2月1日のNHKの音楽番組「SONGS」は山本潤子さん特集でした。
いわずと知れた日本を代表するシンガーあるいはヴォーカリストで、その歴史はなんと1970年以前に始まります。
当時結成した「赤い鳥」というグループで参加した民間音楽コンクールで優勝しプロの道へ。5年間の活動後、メンバーを3人にしぼって「ハイファイセット」を結成し、ユーミン(当時は松任谷ではなく荒井由実)から提供された楽曲をシンプルながら暖かみのある深い声で歌い上げて人気を博しました。
彼女の声を聞いていつも不思議に思うのですが、高音は裏声にも聞こえるものの、いつから裏声になったのかよくわからないほど自然に高音へ繋がるのです。
ふと気づけば、音楽生活40年以上。
声の伸びは少々衰えたものの、暖かい歌声は今も健在です。
オフコースの小田和正さんとチューリップの財津一夫さんとは「戦友」と呼べるほど古くからの深い仲。
音楽コンクールで優勝した際、小田さんと財津さんも出場していたのでした(小田さんは準優勝、財津さんは・・・?)。3人ともに、驚異的な芸歴の長さです。
小田さんの「クリスマスの約束」に必ずと言っていいほどこの二人が登場するのは、そんな歴史があるからなのですね。
さて、いくつか楽曲が紹介されて順子さんが歌を披露してくれました。
私の大好きな曲も含まれています(YohTubeに動画が見つかった曲はリンクしました)。
【海を見ていた午後】
ユーミンの曲の中で「朝日の中で微笑んで」とともにお気に入りの曲。
横浜に現在も実在する「ドルフィン」というレストランに、このたび順子さんが初めて訪問するという企画が秀逸でした。
テーブルに座り海を眺め、ソーダ水越しに貨物船を目で追い、紙ナプキンに字を書いてにじみ具合を確かめて・・・微笑ましい光景。
「あのとき目の前で思い切り泣けたら」という歌詞を聴くたびに、時間と空間を忘れて別世界にトリップしてしまう私です。
恋はちょっとしたすれ違いで思わぬ方向へ展開し、空中分解することもある。
20年前のあのとき、彼女が素直な涙を見せてくれたら・・・違う人生があったかもしれないなあ。
【卒業写真】
誰もが知る名曲ですね。
私はこの曲を聴くたび、胸の深いところが疼きます。
2番の歌詞に「あなたはわたしの青春そのもの」というフレーズがありますが、今から四半世紀前、当時つき合っていた彼女が「あなたは私の青春でした」とこの歌詞通りの言葉を手紙に記して私の前から去った瞬間を鮮明に思い出してしまうのです。
ああ、想い出が溢れて止まらない・・・遠い昔に封印していたはずの感情が目覚めてしまう。
<NHKの番組紹介より>
SONGS第206回は、山本潤子が登場。『赤い鳥』『ハイ・ファイ・セット』を通じて、日本の音楽シーンを代表する女性ボーカリストとして活躍を続けている。プロデビューするきっかけとなった、1969年のライト・ミュージック・コンテストに同じく出場したアマチュア時代からの音楽仲間、小田和正や財津和夫のインタビューをまじえ、懐かしの名曲とともに当時の熱気を振り返る。
1949年奈良県生まれ。1969年に『赤い鳥』を結成、ライト・ミュージック・コンテスト全国大会に出場、グランプリを獲得する。1970年プロデビュー、翌年発売したシングル「竹田の子守唄」が大ヒットする。1974年解散後、『ハイ・ファイ・セット』を結成、翌年「卒業写真」でデビュー。松任谷由実(荒井由実)の作品をカバーするなど数多くの名曲を残し、1977年には大ヒットした「フィーリング」でNHK紅白歌合戦に初出場。1994年に解散、その後ソロ活動を開始する。その一方でコーラスユニット『April』『Song for Memories』を結成するなど様々なアーティストと共演、2年前からはソロコンサートツアーも始動している。
冷たい雨
もとは1975年に発売された、バンバンのシングル「『いちご白書』をもう一度」のB面に収められていた、荒井由実作詞作曲の作品。1976年に、良い曲だからと改めて『ハイ・ファイ・セット』がカバー、シングルとして発売した。
翼をください
1971年に発売された『赤い鳥』のシングル「竹田の子守唄」のB面に収められた曲。作曲の村井邦彦は、『赤い鳥』の才能をいち早く見出し、プロデビューに導いたプロデューサー。『赤い鳥』のコンサートでは最後に観客と一緒に盛り上がって歌われた歌で、解散後の1976年には音楽の教科書に掲載されるようになる。それ以来、世代をこえた名曲として広く知られるようになる。
海を見ていた午後
1974年に発売された荒井由実のアルバム「MISSLIM」に収録された1曲。歌の舞台は、横浜のレストランがモデルになっていると言われる。『ハイ・ファイ・セット』は1975年発売のアルバムでカバーしている。当時ニューミュージックと呼ばれた、新しいユーミンの歌の世界が凝縮された1曲。
卒業写真
1975年に発売された『ハイ・ファイ・セット』のデビュー曲。詞・曲は荒井由実。ユーミン自身は、4ヵ月後に発売したアルバム「COBALT HOUR」でセルフカバーしている。当時最も注目されていたシンガーソングライター・荒井由実の名をさらに広めるとともに、『ハイ・ファイ・セット』の新しい世界が表現された、色あせない名曲。
いわずと知れた日本を代表するシンガーあるいはヴォーカリストで、その歴史はなんと1970年以前に始まります。
当時結成した「赤い鳥」というグループで参加した民間音楽コンクールで優勝しプロの道へ。5年間の活動後、メンバーを3人にしぼって「ハイファイセット」を結成し、ユーミン(当時は松任谷ではなく荒井由実)から提供された楽曲をシンプルながら暖かみのある深い声で歌い上げて人気を博しました。
彼女の声を聞いていつも不思議に思うのですが、高音は裏声にも聞こえるものの、いつから裏声になったのかよくわからないほど自然に高音へ繋がるのです。
ふと気づけば、音楽生活40年以上。
声の伸びは少々衰えたものの、暖かい歌声は今も健在です。
オフコースの小田和正さんとチューリップの財津一夫さんとは「戦友」と呼べるほど古くからの深い仲。
音楽コンクールで優勝した際、小田さんと財津さんも出場していたのでした(小田さんは準優勝、財津さんは・・・?)。3人ともに、驚異的な芸歴の長さです。
小田さんの「クリスマスの約束」に必ずと言っていいほどこの二人が登場するのは、そんな歴史があるからなのですね。
さて、いくつか楽曲が紹介されて順子さんが歌を披露してくれました。
私の大好きな曲も含まれています(YohTubeに動画が見つかった曲はリンクしました)。
【海を見ていた午後】
ユーミンの曲の中で「朝日の中で微笑んで」とともにお気に入りの曲。
横浜に現在も実在する「ドルフィン」というレストランに、このたび順子さんが初めて訪問するという企画が秀逸でした。
テーブルに座り海を眺め、ソーダ水越しに貨物船を目で追い、紙ナプキンに字を書いてにじみ具合を確かめて・・・微笑ましい光景。
「あのとき目の前で思い切り泣けたら」という歌詞を聴くたびに、時間と空間を忘れて別世界にトリップしてしまう私です。
恋はちょっとしたすれ違いで思わぬ方向へ展開し、空中分解することもある。
20年前のあのとき、彼女が素直な涙を見せてくれたら・・・違う人生があったかもしれないなあ。
【卒業写真】
誰もが知る名曲ですね。
私はこの曲を聴くたび、胸の深いところが疼きます。
2番の歌詞に「あなたはわたしの青春そのもの」というフレーズがありますが、今から四半世紀前、当時つき合っていた彼女が「あなたは私の青春でした」とこの歌詞通りの言葉を手紙に記して私の前から去った瞬間を鮮明に思い出してしまうのです。
ああ、想い出が溢れて止まらない・・・遠い昔に封印していたはずの感情が目覚めてしまう。
<NHKの番組紹介より>
SONGS第206回は、山本潤子が登場。『赤い鳥』『ハイ・ファイ・セット』を通じて、日本の音楽シーンを代表する女性ボーカリストとして活躍を続けている。プロデビューするきっかけとなった、1969年のライト・ミュージック・コンテストに同じく出場したアマチュア時代からの音楽仲間、小田和正や財津和夫のインタビューをまじえ、懐かしの名曲とともに当時の熱気を振り返る。
1949年奈良県生まれ。1969年に『赤い鳥』を結成、ライト・ミュージック・コンテスト全国大会に出場、グランプリを獲得する。1970年プロデビュー、翌年発売したシングル「竹田の子守唄」が大ヒットする。1974年解散後、『ハイ・ファイ・セット』を結成、翌年「卒業写真」でデビュー。松任谷由実(荒井由実)の作品をカバーするなど数多くの名曲を残し、1977年には大ヒットした「フィーリング」でNHK紅白歌合戦に初出場。1994年に解散、その後ソロ活動を開始する。その一方でコーラスユニット『April』『Song for Memories』を結成するなど様々なアーティストと共演、2年前からはソロコンサートツアーも始動している。
冷たい雨
もとは1975年に発売された、バンバンのシングル「『いちご白書』をもう一度」のB面に収められていた、荒井由実作詞作曲の作品。1976年に、良い曲だからと改めて『ハイ・ファイ・セット』がカバー、シングルとして発売した。
翼をください
1971年に発売された『赤い鳥』のシングル「竹田の子守唄」のB面に収められた曲。作曲の村井邦彦は、『赤い鳥』の才能をいち早く見出し、プロデビューに導いたプロデューサー。『赤い鳥』のコンサートでは最後に観客と一緒に盛り上がって歌われた歌で、解散後の1976年には音楽の教科書に掲載されるようになる。それ以来、世代をこえた名曲として広く知られるようになる。
海を見ていた午後
1974年に発売された荒井由実のアルバム「MISSLIM」に収録された1曲。歌の舞台は、横浜のレストランがモデルになっていると言われる。『ハイ・ファイ・セット』は1975年発売のアルバムでカバーしている。当時ニューミュージックと呼ばれた、新しいユーミンの歌の世界が凝縮された1曲。
卒業写真
1975年に発売された『ハイ・ファイ・セット』のデビュー曲。詞・曲は荒井由実。ユーミン自身は、4ヵ月後に発売したアルバム「COBALT HOUR」でセルフカバーしている。当時最も注目されていたシンガーソングライター・荒井由実の名をさらに広めるとともに、『ハイ・ファイ・セット』の新しい世界が表現された、色あせない名曲。