先週、NHKテレビの100年インタビューという番組で、
裏千家の千玄室大宗匠が出演されていました。
その中で、大宗匠が『物事は全て「かた」から入る。
その「かた」に血が通うようになって初めて「かたち」にな
る。物事は皆創です。仕事もそうです。』と言うような事を
仰っていました。
私は、この手の話は整合性が取れていなかったり、荒唐無稽
な無理なこじ付けだったりする事が多いので、あまり好きで
はありませんが、このたとえ話は、よくよく考えてみると、
よく的を射ているなぁ、、。と思いました。
そして、フト“血が通う”所まで行くこと自体大変なことだ
なぁ、、。とも思いました。
血が通う。そこまで行くには“気”がなければ到達しません。
気は心です。仏作って魂入れず。もそうですね、、、。
そして心が“かたち”になったもの、それは“言葉”。
そこで、ヨハネによる福音書の第1章第1節~の有名な
“初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。
言(ことば)は神であった。、、、”
を思いだしました。
すべて同じなのだとつくづく思います、、、、。
裏千家の千玄室大宗匠が出演されていました。
その中で、大宗匠が『物事は全て「かた」から入る。
その「かた」に血が通うようになって初めて「かたち」にな
る。物事は皆創です。仕事もそうです。』と言うような事を
仰っていました。
私は、この手の話は整合性が取れていなかったり、荒唐無稽
な無理なこじ付けだったりする事が多いので、あまり好きで
はありませんが、このたとえ話は、よくよく考えてみると、
よく的を射ているなぁ、、。と思いました。
そして、フト“血が通う”所まで行くこと自体大変なことだ
なぁ、、。とも思いました。
血が通う。そこまで行くには“気”がなければ到達しません。
気は心です。仏作って魂入れず。もそうですね、、、。
そして心が“かたち”になったもの、それは“言葉”。
そこで、ヨハネによる福音書の第1章第1節~の有名な
“初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。
言(ことば)は神であった。、、、”
を思いだしました。
すべて同じなのだとつくづく思います、、、、。