インド好きの人にはうるっと来るようなアメリカ映画『しあわせへのまわり道』が8月末に公開されます。タイトルに書いた「サルダール・ジー・イン・ニューヨーク」部分はいわばこの映画の裏方で、表のメインストーリーは突然離婚を切り出されたヒロインがいかに立ち直っていくか、というお話なのですが、インド好きの人間にとっては、ここまでアメリカ在住インド人を立派に描いてくれているアメリカ映画は少ないのでは、と思わせられ、胸を張りたくなる作品となっています。
なお、「サルダール・ジー」というのはシク教徒を呼ぶ時の言い方で、呼びかけにも使えます。本作では何と、名優ベン・キングズレーがサルダール・ジーを演じています。そう、イギリス・インド合作映画『ガンジー』(1982)でマハートマー・ガーンディーを演じた男優ですね。では、まずは基本データをどうぞ。
(c) 2015, BPG Releasing, LLC. All Rights Reserved.
『しあわせへのまわり道』 公式サイト
2014年/アメリカ/90分/原題:Learning to Drive
監督:イサベル・コイシェ
主演:パトリシア・クラークソン、ベン・キングズレー、ジェイク・ウェバー、グレース・ガマー、サリター・チョウドリー
配給:ロングライド
※8月28日(金)よりTOHOシネマズ日本橋、TOHOシネマズ六本木ヒルズほか全国ロードショー
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ニューヨークには南アジア系の住人が多い、ということは、すでにいろんなインド映画で語られています。『たとえ明日が来なくても』(2003)では、冒頭「ニューヨークでは4人に1人がインド人だ」というナレーションが入りますし、昨年ヒットした『マダム・イン・ニューヨーク』(2012)では、英語学校に通うシャシのクラスメイトのうち、2人が南アジア系の男性でした。南インドから来たラマはIT技術者、そしてパキスタンから来たサルマーン・カーンはタクシー運転手でしたね。本作に登場するインド人ダルワーン・シン・トゥール(ベン・キングズレー)もタクシー運転手をしています。そしてある晩、レストランの前からトラブっている中年男女を乗せたことで、この物語は始まっていきます。
その男女、テッド(ジェイク・ウェバー)とウェンディ(パトリシア・クラークソン)は夫婦なのですが、レストランで食事をしながらテッドが離婚を切り出し、別れて帰ろうとしたところにウェンディが追いかけてきて、結局2人がダルワーンのタクシーで口論を繰り広げる羽目になったのでした。ダルワーンは終始控えめな態度で2人に接し、テッドが降りた後ウェンディを自宅まで運びますが、その後ウェンディの忘れ物に気づき、明くる日に届けに行きます。その時ダルワーンが自動車教習講師もしていることを知ったウェンディは、彼に運転を習うことにします。それまでは夫の運転に頼りっきりだったウェンディですが、アシがないと遠く離れた所にいる娘ターシャ(グレース・ガマー)に会いに行くこともできず、一大決心をして運転を習い始めたのでした。
ダルワーンはいつでも沈着冷静な、優れた講師でした。「シートベルトを締めて」「標識を確認する」「信号は青か」「サインを見逃さないこと」....最初は離婚の傷手もあってグズグズだったウェンディの運転は、やがてダルワーンの講習によって徐々にまともになっていきます。それに伴って、彼女の生き方も少しずつ変わっていくのです....。
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講習の途中、南アジア系住人だというので差別や偏見の目にさらされるダルワーン。彼はほとんど感情をあらわにしないのですが、書評家という職業がら感受性の豊かなウェンディには、彼の痛みを感じ取れる柔らかな心があり、それがまたダルワーンを変えていくという、大人2人の感情の機微がとても繊細に描かれています。最初ダメダメ女だったウェンディが、あるところでは毅然とした女性になり、それがまたダメ妻に戻ったりと、一筋縄ではいかない人間の面白さが描かれているのも魅力的。パトリシア・クラークソンが実にしなやかな演技を見せてくれて、この辺がインドの女優とは違うなあ、と思わずうなりました。
ダルワーン側の事情も、かなりの時間を割いて描かれます。彼自身はちゃんと市民権を得ているのですが、一緒に住んでいる甥はどうも不法入国らしく、移民局の抜き打ち捜査があった時には戸棚に隠れて難を逃れます。そのほか、ダルワーンが同居している何人かの南アジア系男性の姿も時おり登場、彼らが住むクイーンズ地区の横顔も見られます。そういえば、『マダム・イン・ニューヨーク』の運転手サルマーン・カーンも、クイーンズ地区に住んでいたのでした。
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そして劇中では、ダルワーンがインドからジャスリーン(サリター・チョウドリー)という女性を妻として迎え、ニューヨークのグルドワーラー(シク教寺院)で結婚式を挙げるシーンも出てきます。プレスにある溝上富夫先生(大阪外大名誉教授で、ヒンディー語のほかパンジャービー語、ベンガル語もご専門)の文によると、何とニューヨークには10以上のシク教寺院があり、クイーンズ地区だけでも7つか8つのシク教寺院があるそうです。本作に登場するシク教寺院もビルのワンフロアを借りている、という感じでしたが、香港のものなどに比べるとずっと広くて、老若男女いろんな信者が祈っていたり、宗教歌を歌ったりする姿が写し出されます。昨年ヒットしたドキュメンタリー映画『聖者たちの食卓』(2012)はシク教の総本山、アムリトサルのゴールデンテンプルを写したものでしたが、その海外版&縮小版という感じですね。
ジャスリーン役のサリター・チョウドリーは、憶えてらっしゃるでしょうか、ミーラー・ナーイル監督作『ミシシッピー・マサラ』(1991)のヒロインを演じた女優です。あの作品では、ディープサウスのミシシッピー州でモーテルを営むインド系であるウガンダ難民夫妻(ローシャン・セートとシャルミラー・タゴール)の娘の役で、デンゼル・ワシントン扮する黒人青年と恋に落ちてしまい、両親との間に軋轢が生じる、というストーリーでした。すっかりおばさんになったサリター・チョウドリーですが、婚期を逃した堅物女性で、アメリカ在住の中年インド人に嫁がざるを得ないジャスリーン、という役を押さえた演技で見せてくれます。なかなかニューヨークになじめないジャスリーンと、彼女をどう扱ってよいかわからずお手上げのダルワーンがどんな結末を迎えるのかも、本作の見どころの一つです。
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ただ、インド人とよく接する者としては、2、3のシーンでちょっと違うのでは、と思わせられたのも事実。例えば、結婚式でジャスリーンが顔を上げてまっすぐ前を見て進んでいったりするところですね。思わず、「アーンク・ニーチェー・カロー(目線を下げて)」と言いそうになってしまいました。まあそこは、監督がインド人ではないので仕方がないのかも。スペイン出身のイサベル・コイシェ監督は、『死ぬまでにしたい10のこと』(2003)というヒット作を作った女性監督です。主演のパトリシア・クラークソンとベン・キングズレーとは、以前『エレジー』(2008)でも一緒に仕事をしたとかで息はピッタリ。南アジア系住民に対して偏見が全くと言っていいほど感じられないのも、スペイン出身というコイシェ監督のまなざしゆえかも知れません。
ラストの一歩手前ではちょっと残念なシーンがあるのですが、それがあればこそこのラストに繋がっていくのね、と納得して映画を見終わることができます。「サルダール・ジー・イン・ニューヨーク」の『しあわせへのまわり道』、ぜひ劇場でご覧になってみて下さいね。予告編を付けておきます。
映画『しあわせへのまわり道』予告編