女は愛でバカになる
国際化、グローバル化とやらで、英語、特に英会話が突出して最重要視され、TOEIC(トーイック)やTOEFL(トーフル)の点数が、就職や昇進の足切りに使われている。これはこれで、全く意味がない訳ではないが、TOEFL(トーフル)は、北米が受け入れる留学生の英語力の試験に過ぎない。
そもそも、他の専門科目の道具として英語があるだけで、英語力、それも会話が目的ではない。あの夏目漱石でさえ、イギリス文学を極めようとロンドンの地を踏んで、一生懸命に勉励して精神に異常を来してしまった。漱石でさえこういう状態なのだから、並みの英文科卒程度が、アングロ・サクソンの国で学部はともかく学位を取るというのは並大抵のことではない。日本語を学んだ外国人が源氏物語で学位を取るという状況に置き換えて考えてみればよくわかる。結局、語学の留学生は、語学学校に行ったり、外国人のための英語教育だとか、笑い噺のようだが、外国で日本文学や日本史だとかを専攻して日本に帰国する。あるいは、田嶋陽子のように、「女性学」とかに感染(それも生半可に)して帰国するのである。田嶋陽子は、イギリスを鼻にかけているが、大学の中でも低カーストの語学教員に過ぎない。その域にも達せず、語学学校にも行かず、ブラブラ滞在して形だけ「留学」の不良日本人が数多く米英に巣くっているのだが。
逆に、毛唐(コーカソイド)が日本で語学教員になるのは、極めて簡単で、大卒程度で(あるいはそれ以下でも)、どっかの田舎英語(訛りだらけのオーストコリア語でも)を大学~英会話学校~中学高校のティーチング・アシスタント(TA)など簡単に職を得ることができる。
留学して愛国心に目覚める語学教員もかなりいるのだが、こういった英語を鼻にかける英語被れは女に多い。売国奴・松井やよりも、外語大の英文科卒である。本稿では、こういった人種を「英語女」と呼んでいる。
英語が得意な日本人
その女性は別に変な人ではなかった。それほど親しいわけではない知り合いといった日本人男性と二人で入ってきたが、その瞬間から私はイヤーな感じがした。カウンターの私のすぐ隣にドシンと腰を下ろす。隣の人間との間で「自分の空間」を加減する気配が感じられない。そしてきわめて流暢な英語でカウンターの前にいる料理人に話し始めた。まず注文だが、それも一言や二言では終わらない。「ペラペラしゃべれる」というのはこういうことなのだろう。しかし私なら、仮に外国語がよくできても注文を出すだけにこれだけの単語は費やさない。日本語でならなおさら。
しかしすでにその段階で料理人には通じていなかった。ここの料理人たちの多くは英語はそれほど話せないと思う。第一彼女の英語はこの辺で普通に使われる英語とは違う。アメリカの英語のようだった。次に、さらに流暢かつ高速の英語で料理人に向かって「ミスターササキ」(ロータスレストランのサウジ)について質問をし始めた。もちろん通じるわけがない。
この女性は一緒に来た日本人男性とは普通の日本語で会話していた。英語はとてもよくできていたので、NOVAで仕込んだとかでなくて、アメリカに長く住んでいたかアメリカの学校に行った人なのだろう。しかし、自分の言葉がいくらすばらしく模範的であるとしても、現に通じていないということはすぐにわかるはずではないだろうか。どうして彼女はもう少し「別の英語」で話してみようとはしないのだろうか。
もしも彼女が、(私が話すような)日本で普通に教わる学校英語でしゃべっていたら、彼らにも通じたかもしれない。本当を言うと、日本語と同じ順に単語を並べるだけでもここではよく通じるのだが・・・・。それに、通じていないとわかったなら、なぜシャベリの速度だけでも少し落とそうとしないのだろうか。立派な語法と発音を維持したままでも速度を落とすことはできるはずだろう。
しばらくしてからこの女性は、ミルクティーを飲みながら本を読んでいた私の横で、私のすぐ脇のカウンターに叩きつけるように自分の荷物を「ドン」と置いた。怒っているわけでも嫌がらせをしているわけでもなく、それが彼女の「文化」でありごく自然な普通の振る舞いのようであった。
私はその瞬間に店を出ることにした。「こうなっちゃうともう日本人とはいえないね」と思いながら。英語文化というのはわれわれにとって危険な文化だと思う。日本人を「得体の知れない東洋人」(=世界では三流四流の存在、もちろんネパール人以下)に変えてしまう力を持っているように見える。
ネパール人やインド人は英語がいくらよくできてもネパール人たることまたはインド人たることをやめない。日本人は特にこの種の感化に弱いようである。
文部科学省の失策は、初等中等教育の「ゆとりの教育」だけではない。大学の独法化と並び、1983年(昭和58年)、高等教育において、中曽根内閣の「留学生受入れ10万人計画」や外人教員、女性教員優先がある。留学生10万人は10年後の1993年(平成15年)に達成してしまった。その結果どうなったのか、8割が特定亜細亜(支那・北下朝鮮)で、犯罪が増加、治安が悪化、若年労働者の就職先がなくニートと呼ばれるカーストが出現、不法就労、不法滞在、伝統文化の衰退、日本の美学の破壊、そしてスパイや反日工作員の侵入などを惹き起こした。例えば、上海の俳優で、支那語の語学教員の葉千栄や上海の語学大学卒の莫邦富などを思い浮かべれば良い。田嶋陽子も葉千栄もNHKテレビの語学講師をしていたのは偶然ではない。
支那はえげつないが、アメリカも負けてはいない。フルブライトで、左翼を留学させて慰撫し、逆にスパイや工作員として、日本に次々送り込んだ。留学生というのは、どの国も国益のために受け入れているのだが、文部科学省は違うようで、日本を破壊するために行っている。ゆとりの教育の責任者(戦犯)であり、最後の文部事務次官で、初代文部科学事務次官の小野元之は、毎日新聞に下の記事を載せている。
大学では過激な学生運動をしていて、「権力を倒すには暴力が必要である」と本気で考え、デモもした。しかし、本当に世の中を変えるには「内部に入ってやらねば」と公務員になりました。
文部科学省は、留学生30万人計画を先ほど打ち上げた。30万人の根拠は現在の高等教育機関の学生総数の10分の1。つまり、大学生の10人に1人は留学生にするというのだ。10分の1もなぜ引き受けるのかというと、ヨーロッパの水準に合わせたのだそうだ。特急列車で3時間で別の国のヨーロッパに数値だけを合わせる愚。天下り機関や省益のために、国を売る行為に他ならない。