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千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

初代・芝川又右衛門  ~唐物商組合の設置~

2008-05-15 16:05:10 | 芝川家の人々
慶応3年12月7日(1868.01.01)、神戸の開港と同じ日に大阪が「開市」されます。開市とは、開港が外国人の居留を認めるのに対し、居留は認めず、取引のみが認められること。但し、大阪も後に開港へと方針を転換し、慶応4(明治元)年7月15日には正式に「開港」しています。

さて、開港に先立つ慶応4年(明治元年)3月、芝川又右衛門は布屋猶三郎と共に政府関係機関より召還され、外国人との貿易取引において身分が確実な商人を人選の上、報告するようにとのお達しを受けました。

当時、300年近く続いた日本の鎖国が瓦解し、外国貿易をめぐる情勢が大きく変化する中で旧来の唐物商仲間は最早時代に即さなくなっていました。素人が法度や規則も弁えずに貿易取引に乗り出して多大な損益を出したり、外国人に大損をさせた挙句にトンズラしてしまったり・・・といった事態も発生したようで、それらの取り締まりが急務となっていたのです。

又右衛門は早速28名の「本組(元組)本商人」からなる唐物商組合を組織し、取引を願い出た商人をその支配下に組み込んで、組織的な取り締まりを図ります。

本商人一同で相談の上、輸入品からは五厘、輸出品からは七厘を徴収し*1)、残り二厘を組合の運営費に充てたと言います。組合には貿易品の目利き(鑑定)役など4名*2)が順番を決めて事務にあたったとありますから、現在でいう出向のような勤務形態だったのでしょう。

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さて、当時の貿易を垣間見る史料として、「芝蘭遺芳」に掲載された慶応4年の外国商館への輸出品のリストには、茶、乾物、生糸、薬種、綿、漆器・・・などの品々と共に、傘、提灯、雛人形(?!早くも美術品として売買されたのでしょうか)、花古蓙(?“ござ”の一種?)、饂飩粉(やはりおうどんにして食べられたのでしょうか)・・・などなど、ちょっと予想外の品物も記載されています。こういった史料は、当時の様子を知る上で本当に貴重なものだと言うことができるでしょう。


*1)「芝蘭遺芳」の記述による。「瑞芝録」では、輸入品から7厘を徴収したとの記述になっている。

*2)「瑞芝録」による。「芝蘭遺芳」では、小使を含めた5人が詰めて事務を執ったとしている。


■参考資料
「大阪商人太平記 明治維新篇」、宮本又次、創元社、1961
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)



※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。


初代・芝川又右衛門 ~兵庫開港と神戸洋銀引替所~

2008-05-01 09:58:51 | 芝川家の人々
徳川慶喜が政権を朝廷に返上し、江戸幕府政治に幕を下ろした大政奉還。その約2ヵ月後の慶応3年12月7日(1868.01.01)、兵庫が日米修好通商条約の条約港として開港しました。開港2日後の12月9日(1968.01.03)には王政復古の大号令が出されるという大きな転換期只中の出来事です。この開港により兵庫(神戸)は近代的な国際港として歩みはじめました。

大阪で唐物商(貿易商)を営んでいた初代・芝川又右衛門は、当時45歳の働き盛り。身近な兵庫の開港という新時代に即し、これまで手掛けてきた長崎と江戸での取引を兵庫(神戸)に集中させ、オランダ商ポートイン(ボードウィンか)、ドイツ キニーフル、オランダ八番館、アメリカ一番館などとの取引を開始します。

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さて、明けて慶応4年(明治元年)の新年早々に又右衛門は外国事務総督・伊達宗城(だてむねなり)より大阪西本願寺別院(現在の本願寺津村別院・北御堂)に呼び出しを受け、弗銀引換方を担任すべき旨を告げられます。弗銀引換方とは、日本の通貨と外国の通貨(洋銀*)の両替を行う機関のこと。洋銀は輸入品の支払いに利用されていたことから、開港に伴う外国との貿易開始にあたってその設置が急務となっていたのです。

命令を聞いた又右衛門は、早速金子三万両を携えて神戸に出張して仮洋銀引替所を設置、同年3月より引換業務に着手しました。ここで交換された弗銀(洋銀)は順次大阪に廻送され、日本の通貨である一分銀に改鋳されたと言います。

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最後に、当時の貨幣をめぐる時代背景について少し補足しておきましょう。江戸時代、日本では金・銀・銭の3種の貨幣が併用され、江戸では金が、大阪では銀がそれぞれ用いられていました。金・銀・銭それぞれの間には相場が立ち、両替商において交換することができました。両替商の中には天下の豪商としてその名を轟かせていたものも多くありました。

しかし、幕府をはじめ、明治新政府にも莫大なお金を貸していた両替商は、その多くが幕末から明治にかけて経済的に逼迫していきます。更に、金本位の貨幣制度への集約を目指して慶応4年(明治元年)5月に銀目廃止が決定。銀が中心に用いられてきた大阪では、銀が無価値になることを恐れた人々による取りつけ騒ぎが多発、数多くの両替商が閉店を余儀なくされ、没落してしまいました。

この時代、又右衛門は以前にも増して目覚ましい活躍を見せるようになりますが、まさに時代の転換点を的確に捉え、台頭していったのだと言うことができるでしょう。


*)洋銀
アメリカ弗(ドル)、スペイン銀貨、メキシコ銀貨などの輸入された外国通貨のことで、日本をはじめ、東洋諸国の貿易の決済に利用されていた。


■参考資料
「大阪商人太平記 明治維新篇」、宮本又次、創元社、1961
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969(非売品)
外務省ホームページ


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初代・芝川又右衛門 ~渋沢栄一の思い出~

2008-04-22 14:10:58 | 芝川家の人々
幕末、大坂のまちも騒然となります。特に、外国商品を扱う唐物商は攘夷派から狙われ、打ち壊しなども多発しました。又右衛門も一時家族を引き連れて北摂熊野田村(現・豊中市)に避難したこともあったと言います。

今回はそんな動乱の幕末期、後に日本を代表する実業家となった渋沢栄一が、一橋家の顧問を務めていた頃のお話です。

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渋沢栄一

混乱の幕末期、輸入品を扱う唐物商にとって様々なリスクもありましたが、外国品、特に軍需品の需要が高まったのもまた事実でした。

一橋家の顧問・渋沢栄一も、大阪の又右衛門の店・百足屋から軍需品である硝石(火薬の原料)十万斤を購入することとなります。一橋家と言えば幕府の御三卿のひとつで二人の将軍(11代家斉と15代慶喜)を出した名家中の名家。そんなところにまで取引先が及ぶほどの当時の又右衛門の商売繁栄ぶりは推して知るべしです。

さて、又右衛門が西国橋西手にある藩邸を訪れたところ、渋沢は襠袴の凛々しい扮装で応対し、手ずから硝石を量りました。しかし、渋沢が量った結果と送り状に記載された量とがどうしても一致しません。

結局、道修町薬種屋より計量の専門家に来てもらい、量目の正確さを争うことになります。

その結果、どうやら渋沢が量りかたを巧みにごまかしていたらしいのですが、「渋沢栄一もなかなか細かな芸ができたわけだが、一橋家の顧問を相手にそこまで争った又平(又右衛門の隠居後の名)も相当なもの」とあるように、又右衛門の肝の据わり方には舌を巻きます。(「日本を創った戦略集団」p.250より、( )内筆者注)

なお、無事取引が終わった硝石は平野橋西の鴻池倉庫に納められ、当時有名な侠客・新門辰五郎*)が子分と共に江戸から出張し、その警戒に当たったとか。

後に明治の世となり、渋沢栄一が正金銀行の株主を募集するために来阪した際、渋沢と再会した又右衛門がこの時の話を持ち出したところ、二人で当時のことを思い出して大いに笑ったと言います。

*)新門辰五郎(1800-1875)
江戸末期の町火消しで侠客。1846年の江戸大火の際に男をあげ、将軍徳川慶喜の警衛役にまでなった。


■参考資料
「日本を創った戦略集団⑥ 建業の勇気と商略」、堺屋太一責任編集、集英社、1988
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969(非売品)


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初代・芝川又右衛門 ~唐物商としての発展・長崎貿易と江戸貿易~

2008-04-17 13:54:52 | 芝川家の人々
徳川幕府においては株仲間制度があり、大阪でも唐物商のうち反物を取り扱う五軒問屋が権勢を振るっていました。五軒問屋以外の商売においては、売上高1貫匁あたり30匁(1貫匁=1,000匁なので3パーセント)が口銭(取引の手数料や仲介料)として徴収され、商売の利益が殺がれていたのです。

このような中で又右衛門が目をつけたのが堺の地でした。当時、堺は堺奉行によって管轄されており、大坂町奉行の管轄下にあった五軒問屋の勢力が届かなかったのです。

又右衛門は当時休業中だった堺の唐物商・奥田屋定次郎を名義人として、本町の反物問屋・佐渡屋伝兵衛を説き、佐渡屋と共に堺・神明町に唐物問屋を開業します。

又右衛門が佐渡屋伝兵衛に声をかけたのは、佐渡屋が九州地方でも手広く商売を展開していたからです。又右衛門は伝手のない長崎の地で商売を行うにあたり、商品購入の代金を迅速に支払うことが長崎商人から信頼を得るのに重要だと考えました。しかしながら、自分自身の資本は不十分であり、また現在のように銀行もない時代です。又右衛門は佐渡屋の九州での売掛金を長崎における商品購入の代金に当てようと考えたのです。

又右衛門の思惑通り、実際に営業が始まるとその堅実な取引振りは長崎商人の信用を得て、取引は日を追って繁盛していきました。また、後には淡路船の利用で資金の調達に困ることもなくなり、取引額も俄かに増大していきました。(当時、淡路船は単に品物を運搬するだけではなく、船主が荷為替を組んで遠隔地間の決済を請け負っていました。)こうして又右衛門は直接長崎と取引の途を開き、外国品取引業に着手したのです。

また、1864(元治元)年には、又右衛門は江戸への更なる事業拡大を目指して堀越覚次郎という商人との取引を始めています。江戸時代、外国からの輸入品は厳重に取り締まられており、その取引は不自由を極めましたが、その分、輸入品売買による利益は大きかったといいます。百足屋の資力も長崎貿易開始後に著しく充実していきました。

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送り状に見られる長崎貿易取引商品を列挙したもの
「芝蘭遺芳」には、これら貿易取引に関する荷為替証文や送り状、御達状、輸入品目、運賃表などの一部史料が掲載されていますが、これら取引における当時の往復書簡を通読すると、商況の様子はもとより、社会の出来事まで懇切丁寧に記された事務用とは思えない行届いた内容であったと言います。現代ほど情報を簡単に手に入れることができなかった時代、こういったやり取りは、お互いの信頼関係を築くためにも、また商機を捉えるためにも重要な情報源だったのでしょう。


■参考文献
「大阪商人太平記 ―明治維新篇― 」、宮本又次、創元社、昭和35年
「船場 風土記大阪」、宮本又次、ミネルヴァ書房、昭和36年(第3刷)
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、1944、芝川又四郎(非売品)
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)


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初代・芝川又右衛門 ~唐物商としての出発~

2008-04-11 15:20:01 | 芝川家の人々

1798(寛政10)年の「摂津名所図会」より伏見町唐高麗物屋(とうこまものや)の様子。
又右衛門の先代の芝川新助が、1800年代前半に伏見町4丁目に開業した唐物商の「百足屋」の様子はこのようなものだったのではないでしょうか。


又右衛門が入家する以前、1846(弘化3)年版の「大阪商工銘家集」より
「唐糸反物るい」、「唐小間物るい」を扱う伏見町百足屋新助の唐物店が取り扱った具体的な商品を知ることができます。

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初代・芝川又右衛門は、芝川家から請われての入婿だったため、芝川家で代々襲名されてきた「新助」の名は継がず、「又右衛門」の名を変えないという条件つきで芝川家に入家しました。又右衛門は、芝川新助から「我が家の娘婿に」と懇請された際、「他家に入家するほど資産の蓄えはないが、それでも良いのでしょうか」と念を押していましたが、自ら築いた資産金百両の持参金を養父・新助に預けて芝川家に入婿したと言います。金百両が現在のいくらに相当するのかはっきりしたことはわかりませんが、簡単に稼ぐことができる金額ではないでしょう。


さて、結婚後、又右衛門は伏見町心斎橋筋の古道具屋・加賀屋作左衛門の貸屋に新居を設けます。翌年の1852(嘉永5)年には分家して新たな一家を起こし、本家の唐反物類に差し支えないよう配慮しながら商売を始めます。本家からは資本金として30貫目が与えられました。

しかしながら、又右衛門は商売の伸びに限界があることを早くも悟ります。これでは発達の望みがないと思った又右衛門は江戸との取引に着手し、商圏の拡張に乗り出します。商売は順調に軌道に乗り、多くの利潤を生み出すようになりました。

ところが1855(安政2)年頃、商品を積んだ船が難破、百両あまりもの損失を招き、資本金を悉く失ってしまします。本家に相談したところ、「事情はわかるが、既に資本金を与えて分家したのだから、今後失敗の度に本家を当てにするようでは行く末が覚束ない。」*1)と非常に厳しいことを言われてしまいました。

しかし、ここでへこたれるような又右衛門ではありません。「苦言は本当に自分の病に効く良薬である。一時的な当て外れには決して屈することはない。」と発奮し、対策を練ります。

結局、又右衛門は以前より昵懇であった奈良の興福院(こんぶいん:奈良市法蓮町88)を頼り、その口添えで、興福院の檀家であった晒布屋・古川弥三郎が大阪内淡路町の薬種問屋・小西万兵衛に預けていた十貫目ばかりの薬種を借りて負債の支払いにあて、窮地を脱しました。
この時、又右衛門33歳。人生において最も苦しい試練の時だったと言います。

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さて、又右衛門と興福院の関係についてつけ加えておきましょう。

又右衛門の母・千代は、京都勧修寺家に縁がある関係で伏見宮家に出入りし、姫の遊戯の相手に召されることもありました。又右衛門も幼い頃より母に連れられて度々伏見宮家を訪れていたことから、伏見宮家の姫が興福院の院主となられた際、又右衛門を贔屓にして下さったようです。又右衛門は、鹿背山焼の奈良方面の販路開拓の際にも興福院の幇助を得ていました。

後年、興福院で寺札の取りつけ騒ぎ*2)が起こった際には、又右衛門はお金を持って駆けつけて騒ぎを収め、長年の恩に報いました。また、1885(明治18)年には多宝塔を寄進、仏殿大修繕、永代祠堂にも浄財を喜捨しています。


*1)又右衛門のひ孫にあたる芝川又次が伝え聞いたところによると、妻子の生活の面倒だけは見るから、もう一度一から出直すように言われたとのこと。

*2)寺札は、寺院がものを購入する際に発行し、年末に檀家からの献納金で決済する約束手形の一種。明治維新の動乱と、続く廃仏希釈の嵐の中で寺院への納金が激減し、危機を感じた人々が寺札を持って寺院に取り付けに押しかけた騒動。


■参考資料
「大阪商工銘家集」(「大阪経済史料集成 第十一巻」、大阪経済史料集成刊行委員会、1977)
「摂津名所図会」(「大日本名所図会 第1輯第5編 摂津名所図会 上巻」、原田幹校訂、大日本名所図会刊行会、1919)
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
「芝川又平自叙伝 現代語訳『瑞芝録』」、芝川又次(非売品)


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