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山とバイクと時々お遍路

近畿北部、北陸の山(特に白山が好き)歩き。バイクツーリング、自転車で遊んでいます。

戦国の波に翻弄された 名胡桃城跡

2017年11月04日 | 城郭・城跡
2017年10月28日(土)曇り⇒雨



東西を山に囲まれた利根・沼田周辺は、鎌倉時代から戦国時代にかけて沼田氏が支配していたが、戦国時代の天文の頃、小田原の北条氏が利根に進行し利根沼田一帯は北条氏の支配となった。
永禄3年(1560)越後の上杉謙信が三国峠を越えて進攻し、山城や砦を攻略し、北条氏の城となっていた沼田城を手中にし、天正6年(1578)上杉謙信が春日山城内で急死すると、北条氏が沼田に進攻し、再び北条氏の支配となった。
武田勝頼の命により真田昌幸が吾妻の岩櫃城、利根に入って名胡桃城を始め山城や砦を攻略し天正8年沼田城を調略した。
その後、真田氏と北条氏の間で攻防が続くが、関白豊臣秀吉の調停で東と赤谷川の左岸を北条領、西(名胡桃城)を真田領とする裁定を下したが、北条氏の沼田城代となった猪俣邦憲が調略により名胡桃城(城将の真田昌幸家臣鈴木主水は割腹)を不法に攻略してしまった。

この名胡桃事件に激怒した秀吉は、大名間の私闘を禁じた惣無事令に反したとして、天正17年11月北条氏に対して戦いを宣し(宣戦布告)、全国の大名に命じて小田原攻めを開始し、天正18年小田原の役が勃発した。 名胡桃城は、北条氏の滅亡後、役割を終え廃城となった。



史料によれば、天正7年利根に進行した真田昌幸によって現在の城址に築城されたとされています。

名称・・・・名胡桃城跡(なぐるみじょうせき)
所在・・・・群馬県利根郡みなかみ町下津
形態・・・・連郭式の山城
築城・・・・室町時代(伝承)
築主・・・・沼田氏
主な城主・・沼田、北條、真田、
遺構・・・・遺構は馬出しから三郭・二郭・本郭・ささ郭と主要な郭が直に並ぶ連郭式の山城
      土塁址・三日月堀・虎口・通路・門礎石址・掘立柱建物址

駐車場・・・・無料(国道17号線から名胡桃城址前交差点より入る。名胡桃城址の般若郭に位置する場所)






















































名胡桃城跡案内所


上杉謙信公ゆかりの坂戸城跡

2017年11月04日 | 城郭・城跡
2017年11月27日(金)晴れ





名称・・坂戸城跡(さかどじょうせき)
所在・・949‐6611 南魚沼市坂戸
形態・・山城
築城・・鎌倉時代又は南北朝時代以降
築主・・新田氏
主な城主・・新田氏、長尾氏、上杉氏、堀氏
遺構・・曲輪、石垣、土塁、堀切
指定文化財・・国の史跡
位置・・北緯37度03分32.6485秒
    東経138度53分54.21秒
【アクセス】
上越新幹線 六日町駅より徒歩20分
関越自動車道 六日町インターよりクルマで10分

戦国時代、山全体が山城であった坂戸山(標高634m)は上杉謙信ゆかりの城跡であり、
上杉景勝、直江兼続の居城でもありました。
坂戸山頂には、本丸上屋敷跡、
中腹の中屋敷、
山麓の城主館、家臣屋敷跡などは今も完全に残っています。
山麓には長尾政景の墓所と、上杉景勝と重臣直江兼続の生誕の碑があります。
ふもとには、殿様が銭を投げ込んだという伝説の残る「銭淵公園」があります。
(国指定文化財)
案内図




坂戸山登山者駐車場からスタートします。時間の関係で頂上へは行かず山麓の史跡を巡ります。

鳥坂神社

トイレ




家臣屋敷跡


石垣復元の石




御館跡石垣




復元工事中


さらに上の館跡














ぐるりと回って戻りました


御居間屋敷跡へ向かいます。急坂をかなり登りました。












元の分岐に戻り終了です。



但馬 八木城跡と加保坂の水芭蕉

2017年04月29日 | 城郭・城跡
2017年4月25日(火)晴れ

いつか訪ねたいと思っていましたが、加保坂の水芭蕉とセットで訪ねてきました。
八木城跡は山城の特徴をよく残した好い城跡でした。
新緑も綺麗でしたが紅葉の季節にも訪れてみたいと思いました。

縄張り図


登り口を振り返る


ここから八木城跡


尾根全体が削平され曲輪に


本丸石垣(算木積みと言うそうです)




崩れています


本丸


氷ノ山が


さらに奥の土城


降りてきました


場所を移動して加保坂の水芭蕉
水芭蕉の自生地としては南西限界地だそうです





生野銀山 生野城跡(古城山)標高609m

2017年03月28日 | 城郭・城跡
2017年3月28日(火)曇り時々晴れ雨



名称・・生野城跡
所在・・〒679-3301 兵庫県朝来市生野町口銀谷
形態・・山城
築城・・応永三十四年(1427)、
築主・・但馬守護 山名時熈(山名宗全の父)

【以下、生野町教育委員会による現地説明板より】
★遺構
標高609mの山頂に36m四方の主郭(本丸)を中心に、西方の但馬街道に向けて大規模な二の曲輪三の曲輪が続き、尾根の要所に多数の別郭や堀切を構築して、敵の攻撃に備えています。中世山城の典型的な遺構を見ることができます。深い谷間の林の中にも、土塁に囲まれた曲輪群や堀切がよく残り、戦国時代の城塞跡として非常に貴重な存在といえます。


★生野城年表
応永34年(1427年)・・山名時熈生野山城を築く 
天文11年(1542年)・・城山の南表で銀石が掘り出され、但馬守護職山名佑豊が
            これを支配する。その後、大規模な山城の改修に着手。
弘治02年(1556年)・・竹田城主太田垣朝延が山名佑豊から銀山の領有権を奪う。
天正05年(1557年)・・織田信長の命を受けた羽柴秀吉が真弓峠から但馬に進攻する。
            生野城守備の家臣は竹田城まで後退するが、太田垣朝延も
            これを阻止できず竹田城は落城する。
            以後生野城は廃城となり、山麓にあった平城は織田信長の
            銀山経営の拠点となった。
天正10年(1582年)・・織田信長の死後、秀吉は生野銀山を直轄地とし、
            代官を置き経営する。
慶応05年(1600年)・・関ヶ原の戦い以後、徳川家康が生野の地を天領として支配する。
            鉱山収入は260年にわたり徳川幕府の重要な財源であった。 



びわの丸健康公園をスタート


公園上部から生野町市街


びわの丸 後方が生野城跡(古城山)


樒の花


別郭


生野市街地


三の曲輪から二の曲輪、本郭を見上げる


二の曲輪


二の曲輪










本郭









黒田城跡(兵庫県西脇市)黒田官兵衛ゆかりの地

2017年03月13日 | 城郭・城跡
2017年3月12日(日)晴れ

名称・・黒田城址
所在・・兵庫県西脇市黒田庄町黒田1330
形態・・山城
築城・・中世・戦国時代
築主・・土豪・黒田重勝の築城と言われている
遺構・・現在稲荷神社がある比高約40mの半独立山上に
    城があったと考えられますが、全体の城郭は不明で、
    帯曲輪・竪堀・堀底道とも見える不明確な地形が
    遺構として見られます。

この橋の右手に駐車場(約10台)があります

橋を渡ると稲荷社(城址)への直登階段と左への遊歩道に分岐

黒田官兵衛ゆかりの里地図

少しすそを巻くように進む

姥が懐(黒田家屋敷跡)

官兵衛生誕地と言われる

山林の中ジグザグに登り尾根に到着

鳥居が山頂へと導く

稲荷社にご挨拶

説明板

さらに写真による俯瞰にて近辺関連場所の説明

















眺望を楽しんで頂上を後にします

すぐにスタート地点の橋です


2014年の大河ドラマ放送時には、来訪者も多かったのでしょうが、今は春先ののどかな田園が広がり、幟旗だけがパタパタとなびいていました。
それぞれの場所や道は地元の方のお世話でしょうか、キレイに掃除されていて気持ちよく散策させていただきました。