千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

甲東園と芝川家4 芝川又右衛門邸の建設

2022-12-23 10:47:57 | 芝川家の土地開発
さて、果樹園「甲東園」開設後の明治44年、果樹園に隣接して2代目芝川又右衛門が別邸(以下、又右衛門邸)を建設します。

又右衛門が甲東園に別邸を構えた理由は明らかではありません。当時はまだ阪神急行電鉄西宝線(現・阪急電鉄今津線)は開通しておらず、甲東園を訪れる際には汽車で西ノ宮駅(現在のJR西宮駅)まで行き、そこから人力車に乗って、丘陵は徒歩で上るという不便さでした。しかし又右衛門は、自然豊かで広大な土地を所有し、そこで狩猟をする英国貴族のような生活に憧れを抱いていたといわれており、実際に、甲東園で友人達と共にウサギ狩りに興じることもありました。工業の発達で大阪の環境がどんどん変わっていく中で、隠居後は都会の喧騒から離れて暮らしたいとの思いもあったようで、天然の湧水が美味しく、新鮮な野菜や果物が採れる甲東園は、又右衛門にとって一種の理想郷であったのかも知れません。

又右衛門邸を設計したのは、「関西建築界の父」といわれる建築家の武田五一でした。
当時、武田は40歳前の若手。又右衛門がなぜ武田に設計を依頼したのかは分かっていませんが、芝川家は、武田が又右衛門邸以前に設計した住宅の施主である福島行信(実業家)、清野勇(医師)とも交流があり、こうしたことが関係していたのかも知れません。

武田は東京帝国大学卒業後、ヨーロッパに留学し、その時に触れたグラスゴー派やウィーン・ゼツェッション、アール・ヌーヴォーなど現地の新興の造形運動を日本に紹介したことで知られています。一方で、大学卒業時には茶室をテーマに論文を書き、京都や奈良の古社寺の修理保存にも携わりました。欧米の新しい造形と日本の伝統的な造形に共通点を見出し、それらを融合して新たな造形原理を創造しようと模索した建築家で、その武田による又右衛門邸は、杉皮張の外壁、網代組の腰壁や天井など和の趣が多分にあるものでした。






当初カーテンで仕切られたこの部分は、後に防寒のため扉が設置された。
(塩田與兵衛『芝川得々翁を語る』p/13-14)


竣工して間もない頃の芝川又右衛門邸
(上から:千島土地株式会社所蔵資料P40_011、P40_010、P40_013、P40_012)


大正時代の芝川又右衛門邸(千島土地株式会社所蔵資料P04_021)

又右衛門はフランス風の純洋館を期待していたようで、はじめは予想外に思ったようです。しかし茶道を嗜んだことから(又右衛門は近代数寄者としても知られています)、だんだんとその良さがわかってきたのだとか。

又右衛門邸は、当初は別邸として茶会や園遊会など社交の舞台として活用されました。

大正12年の花見園遊会を楽しむ人々(千島土地株式会社P38_041)

しかし大正12年に息子の又四郎に家督を譲って隠居した後、又右衛門は本格的に甲東園で暮らすようになります。

昭和2年には、高齢の又右衛門の生活に支障がないよう平屋の住宅(通称「和館」)が増築されます。こちらも設計は武田五一。生活の場を意識してか、殆どの部屋が和室でしたが、外観はスパニッシュ様式でまとめられました。従来の又右衛門邸((「和館」に対し「洋館」と呼ばれています)の外観についても、この時、増築部分に合わせたスパニッシュ様式への変更が行われたと考えられています。


増築後の芝川又右衛門邸(神戸大学建築学教室所蔵)


スパニッシュ様式に変更された「洋館」(千島土地株式会社P54_002)


「和館」サンルームにて晩年の又右衛門夫妻(千島土地株式会社P11_010)
又右衛門は殊にこの部屋が気に入っており、晩年はここで漢籍を読んで過ごすことを常としていました。

昭和13年、又右衛門は家族に看取られて甲東園で息を引き取ります。
その後、甲東園はしばし主(あるじ)を失いますが、昭和13年の阪神大水害や、太平洋戦争の空襲の激化によって芝川家の人々が甲東園に集まることになります。又四郎も御影の居宅が空襲で焼失したことから戦後は又右衛門邸で暮らすことになり、屋敷は子、孫へと住み継がれていきました。

しかし、1995年に阪神淡路大震災が発生。
又右衛門邸洋館は、煙突が倒壊し、室内の漆喰壁が剥落するなど大きな被害を受けました。



震災後の芝川又右衛門邸 外観と内部(千島土地株式会社保存資料)

半壊となった洋館に住み続けることは難しく、建物の解体が検討されますが、当時芝川家の当主であった又彦(又右衛門の孫)の強い思い入れもあり、幸運にも博物館明治村へ移築されることになりました。


明治村に移築された芝川又右衛門邸
こちらから明治村での様子をご覧いただけます。

和館については震災の被害も比較的少なく、引き続き住宅として使用されていましたが、2004年、老朽化などから解体されることになりました。千島土地では、和館のタイル、建具などを可能な限り引き取り、現在も大切に保管しています(一部は和館と同年に竣工した大阪の芝川ビルで活用しています:https://shibakawa-bld.net/2008/04/01/4_1/)。


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景


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