巷では、これでよし、としておきましょう。



なんで半分正解か?というと、よく見てください。

「良いことは信じて悪いのは信じない」というのは正論に見えて、厳密には正論ではない。

むしろこれは「都合の悪いものはカットして都合のいいものだけ取り入れる」という方法そのままです。


確かに人生を生きる上での選択方法として1つの手段ではあります。


しかし、こと占いとなるとさてどうか、です。




例えば都合の悪いものはカット。これはよろしいでしょう。
でも、人によって「悪いものが頭にこびりついて離れない」とか「変に覚えていてそれがネックで悪い目にあって気分を害す」
そういうことってありませんか?


またTVなどが多いのですが、悪いことから回避するのにアイテムを使用したり色や食べ物を用いるなどをすると良いよ、なんてのを言われるとやったりしませんか?



これって結局悪いものをカットしてない証拠なんですよ。
つまり「占いに影響されている」ということです。悪く言えば「振り回されている」ともいえる。



そういう人には「カットしているよ」なんて嘘です。




次に「良いことだけ信じて」ですが、これも変。



仮に良いことだけ信じて・・・何もなかったらムカつきません?
または逆に一日良くないことだらけに出合って


「なんだ今日の運勢、良いって言ったじゃないか。あのクソ占い」


なんて思ったりしません???



または悉く当たって「あの占い、すげー」となり、かなり入れ込んだりする人だっています。
で、そのことが嵩んで「占いに一喜一憂することとなる」と、さてどうか・・・。


ましてや、めっちゃ当たるんでしょう?その占い。

じゃあ、悪いことを言われたらどうします?



占いはいつもいいことだけ言いませんよ。





結局、こういうアップダウンになるようなことが出てきます。
だから「半分正解」というのです。



ま、誰も私が言うほど真剣に占いに没頭するわけではないでしょうけどね。




でも、それはTVや雑誌などの占いに対してです。
これが本職でやっている人のものや、宗教でやっているものが「変な導きをしたらどうなるか」です。




そこを言うのです。



繰り返して言いますが、占い自体は私は悪いものだとは思わない。
だが、占いに対して言うことがあるとすれば


「占いに対してどうあるか。そしてどこをみるか」なのです。


そしてもう1つの方の「どこをみるか」です。


どこをみる、というのは占いに対して自分が行う姿勢、対する姿勢でしょうね。
ここがちゃんとできない人は、占いの影響をモロに食らいます。

酷い場合は「占いなしでは生きてゆけなくなる」という状態にもなりかねない。
実際そういう人もいるようです。



だから実際占い屋さんで流行っているところは、行列ができ尚且つ何日も待たねばならないほど人気だとか。
また占い料金が高額でも人気が衰えずなど、凄いところもあるようで。



私は占い屋さんの商売の邪魔をしたくて書いているわけではないので、そこは間違えないように。
何が問題かというのは、これから説きます。



占いの事項は色々です。先ほど言いましたが良いことも悪いこともある。
そして当たるか当たらないか、もある。


だが、究極的なのは「当たる当たらない。良いも悪いもある。しかし、それらを超えろ」なのです。



それのいざないは2つあります。1つは簡単で「はなから占いなど信じない、で最初からカットする」です。



良いことを聞いて有頂天も駄目。悪いことを聞いてがっくりも駄目。
だったら最初から良いも悪いも聞かない方が「幸せ」と言うことです。


つまりは「占い否定者」のようにする。「占いなんて嫌いだ」という人と同じように無視する。



もう1つは聞いていても知っていても「関しない」ということです。



これは実は簡単なことのようで難しいです。
何故なら人間ってそう簡単に忘れることはできないからです。


これは良いことでも悪いことでも、です。
尚且つ聞いてしまったら、それを忘れろ、なんてのは中々できない人が多い。


だからこれは訓練というか、または頭や心がそういう方向に動かせる人ならいいでしょうね。
ですが、多くの人はそれが非常に難しい。

かつての私もそうでしたが、今ではある程度できるようになりました。
歳をとってボケかかっているからできるようになったのかもしれませんが(笑)




だから良いことを言われて調子に乗ったり当てにしたり・・・
悪いことを言われてショックを受けたり腹を立てたり・・・

色々あるわけです。



でも、それらは占いによる象徴の物言いであって、占いの結果が皆必ずそうなる、とは限りません。



だからこの世は何だかんだ言ったって現実がものを言います。
実際に起きる事項に対して臨機応変に対応したりすることが多い。

実際に物事が起きる前からあれこれ言われてそれに一喜一憂するなんて、ナンセンス以外のものではないか。
だったら、あてにもせず関心も寄せず、無視する。忘れる。



結局、何を信じるかといえば「自分」です。自分を信じて動くしかないのです。



これを知ったのは何とも皮肉に「阿含宗を経験したから」なのです。




では、その経緯とともに占いを見てゆく考察を続けてゆきましょう。
以降次回にて。

占いに孕む危険性

2017-12-12 21:49:08 | Weblog
新しい章では「占い」について語ってゆきたいと思います。

そういうと「あれ?占いって巷によくあるものだし、親しみがある物じゃない?」と感じたり思う方も居られると思います。
それはその通りでして、占いはTVでも雑誌でも新聞でも本格的なものも存在し、普段の生活に何気なくあったりするほど馴染みのあるものです。

ただ、自分が言うのは「ああ、あれね」とわかると思いますが、阿含宗のことです。
しかし、阿含宗のことだけを語ると僅かで終わります。それでは意味がないので、もう少し深く触れて私が言いたいことを述べて総じての「占いについて」と危険性を述べたいと思います。


占いはどうですか、と聞くとさまざまな意見が出てきます。
多くは「好きか嫌いか」と聞くことが多く、それに対し、多くの人が「好き及び普通」というのが圧倒的です。

中には「嫌い、及び大嫌い」という人もいますが、割りと少なめです。
まあ、それだけ世間に認知度が高いものなのでしょうね。


一口に占いと聞いても調べるとかなりの数(種類)があるのがわかります。

ただ、ここでは占いの講釈をする気はないので、占いの種類や深い説明はネットで調べてください。



さて、では何を言いたいのかというと、まずやはり阿含宗関連のことから入るのがいいでしょう。


知らない方もいるかもしれませんが、阿含宗では占いを教団でもやりますし、信者にも教えています。
また過去に開祖が発行した本もあります。

名称は「密教占星術」というもので、それを用いて先ほど言ったように教団内でも活用し、それを元に指導や相談に用いたりします。



単にこれだけを聞くと、どのように皆さんは思うでしょうか。


「あら、阿含宗って占いもするのね」
「何で宗教風情が占いを使うのか」

賛否両論、その他色々な意見や感想が出てくることでしょう。


申し遅れましたが、自分は小学生のころから占いは「好き」な方でした。
実際、最初に占いに触れたのは小学六年生のころですか。その頃興味があってたまたまお金が有り、デパートにて「タロットカード」を購入し今も所持しています。

買ってからやってみましたが、意味が分からず数年放置。その後、急にできるようになってからは、ある程度活用しました。

しかし、2009年からは所持はしているものの、占いは行っていません。

それは占いに対する考えが変わったからです。



そのことについては追々話してゆく上で述べたいと思いますが、まあ2009年からは「ほとんど占いは過去のように重用しなくなった」ということです。



話は戻って阿含宗のことへ戻ります。


私が入信したのは19歳の頃です。この頃はまだ占いに対する考えも浅く、それこそほぼ一般人の考える「別にいいじゃない」程度の把握。
つまり占いがある程度好きで容認しているのですから、阿含宗が密教占星術なるものを使って指導をしている、というのには別に「違和感」を感じませんでした。

そして入信してからも本も出ていることですし、その密教占星術を学んでも見ました。

ところが私の特性なのでしょうか?学んでもあまり習得できないのですね。



私の変な特性があり、一発で物事を覚えることもあれば、覚えるのにやたら時間がかかったり、放置してから数年や数か月経ってからチャレンジするとできるようになる。
そういった変な癖があるんです。なので、密教占星術もそのような有様となった。


なので、私が後になってある程度できるようになるには何年も後のことになります。



ただ、実際的に阿含宗で色々講じる際に、疑問が生じたことがあります。
それはやはり阿含宗の中にも「物凄く上達・習得した人」と「下戸に近い人」がいたことです。



私のような人がいるのは驚きましたが、それよりも驚いたのは「物凄く上達・習得した人」のことです。


教団に何か相談などがあって占ってもらうと、まるで透視でもしているかのような的中をする人がいます。
これは結構効きましたね。また自分以外の人もかなり感歎してもいました。


そしてある集まりがあった際に「どうして彼の人はそんなに当たるのか」というのを言われた人がいました。
その人は当時宗務局の職員をしていましたから

「阿含宗内で密かに教えている秘法を習ったのではないか」
「開祖から奥義的な物を習ったのではないか」など言われました。

それに対しその方は全面的的に否定しましたね。で、皆「またまた~」といって笑ってましたが。


でも、その方は真面目に答えており嘘をついてませんでしたね。
皆と同じように基礎を学んで後は勉強会などで奥義ではないが多少深いものを教わった程度だと。

だから古参の信者さんならそのくらい習っている人はいるよ、とのことでした。
なので、本当に職員だから特別に、という贔屓や奥の何か、を習得しているのではない、とわかった。



すると後は「なぜその方は的中率が高く、物事を悉く当てれるか」です。



これについて面白い実際的な考察を自分は持っています。
そのことを契機に自分は確信を持った。そこを話したいと思います。



私の弟がまだ生きていたころにある問題があってその解決に頭を悩ましたことがありました。
内容はちょっと関係者がまだ生きているため公開できませんが、その方との問題が生じて心も頭も痛めていたことがありました。


どれ、阿含宗に相談する前に自前でやってみるか。
そう思い、自分がタロットと密教占星術でやってみました。


すると結果がボヤけていて明確に出ないんですね。はっきりとしない。




何で??? いや、これは私が未熟だからこういう風になるのだろう。
だったら、あの職員さんに占断してもらおうじゃないか。

そう思って阿含宗の道場に行き、占ってもらった。
すると返ってきた答えが私が占った時と同じように「明確でない」のです。




最初、嘘かと思ったが本当にその的中率が高いあの方さえも明確に答えを出せなかったのです。

確かに全く回答が出せない、では話にならないので何種か示唆はあったが、ボケているんですね。
いつものような鋭い刃物で切ったようなシャープな回答が無かった。


これには私も弟もがっくりしたのと「あの方、今日調子悪かったのかね?」と言ったりしたものでした。



まあ、占ってもらった事項は後で時間が経過して何とかそれなりの結果が出ましたが、まんじりとはしなかった。
こんな結果か、という塩梅でしたね。でも、一応片はついた。



だが、自分は思い返してみたんですね。
あの占ってもらった事項だけは「変」だったが、それ以外は誰のことを占ってもいつもの「切れ味」なんですよ。



で、どうしてあの方はあのように当たるのか、と考察したら、わかった。あれしかないと。
そしてそのヒントが開祖の本にも書かれてあるのです。




それは何か?それは


「占いに必要なのはインスピレーションである」


これが開祖の言った言葉です。


そしてそれを私なりに言うと「あの職員は霊感がある。霊感で占いに出ている内容やその奥を把握し判断している」のです。



まあ、霊感だろうがインスピレーションだろうが、どっちでもいい。
要は「占いは当たってなんぼ」なんですよ。


それは私が経験してよくわかっている。尚且つ退会する5年前から私は再修業をしてその際に占いに対する考察も行った。
すると見えてくるものは「それしかない」となった。それゆえの結果です。



だが、そういうと


「その職員がそのように言ったのか?私は霊感や勘が鋭いからそれでやっていると」



確かにそういうのは言ってません。言ってないが、それしか他に該当がないのです。





先に言いました「奥義も秘伝もない」となれば占いで出てくるのはただの占盤の動きだけです。
後は四段掛けとかの掛けだけ。


その掛けを追って行っても手順書には項目しか書いてないので、占いに明るくない人には「何のことやらわからない」で終わりです。
実際、そういう人が阿含宗にはザラです。


例えばタロットもそうです。タロットはただのトランプのようなものです。
というかトランプの発祥は「タロット」なのです。


まあ、発祥云々はネットで調べてもらうとして、タロットはただのカードであり、絵が描かれたカードでもある。
それの向きや意味を探って回答をするのですが、それを読み取れないと占いはできない。


タロットにももちろん解説書はあるが、これも密教占星術と同じで概要や項目しか書いてないのです。
だから私がどうやってタロットから占いで的中を出しているかというと

「カードと会話しているから」なのです。



カードと仲良くなり信頼関係を結び、カードちゃん答えを教えて、とやる。
そしてカードがインスピレーションというかイメージを自分に伝えてくる。

私の頭の中に画像というかワードなども浮かんで来るのです。それを答えると結構当たる。

で、当たらないときは浮かんでこないときです。こういう時はいくらやっても駄目です。



後は阿含宗は「私は霊感がある」というのはご法度なのです。開祖が厳しく戒めていてそういうもので信者を惑わし教団に悪影響を与えたら破門となっている。
なので、そういうことをうっかり言う人もいるが、大抵は「絶対に言わない」のが常です。



ましてやその方は職員です。だから口が裂けても「言わない」
如何に占いが当たるからと言ってそれが「自分の勘で当てている」となると、大問題になります。
なので、そういわずに「皆と同じく習っているけど、研鑽の度合いじゃないかな」というのが関の山なのです。
で、実際そういうことしか言わなかった。



だからこれが占いでなくても別な物でもいい。同じ職種とか何か技術的な物であってどうしてもその人との差がある場合は、経験とか何かがあったりする。


占いも確かに経験が必要であり、場数を踏んでいるに越したことはない。
しかし、ある職員も場数は踏んでいるが、的中率は低い。

その方の兄弟の方も阿含宗信者で占いをするが、その方の方が当たります。
ならば、どうしてか?というと、やはり勘の鋭さか霊感・インスピレーションが強いかどうか、だとなってくる。



そのように私は結論づけていますね。





今日は長くなったので、ここまでで次回もこの続きを話します。それでは。