吉元 大二

吉元 大二の心の庭

フィギュア全日本女子フリー

2010-12-28 01:27:05 | 日記
昨日の女子フィギュアの全日本選手権
素晴しかったと思います。

私は誰かのフアンという事はありません。
昨日のフリーも始めから見ようと思って見ていた訳では
ありません。

でも結局、最後まで見てしまいました。
安藤美姫選手が演技を終えた後で、思わず全身で
ガッツポーズをしましたね?

ガッツポーズと言うのとは少し違うような気がしますが
上体だけでなくスケート靴で氷上を思い切り踏みつけ
ました。その後でハッと我に返ったような表情を見せて
いました。体全体で、思わず爆発してしまったのでしょう
ね、、、?

私は、あの瞬間に全てが込められていたと思います。
その後のインタビューでも答えていましたが、自分は
点数よりも、自分の納得の行く演技ができるか?に
一番集中していた。と言うような事を言っていました。

メディアも会場も浅田真央選手の復活への期待と
新星のように現れた村上佳菜子選手の溢れんばかり
のエネルギーとオーラの輝きとで、異常なまでの熱気
の中でも演技は、大変な重圧だったと思います。

滑走前の顔も、いつもと同じ不安そうな顔に見えました。
そんな中で、堂々の演技で逆転しました。

滑走前の彼女は、試合に勝つための一位の浅田選手
との得点差も、ライバルである浅田選手や村上選手の
すべりも、果ては順位や優勝する事すらも眼中になか
ったのではないか?と思えます。

彼女は、ただひたすら“自分を信ずる”事に集中し、
自分のスケートをする事、自分の演技をする事にのみ
集中していたのではないでしょうか?

ノーミスで演技を終えた後、思わず氷上を踏みつける
ような行動がでてしまったのも、自分はやりとげた!
納得の行くすべりが出来た!私はやった!と言う事
に対する雄叫びだったように思います。

この数年間、叩かれ、叩かれ続けてきた中から這い上
がってきて、私はやった!やりおおせた!という感動
だったのではないか?と思います。
自分との戦いだったのでしょうね、、、。

また、安藤選手だけでなく、浅田選手も、村上選手も
3人が3人とも個性が違います。
今の日本の女子フィギュアは本当に楽しみです。

渡辺絵美選手を一生懸命応援していた頃を思えば
隔絶の感があります。

頂点を極められる人たちというのは、どれだけ大変な
のか?と言う事をまざまざと見せ付けてくれました。

そうした人たちが、真剣勝負の時に何を考えるのか?
見方を変えれば、私のような凡人が「イザその時!」
と言うときに何を考えればいいのか?
そして、この期に及んで事を前にした時のために
何をなすべきか?どのように備えなくてはならないの
か?を教えてれたと思います。

その意味では、非常に得がたい状況を観察する事が
できました。

あの完璧と言われた「ロドニナとウラノフやザイツェフ」
や「トービルとディーン」のダンスにしろ、出来上がった
ものだけしか、触れ得ないわけですが、実は見えないとこ
ろでどれだけの努力がなされていたか?
改めて、再認識いたしました。













クリスマス オラトリオ

2010-12-25 23:52:19 | 日記
今日は、年賀状を書きながら久々に
クリスマス オラトリオを聴きました。
カール・リヒターとミュンヘン・バッハ
のです。

この曲は不思議な曲です。クリスマスの
音楽ですから基本的にはイエスの生誕を
祝う曲なのですが、

冒頭の第1曲はまさに輝かしい壮麗な曲
から始まりますが、第5曲ではマタイの
受難曲で使われる有名なコラールが使わ
れるのです。

受難曲と言うのはイエスが十字架に付け
られる一連の事が二時間近くに渡って語
られる長大な曲なのです。

十字架に付けられたと言う事は、死刑に
なって死んだと言う事です。

つまり、その物語りの中にある有名な讃
美歌(コラール)が、イエスの誕生を祝う
曲のなかで使われているのです。

だけでなく、このクリスマス・オラトリオの
最終曲(第64曲)では、なんとこの讃美歌
が分解されて、いわば利用されて最終曲の締
めに使われているのです。

生誕を祝う曲ならば、豪壮に、華やかに祝福
に満ちた中で終わるものが普通の感覚ではな
いか?と思います。

勿論、最終曲の冒頭はトランペットが華々しく
活躍する華やかな曲ではあるのですが、合唱部
分のメロディーは、第5曲でも使われた、あの
讃美歌のメロディーをメロディーの曲調が変わ
る段落ごとに分割して構成されているのです。

いわば、イエスの生誕が十字架に向けてある事
を、始めから意図的に暗示してある曲なのです。

どう思われます。
普通は考えられませんよね?
でも、そこにクリスマスの本当の意味があるよう
に思います。
何故、十字架に掛けられなくては、ならなかった
のか?

イエスの唱えた「愛」とは?
イエスは「あなたの敵を愛しなさい。あなたの敵
のために祈りなさい。あなたに罪を犯すものを7
の70倍も許しなさい。」と唱え続けてきました。

そして、十字架に掛けられて死んだ後に復活しま
す。「復活」という事がどういう意味をもつのか?

何故、キリスト教がここまで多くの信者を持つまで
にいたったのか?

バッハのクリスマス・オラトリオを聞くとき、改めて
この事に気付かされる事になります。
まさにそれこそ、バッハが狙っていた事かもしれませ
ん。と考えると、この曲自体がキリストの言葉を伝え
る福音書そのものになっているのではないか?と思え
てきます。

思えば、有名なニ短調のトッカータとフーガにしても、
パッサカリアとフーガにしても、そう思うとバッハの
オルガン曲などは様々な曲調が福音書のように語って
いるように思えます。


クリスマスケーキ

2010-12-25 02:43:38 | 日記
沢山思い出があります。
まだ小さかった頃、白い大きな四角い箱を
開けるときのドキドキ感はまだ覚えています。

最近は殆ど見かけなくなりましたが、昔の
ケーキには殆どと言っていいくらい、ピンク
と何故か黄緑色のバラの花があしらってあり
仁丹みたいな小さな銀色の粒で飾られて
いました。

新婚の頃、奥様指定の銘柄のブッシュ・ド・
ノエルをやっとの思いで get して、少しでも
早く帰ろうと、帰宅ラッシュの丸の内線になん
とか背中から押し込んで乗った時の話です。

間に合った、、。とホッとした瞬間、ブッシュ
・ド・ノエルの箱の両脇が閉まってきたドアに
挟まれ動かなくなってしまいました。

車内アナウンスでは、「お荷物をお引き下さい。
電車が発車できません。」のアナウンスが流れ、
後ろにいたOLの笑いかみ殺す息使いが聞こえ、
それでいっせいに周りの冷たい視線を浴びる事
になりました。

ケーキの箱は、細長い両端が挟まれた格好にな
っているので、箱自体はグシャッとつぶれるま
でにはなっていなかったのですが、衝撃で中の
ケーキがどうなっているか気が気じゃなく下手
に動かすよりドアが開くのを待とうと判断し、
冷たい視線と冷笑の中、じっと開くまで我慢し
ていた事がありました、、。いい思い出です。

それにしても、たまたま細長い方の両端だった
から良かったんですね、、。箱は歪んでいました
が、ケーキは無事でした。



またまたお月様

2010-12-22 21:02:02 | 日記
今日のお月様!ごらんになりましたか?
一昨日、“なんて綺麗なお月様なんでし
ょう?”って書いたばかりなのに、、、。

昨日の深夜の嵐にどうなることかと思い
きや、季節はずれのぽかぽか陽気。

おまけに夜の内に空気中の細かいちりまで
全部吹き飛ばしてくれたみたいですね、、。

今日の月の輝きは強烈な光線を放って燦然
と輝いています。

まるで吸い込まれていきそうな、神々しい
まさに“輝き”ですね。

ちょっと南の方に目をやると、あんな所に
星があっただろうか?というような星まで
キラキラと輝いていました。
それもひときわ赤くなまめかしい光を放っ
ているなと思ったら、すぐさま青白くチラ
チラ光る星になったり、、、、。

空気の綺麗な事、空が綺麗な時って、こん
なに神秘的で美しい物なのか、、と思わず
みとれておりました。


お月様とクリスマス

2010-12-21 00:12:15 | 日記
今日は素晴しいお月様でしたね、、、。
一年の内でこれほど美しい月が見られる
のはそう何度もないでしょう、、、。
冴え冴えとしていながら、暖かさを感じる
いつまでも眺めていたいような、本当に
お月様という言葉がぴったりする月でした。

昨日はクリスマスに一番近い日曜日。
多くの教会でクリスマス礼拝が守られた事
と思います。

クリスマスというのは、ご存知の通り
イエス・キリストの誕生をお祝いするための
礼拝という意味ですね。

聖書にはイエスの誕生を知らせる、ひときわ
輝く不思議な星が現れ、その星に導かれて
遠い東の国の博士達や羊飼い達がやってくる
様子が書かれています。

と言う事は、今日のように天気が良かったと
言う事になります。ところが、イエス様が
お生まれになった、今のイスラエルの12月
というのは雨季にあたるそうで、夜空に星を
見つける事は難しいのだそうです。

ご存知のとおり、12月25日というのは
もともとは帝政ローマの冬至のお祭りだった
そうですね、、?

でも、そんな事はどうでもいい事だと思います。
大事なのはクリスマスに寄せる人々の思いだと
思います。

クリスマスと言うと、西洋の影響からでしょう
が、どことなくロマンチックな気分になったり
どこかで「愛」や、「人の温もり」を感じたい
と思う季節になっているようです。

特に、キリスト教の信者でなくても、町全体が
それらしい雰囲気になってしまうので、そうし
たムードに流されるのでしょうね、、。

でも、よく考えてみるとそれこそイエス様が
説いた「愛」を感じ取る初めの一歩になってい
るのではないでしょうか?

キリスト教に関係なくとも、周りのムードに
流されているだけだとしても、普段あまり意識
していない「愛」と言う言葉に気持ちの片隅で
触れるだけでも、いやそれをけなす事であった
としても、何もない静かに池に石が投げられた
と同じ事になるのではないでしょうか?

子供の頃の家庭での楽しい思い出のある人も、
子供の頃に家庭での温もりを得られなかった
人も、人から受け入れられないと思い一人で苦
しんでいる人も、どこかで何らかの形で「愛」
と言うものに触れる事になる季節ですね、、。

Merry Christmas!