イスタンブール 旅のつづき

以前旅の終着点だったイスタンブールに戻ってきて、生活を開始。また旅のつづきを始めたい・・・

稲本移籍!!

2007-05-31 05:27:29 | Garatasaray
もう今日のyahooにも載っていたので皆さん知っているでしょうが、稲本もGalatasarayから去ってしまうことになりました。稲本を評価していたゲレッツも去ることになったので、まあ致し方ないかと。新しい監督が来たら起用されるかどうかも分からないし。

それにしても今Garatasarayにいる外国人は全員交渉テーブルに着く、という記事が載っていたように、今年は外国人には厳しい査定が下りそう。まあたいした活躍もしてなかったし。

それでもって稲本の移籍先がこないだドイツで試合を観てきたフランクフルトで高原のチームメイトになるというのだから面白い。


今、色々とインテルからレコバを呼ぶかなどと紙面で騒がれているので、来期の新しいGaratasarayに期待。

第12回 旅行

2007-05-30 05:15:03 | 旅行
一年目最後の旅行。
明日からいよいよトルコ語も終えて本格的に業務開始となるので。

最後の旅行は世界遺産パムッカレ。1泊2日でばたばたの旅行。

パムッカレとはpamuk(綿)kale(城)と綿の城を意味するように、この地ではるか昔から湧き出た石灰分を多く含んだ温泉により、まるで綿の城のように幾重にも石灰が重なり、さながら城のようになっていることから名づけられたようだ。

その景色は火山により不可思議な奇形な岩を生み出したカッパドキアのように自然の凄さを見せ付けてくれる。




かつてはそのほとんどに以下のように入れたようだが、今は保存のために入れるのはごくわずか。でも熱い湯になれている日本人にとってみてはぬるすぎて、さすがに5月の風にはちょっと寒い。



パムッカレの石灰棚の上には紀元前から栄えた都ヒエラポリスがあり、そこの一番の見所はかつての遺跡の上に湧き出た温泉があり、「遺跡の上で泳げる温泉」とも言われている。でも30度ちょいとやはりちょっとぬるい。




ヒエラポリスの細かい歴史は取り急ぎ省くとして、写真を幾つか。
かつての大浴場(この門は本当に大きい)と劇場(収容1万人)




この日、他に行ったのはアフロディシアス。海の泡から誕生して天と地と海を抱きかかえる女神アフロディテの名から来ているこの町は、紀元前2世紀頃に栄えた。ローマ帝国内でも有名な町の一つであったと言われている。そしてここにある大競技場はイタリア、ギリシャなどの遺跡の中でも最も保存状態が良い一つと言われている。

アフロディシアスの入り口近くにある、テトラピロン。



そして3万人を収容したと言われいる、長さ270mの競技場。レスリングや剣闘士の戦いが行われたよう。



ここにも劇場はある。ヒエラポリスよりちょっと小さい。




そして最後は温泉。
パムッカレから北に5kmほどにカラハユトという温泉街がある。

町の真ん中(というほど大きくはないが)には温泉が湧き出ている。まさに日本の田舎の温泉街という感じ。




今回行ったのはHerakles。温泉だけは10YTL(850円)で、宿泊は40YTL(3400円)、ただ、温泉+朝夕食付き。中庭にはプールもあり、設備もきっちりしている。




シャワー暮らしにはたまらなく幸せ。
今回ここで知り合った日本人に面白い人がいた。トルコ温泉巡りをしている方で、温泉の存在をしらなかったので、その人のおかげで温泉につかれたとも言える。その方が持っていたトルコ温泉ブック、これはかなり使えそうである。私もこの冬はキュタフヤはじめ、色々と行ってみようと思う。

というわけで、温泉、まだ行ってない世界遺産もあるので、働き出してからも最大限に週末を活用して出かけます。

第11回 旅行

2007-05-26 08:41:40 | 旅行
先週はばたばたしていたので先々週のドイツ旅行の写真をアップ。今回はここトルコで知り合った、ドイツ生まれのトルコ人、それと会社の友人を訪問。

行き先はフランクフルト、マンハイム、ベルリン。

フランクフルトではまず友人がチケットを取ってくれたので、高原の試合を観戦。
必死に声援を送っていたaway(黄色)チームも0-4の完敗で大人しくしていた。高原も1点取ったけど、最近の髪型は相当いけてない・・・




その後、フランクフルトから南へ50kmほどのマンハイムへ。ここにトルコ人の友達が住んでいる。彼はおおげさにここに住む約5割はトルコ人なんて言っていたが、まあ大勢が住んでいる。98年の調査によれば、人口30万に対して2割の6万7千人が外国人で、その3割(2万人)がトルコ人。

でもトルコ人はドネルケバブなど売っている人が目立つからだろうか、やけに多く住んでいるような気はする。

マンハイムに限らず、フランクフルトでもベルリンでもトルコ人はいる。ドネル屋は必ずあるし、駅などでも普通にドイツ新聞の隣にトルコ語新聞が置いてあり、店員はトルコ人だ。駅でも道でもトルコ語が聞こえてきて、違和感がない感じがした。

ちなみにフランクフルトでは人口65万人に対して外国人が3割、そのうちトルコ人は2割(4万人)ほど。ベルリンでは350万人に対して外国人が13%で、そのうちトルコ人が3割(約14万人)ほど。

と、あくまで98年の数字であり、今ではベルリンには30万人ほどのトルコ人、ドイツ全体で200万人ほどいると言われている。

ドイツは1961年のベルリンの壁が出来て以降、トルコを皮切りにユーゴスラビアなど各国と二国間協定を結び、労働力の確保のために移民の受け入れを続けてきた。1973年のオイルショックにより2国間の募集協定を破棄して労働許可を与えなくなった。しばらく厳しい政策は続いているものの、昨今になって移民政策は徐々に緩和されてきて、親がドイツで一定期間暮らしていれば子供にもドイツ国籍を与えている。

彼らはドイツで生まれ育ったが両親はトルコ人であり、女の子はトルコ語の学校にも来ていた。ちゃんと文法を学ぶという名目で。

この子(右の女の子)が作ってくれたのもトルコ料理・・・


ちなみに前の二人(男・女)がトルコ人で後ろの子はドイツ人。


さて、マンハイムから数10km東にあるのがハイデルベルグ。ここは古い城を中心として、非常に雰囲気がある町である。正直まともに西ヨーロッパを訪ねたのが初めてだったので、感動。ここには歴史ある大学があり、このトルコ人もここを卒業したようだ。





彼が飛ばすベンツのスポーツタイプは普通に150kmくらいで走る。スピードメーターが真ん中くらいと思ったら、最高が280kmになっている。「ドイツでは250kmが車の設備的に耐久速度になっている。ただ、フランクなどに行く時はだいたい200kmくらいで飛ばすらしい。」そりゃシューマッハも強いわけだ。

あと、ここで食べた白アスパラガス。これは今が旬のようだがうまい。そしてでかい。




マンハイム、最後の夜。やっぱりここにもモスクはある。そして飲んだ後は、ケバブ。これがまたドイツ人用サイズがでかくて食べきれない・・・





フランクフルトの写真も少し。これが大聖堂。1356年にカール4世が金印勅書を出して以来、常に皇帝が選出され、戴冠式も行われた場所。行く前に『神聖ローマ帝国』を読んでいたので、なかなか感動。この本はドイツの歴史を知る上では結構お薦め。



後は少し町の様子。




ドイツの電車の写真。トルコに慣れているせいか、やはり設備が素晴らしい。スピードは新幹線ほどではないにせよ、席の表示が電光掲示板で「ここの人はどこまで行く」ときちっと情報管理がされている。やっぱり鉄道は国家の力を示す。




それから首都ベルリンへ。ベルリンから鉄道で30分ほどでポツダムがある。かつての避暑地的な感じのこの場所は、今でもそんな雰囲気がある。プロイセンのフリードリヒ2世がベルサイユ宮殿を似せて造らせたサンスーシー宮殿。ここもばかでかい。



もう一つがツェツィリエンホーフ宮殿。かつではドイツ最後の王ヴィルヘルム2世が造らせたが、今となってはアメリカ、イギリス、ロシア間の協議後、第二次大戦後のポツダム宣言が決定された場所である。



あとは、まだ残されているベルリンの壁。これがあったからトルコ人が来れた、とも言えなくもないのか。



そして街中にぽつんとあるカイザーヴィルヘルム教会。第二次大戦の傷跡をそのままに残し、戦争の悲劇を忘れないようにと記念に残されている。



そして高さ114mの大聖堂。その姿には圧倒される。



ベルリンは首都ではあるものの見所が非常に多く、近くにもポツダムもあり観光地としてはベストと言える。地下鉄、路面電車が張り巡らされ、移動も簡単。トルコ人がいると言われた「クロイツベルグ」に行けば、やはりケバブ屋があり、店からはトルコ語が聞こえてきて、ほっと落ち着く。

トルコの輸出先No.1がドイツでもあり、トルコ人の住んでいる数からいっても、切っても切れない関係であろう。

先週のダービー

2007-05-25 23:23:38 | Garatasaray
フェネルバフチェが優勝してしまったとはいえ、ダービーかつ、来期のガラタサライのチャンピォンズリーグ進出の可能性が残っており、ガラタサライホームスタジアムは超満員。稲本の来期残留の可能性が少なくなっているので(監督が稲本を評価しているゲレッツなので残る可能性はあると思っているが)、それと先輩の送別会も兼ねて日本人で応援をと若手総勢11名でスタジアムへ。

ダービー戦で始めてスタンドに足を運んだが、やはり雰囲気は違う。とはいえ日本人の大群にトルコ人の反応も最初は良かった。しかし前半半ばに点を決められ、0-1、終了間際にも決められ0-2。

前半から水はピッチに投げ込まれていたが、後半開始直後から雰囲気が危なくなる。というのもガラタサライのコンディションも相当悪かった。
稲本もいたのかどうか・・・という感じだった。

そして後半10分ほどで突然、発炎筒が。
その後スタジアムの全体に広がっていく・・・更にはどんどんピッチに投げ込まれる。発炎筒の近くにいた友達によれば、相当熱いらしい・・・




試合は中断。さすがに危なくなってきたのでここで帰路へ。
翌日の新聞では壊れた椅子(壊して投げ込まれた椅子)が約12000個、捕まった観客は数十人ほど。

それにしても試合後にフェネルファンの友達からの「残念!」の電話は腹立たしかった。

フェネルバフチェ優勝

2007-05-14 05:59:19 | Garatasaray
今日、フェネルバフチェがトラブゾンとの試合を2-2で引き分け、2位のベシクタシュがブルサスポルに0-3と負けたために(ガラタサライも引き分け)、クラブ創設100周年の記念すべき年に優勝を決めた。
先日、トルコフォーティスカップ戦でベシクタシュに負けて、ジーコの首が飛ぶと言われていただけに、最低限の仕事をしたジーコにしてみればホッとした所だろう。

今日は旧市街のブルーモスク近くで韓国料理屋で飯を食べながら、来週末のガラタサライ×フェネルバフチェのダービーマッチを観に行こうと話しをしていただけに、非常につまらない結果となってしまった。まあ2位になればチャンピォンズリーグ出場の権利があるだけに、ガラタサライにしてみれば消化試合にはならないのだが。

旧市街からの帰り、Takşimは早くも優勝を祝うサポーターで埋めつくされ、タクシーもいったんそこで降りる事に。車から乗り出して、クラクションを鳴らして祝うので、渋滞はひどい・・・
今もほとんどのテレビがその光景を中継している・・・日曜日の24時を回っているというのに。サッカーでそこまでは熱くなれんわなぁ。

来週はたぶん契約を更改しない、最後の稲本の勇姿でも見てこようかと。

Ghost

2007-05-11 04:36:51 | 日々の出来事
来週の月曜日はトルコ人の友達が行きたいというので、"Ghost"なる日本のロックグループのコンサートに行って来ようかと。

http://www.babylon-ist.com/b2003/tr/program/programDetay.asp?etk_id=1110&ay=5

Babylonというイスタンブールでも1、2を争うクラブなので、トルコでも人気歌手が来るし、海外からももちろん来る。いやぁ、他の日本人に聞いても彼らのことは知らなかったので、どんなものか未知ではある・・・

まだまだトルコは遠いかな・・・

第10回 旅行(続)

2007-05-05 02:45:03 | 旅行
シバスの続き。

シバスからカイセリへ。カイセリは世界遺産カッパドキアの近くにあり空港があるので、イスタンブール-カッパドキアの中継地なような存在だろうか。ちなみにバスを降りて数時間と思って歩き出したら雨が降り出し、降り止まなくなってしまったので断念。昼飯を食べてすぐコンヤへのバスへ。

コンヤ。人口100万人ほどのトルコ中部では最大の都市である。ぐるぐると舞って踊るセマに知られるイスラム神秘主義メブレビ教団を作ったメブラーナで良く知られ、観光客もさることながらイスラム教信者が多く訪れる場所でもあり、宗教色の強い町として知られる。
更には東からやってきたトルコ系民族がビザンチン帝国軍を打ち破り、1134年にコンヤをルーム・セルジュクの都とした。このためシバス、カイセリにもあったルームセルジュク朝の遺構が多く残る。



天気が良かったこの日もメブラーナが眠る博物館には多くの人が訪れていた。メブラーナの墓を始め聖人たちが多く眠る。面白いのはその墓の上にターバンの形をした巨大な石が置かれている。この大きさによって位が分かるそうだ。



そう、この踊りはイスタンブールなどでも見れるそうだが、何時間もぐるぐると回ることで昇天に達し、神に近づくというものだそうだ(だいぶはしょってますが)。


そのメブラーナ博物館近くにあるTurist informationに勤めるyükselさんは日本語が大変うまい。カイセリ大学で4年間学んだだけで、読み書きもでき、mixiもやっているというのだからびっくり。下の写真はTurist informationではなくて、sweetのお店。ぜひコンヤに行かれた際は訪れるときっと助けてくれると思います。



コンヤ中心地のモスクとトラム。



コンヤは大都市だけあって、巨大なオトガルと市内を結ぶトラムが走っている。移動にも便利だし、この沿線にどんどん町が大きくなっていくようだ。トラムの端は町の中心部、そして1時間ほどかかる反対の端はセルジュク大学。学生の数が5万人以上とか言っていたかな?興味半分で行ってみたけれど、確かに大きい。そしてそのキャンパスも工事で拡張されていて、かつ周りの土地にも新しいマンションが広がっていた。




学生が多いということもあるけど、コンヤが宗教色が強いとは感じなかった。若者はどこに行っても同じだし、別にtürban(頭に巻く布)はどこでも見かける、イスタンブールであっても。

実際、コンヤの人に言わせれば"イスタンブール Takşimのistiklal caddesi"と言われている洒落た通りもある。夜はライトアップされて、それはなかなかの雰囲気を出している。

と、後は中心地にあるアラアッディンの丘。ここでチャイを飲むも良し。なかなか雰囲気のある町だと思う。たいてい大きな町ではそういう雰囲気は失われてしまういけど。



最後に、コンヤの料理と言えば"fırın kebabı"(オーブン焼きのケバブ)が有名。そのじっくり焼いた羊肉はなかなかの美味。それと、最後の夜は臓の串焼き。これはおいしかった。




また今週末も・・・

第10回旅行

2007-05-03 06:37:58 | 旅行
トルコ国内旅行

遅れてしまったが1週間ほど前の旅行。今回はトルコ中部を黒海からずっと南に下る旅。黒海から地中海までと思ったけどバス移動はさすがにしんどいので、
黒海のサムソンから中部の最大都市コンヤまで。トータル700kmくらいだろうか。



黒海のめぼしい都市に飛行機がなかったので、というだいぶ消極的な理由でサムソン(Samsun)には行く事になったのだが、サムソンに着いて観光案内所に行って地図をもらって、そこで働く彼と話してまさにその通りだった。地図で現在地とめぼしい観光地を、と思ったら2つほど上げて(しかも一つは丘、眺めが良いとのこと)終わり。他にはないらしい。

まあ期待はしてなかったのでいいのだが、サムソンはロシアからの天然ガスパイプライン(ブルーストリーム)がつながっており、サムソンを通してジェイハン(地中海側)までつながる。ジェイハンに関しては前回旅行を参照。と、黒海でも主要港の一つなのでその意味でも実際に見てみたかったというのはあった。

海岸沿いには米、麦、油などの食料倉庫が建ち並ぶ。内陸から、国内への輸送地点になっているのだろう。すぐ近くにもサイロが建つ。隣接するTCDDの港にはひっきりなしにトラックが出入りしていた。



サムソンの町は港沿いから町の大半が丘のような高台に位置しているので、上からの眺めはいい。



と、歩き回ってもそれほど見所はないので4~5時間の滞在で次のアマスヤ(Amasya)へ移動。

サムソンからはバスで3時間ほど。山間にぽつんとあるこの町は真ん中に川が流れ、周りを山に囲まれていて、景色、雰囲気が非常にいい。日本で言ったら温泉街とでも言えるだろうか・・・

トルコによくある形の町の中心には丘があって城壁がある、ここもその典型とも言える。そしてここには城壁の下にある絶壁にかつてのポントス王の遺跡がいくつか残されている。これも川沿いから目に入るほどの大きさで、川沿いの古い家並み、遺跡と眺めが素晴らしい。ちなみにホテル(yalıboyu Hotel)も名前の"川岸"の通り、川岸にあって眺めもいい。



橋の上から丘の上から。



町は川をから南に広がる程度で小さなもの。かつての神学校やジャミなどが残っておりこじんまりとしていていい。"Amasya"料理を食べさせるレストラン(Amasya mutfağı)や、ハマムもあって滞在するにはもってこいと言える。

見るからにはあやしいが、おいしいスープ。この地方ではオカカが有名なようで、オカカを使う料理がいくつかある。この中にも油に混じって入っている。



雰囲気があっていい街だ。


1日滞在後、南のシバス(Sivas)へ移動。

バスで4時間ほどでアナトリアの高原に入ってくる。ここは標高1285mで人口は30万人ほど。アマスヤからの移動途中の景色もすっかり高原の様相となり、翌日、世界遺産であるディヴィリー(Divriği)へ移動した際も、かつてチベットで見たような透き通った青い空、白い雲、多少荒れた草原が広がっていた。



着いたのは夜11時近かった。何とか中心地に来たものの地方にも関わらずホテルの値段が高い。pazarlılık(値引き)はトルコでは当然のことなのでやってみたけれど駄目だったので、諦めて他の所へ。

中心からほど遠くない"Akgül otel"も値引きの末、30YTL/night(約2500円)。それでもテレビも冷暖房もすべてついているので、文句は言えない。それとここには面白い事に大学生がアパート同様に部屋を借りて住んでいる。

おれの値引き交渉に付き合ってくれたので、ここに泊まることに。そして腹が減ったので教えてもらった5軒ほど隣のレストランには"シバスキョフテ"がある。キョフテは普通肉ボールみたいなものだが、ここのは平べったい。でも、田舎だから素材が新鮮。値段はサラダからデザートまで付いて9YTL(約750円)なので安い。そしてうまい。これはいつも思うことだが、イスタンブールのレストランよりも圧倒的に田舎の方がうまい。



ここシバスには特筆すべきものはあまりない。ただ、かつてのオスマントルコ以前のセルジュク朝の遺構がいくつか残っていて、ジャミ、神学校の門構えがトルコ西部、イスタンブールではほとんど見られないものばかり。



この13世紀に建てられたウルジャミのミナーレはどうみても傾いていると思うが。



それと、忘れていけないのはここシバスには1919年9月4日の国民会議にてトルコ共和国建国の父アタテュクルが議長に選出されて連合国、イスタンブール政府に対する独立の姿勢を鮮明にした重要な契機となったsivas kongresがある。




さてさて、翌日は世界遺産のディヴィリー(Divriği)へ。シバスからミニバスを乗ること2時間半。朝に出て夕方に帰ってくるイメージである。

ここは13世紀に建てられたウルジャミが世界遺産となっている。病院と一体となったこのジャミは現役のジャミで、今でも使われている。門構えがいわゆるシバスにあるセルジュク朝のものと似ているが、それよりも更に精巧に作られていて幾何学模様がその荘厳さを表している。世界遺産といっても訪れるツーリストはやはり少ないようで、それも頷けるのがシバスからも遠いし、町はほんとに小さくレストランも数軒。ウルジャミを見てしまっては特にやることはない・・・ 1時間見て周って、1時間トルコ人とだべって2時間もあれば十分であった。



門の精巧な作り。



と、シバスに戻り"çerkez kahvesi"を大学生と飲んで、あまりの濃さに寝付けない夜を過ごすことに・・・ちなみにçerkez人とはグルジアなどコーカサス地方から来た人たちのことを指す。シバスもその一帯(西端)ということなのだろう。



翌日からカイセリ、コンヤへと移動。長いのでまた後ほど。