彼と初めて出会ったのは私が大学1回生の時。サークルのひとつ先輩で、前年にTV(11PM)でビル・モンローを見て、ブルーグラスという音楽について知った私とは違って、高校の頃からバンドをやっていたバンジョー弾きだった。当時、女性の数がとても少なくて、同期のマンドリン弾きとちょっとお姉さんのバンジョー弾きとバンドを始めることになった時、ベースで入ってくれたのが彼だった。先輩とはいえ、4月生まれの私とはひと月も誕生日が違わない、つまりは一番早生まれの人だったので、もういっしょくたなお仲間、って感じでずっとお付き合いしてきた。
卒業して故郷で働き出した彼の実家へ、週末になると合宿と称して泊りに行ってた。冬はスキーのベースキャンプになり、離れの2階は雑魚寝部屋と化していた。今も強く繋がっている、滋賀県の音楽仲間の皆さんと出会ったのもそこだった。
公務員として地元密着の仕事をする傍ら、学究肌の彼は、日本におけるブルーグラスの歴史やその創成期の資料や文献を集めて論文も書いていた。ライブやフェスにも精力的に出かけていたけど、病に倒れてそれも難しくなった。
病院にお見舞いに行った時のこと、病室にバンジョーが置いてあり、「これ弾いてるん?」と聞くと、リハビリにもいいだろうとドクターからお墨付きをもらった、と嬉しそうに触っていた。スクラッグスフリークで、レコードのミストーンまでコピーしていた彼がその時弾いたのは、始めたての大学生のトテトテバンジョーだったけど、きっといつか元のように弾けるはず、と思って見てた。
思い出は山のようにあって、例えば大山のフェスにバンドメンバーで出かけた時は、エアコンの効かない車の窓を開けて走っていたら、前に大型バスが走っていて、思い切り排ガスを吸い込んだ、とか、私たちの新婚旅行に引っかけてバンドで渡米して、フェスに行ったり、ワシントンD.C観光をしたり、彼のコネクションでミシガン州のお宅にホームステイしたり・・・。神戸の西の滝の茶屋で古い友人が企画したコンサートには、「病人同士助け合って行くわ」と長浜の私の弟(ニセ)とふたりで聴きにきてくれて、その場にいた古い友人たちと何十年ぶりかの再会を果たしたり。
最後に話したのは2月8日だった。その月に予定されていた、カンレッキーパーティ(メンバーの還暦を祝う会、生まれ年でやったので、私も彼も祝われる予定だった。)に、「やっぱり寒いしやめとくわ」という電話だった。ちょうどその時は大阪ブルーグラスナイトの最中で、アナザードリームにいた私は、「今、みんなで盛り上がってるよ。寒いし無理せんと、あったかくなったらまたブルーグラスナイトに来たらええやん。ほんじゃまたね」と言って電話を切ったのだ。まさか、またはもう二度とないなんて思いもしなかった。それからたった10日ほどで、あっけなく彼は逝ってしまった。
その前年の、奇しくも2月に、前述の弟(ニセ)がやっぱり闘病の末逝ってしまったので、私にとって2月は哀しい思い出しかない月。弟のようだった長浜のプロのワイン売りと、最初に会わせてくれたのも彼だったな。
入院中のスナップ
たぶん、だけど米原コンサート
いつも笑顔やったなあ。写真はあまりにもたくさんありすぎて選べない。
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