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千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

初代芝川又右衛門 ~蒔絵への情熱 シカゴ万博への出品~

2010-02-08 17:34:06 | 芝川家の人々
明治26(1893)年の「シカゴ万国博覧会(コロンブス世界博覧会)」は、コロンブスのアメリカ大陸発見400年を記念してアメリカで開催されました。

シカゴ万博において、日本は従来のように工芸品を輸出品と捉えるのではなく、工芸を含めた美術品を万博の美術館に展示することで、日本の文化が世界水準であると示すことを目指して、官民挙げて出品物の選定作業をすすめていきます。

シカゴ万博への出品を見据え、「有限責任浪花蒔絵所」から改組された「日本蒔絵合資会社」ですが、その設立者である住友家・芝川家からは共に廣瀬宰平、芝川又平(初代又右衛門)が大阪府の「臨時博覧会事務委員」に選任されます。

大阪府でも「全市総動員の有様」で準備が進められる中、明治25(1892)年12月1日、日本蒔絵合資会社社長 芝川又平宛に次のような通知が届きました。
「閣龍(コロンブス)世界博覧会大阪府下出品に係る渡航代理人の義、総会の決議に基き二名の内一名は貴会社を指名候條御承諾相成度候也。但汽車、汽船賃は中等実費の積を以御渡し可申筈」

この通知を受け、日本蒔絵合資会社役員・野呂邦之助は出品物の種類、意匠などの調整のため、「屏風」「菓子器」「料紙箱」、珍しいところでは「イス、ソーハ(ソファ)、テーブル」といった出品物の一部を携帯して上京します。これらの作品をもとに、森村市太郎、岡倉覚三(天心)、今泉雄作等によって、どのような品物が万博への出品物に適するかが議論されました。

そして明治26(1893)年2月、日本蒔絵合資会社からは「美術品」*)3点を含む計19点の出品が決定し、希望を託されたそれらの品々は、いよいよアメリカの地へと運ばれます。

5月、博覧会が開会しますが、当時、アメリカは史上未曾有の不景気でした。結果、売約品はわずか一点。「開会前よりの期待は全然裏切られ 多年の希望も水泡に帰し」た結果となってしまいました。

価格の高さもあって販売は思うようにいかなかったものの、芝川家の記録によると、出品物のうち「吉野山蒔絵料紙箱」、「客椅子」の2点が「銅牌」を受賞したとあります。最後にその賞状の訳文を掲載し、このお話の締めくくりといたしましょう。

「前世記の最良品に劣らざる名作にして日本美術の此の一種無類なる部門に於て美術的熟練及び忍耐の欠乏せざるを示す。例令は金地及梨子地の上に桜花の浮上げ細工を施したる料紙文庫及硯箱及其他蒔絵の如きは殊に著しき進歩を示す。」


*)万博への出品は「美術品」と「通常品」に分かれており、事前の厳しい審査を経て「美術品」として出品された漆工品はごくわずかだったという。


■参考
初代・芝川又右衛門 ~蒔絵への情熱 日本蒔絵合資会社の設立~


■参考資料
「投資事業顛末概要七 日本蒔絵合資会社」
「世界の祭典 万国博覧会の美術」、東京国立博物館ほか編集、NHK/NHKプロモーション/日本経済新聞社、2004


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。


初代・芝川又右衛門  ~蒔絵への情熱 日本蒔絵合資会社の設立~

2010-02-02 17:42:07 | 芝川家の人々
初代芝川又右衛門は、明治8(1875)年に家督を息子の二代目又右衛門に譲り、又平と称して隠居します。隠居生活の中で又平が力を注いだのが、実家の家業であり、芝川家への入家以前に自らも一時生業としていた蒔絵でした。

明治初期、漆器は西洋の富裕層の間で大変人気があり、日本の重要な輸出品のひとつに位置づけられていました。しかしながら、こういった状況から漆器の粗製濫造が進み、明治10年代半ばには輸出品としての評価にも翳りが見られるようになります。

又平が再び蒔絵を志したのはちょうどその頃のこと。明治18(1885)-19(1886)年頃、又平は道修町4丁目の持家を提供し、篤志者数名を抱えて蒔絵の技の研究に取り組むようになります。更に、より広く長く蒔絵の技術を伝承、発達させたいと蒔絵学校の設立を企図しますが、資金や法規等の関係から実現せず、明治23(1890)年4月、住友、芝川両家で半額ずつ出資して、道修町4丁目6番屋敷に創設されたのが「有限責任浪花蒔絵所」でした。

明治20年代は漆器の製作環境の見直しが図られた時期であり、折りしも前年の明治22(1889)年に開校した東京美術学校(現・東京芸術大学)にも漆工科が設置され、漆工技術の新たな担い手育成への取り組みが始まっていました。

蒔絵学校設立に端を発する浪花蒔絵所も後進子弟の養成を主な目的とすることに変わりはなく、資料からはその設立後も、有効な指導方法や意匠図案の選択について、専門家に意見を求めていたことが伺えます。

さて、浪花蒔絵所開業翌年の明治24(1891)年、2年後に米国で「シカゴ万国博覧会(コロンブス世界博覧会)」が開催されるというニュースが伝わります。これぞ日本独特の妙技・蒔絵を世界に宣伝する好機であるという住友総理人・廣瀬宰平氏の考えの下、浪花蒔絵所では博覧会に向けて業務の進展が計られることとなります。その中で、従来の組合事業から法人への改組が実施され、明治25(1892)年12月、「有限責任日本蒔絵合資会社」が誕生しました。

その設立趣意について、「日本蒔絵合資会社 付属徒弟教養規則」には、
「我国特有の妙技として往古より伝習し来りける蒔絵術をして益滋振起発達せしめん為め是に後進子弟を教養し将来良師良工を輩出し愈精巧緻密を極め我邦特技を海外に発揮せんことを謀る」
と記されており、ここでも後進の育成が目指されると共に、世界の桧舞台である万国博覧会に向けての又平の志や意気込みも伝わってきます。

生徒には入学金、授業料を納めて学ぶ「自費生」の他に、蒔絵会社内に宿泊し、諸物品が貸与される「貸費生」があり、「貸費生」には卒業後満三年、蒔絵所で後進の育成や製品の製作にあたることが義務付けられました。

在学年限は5年間で、授業時間は午前7時始業 午後7時終業のなんと1日12時間、休日は毎月1日と15日、大祭日、年末年始、氏神祭礼に限られており、現代の“ゆとり教育”からは想像もできない教育課程です。

一方、器物製作と筆記・口頭の両試験からなる定期・卒業試験では、試験結果が優秀な生徒にはご褒美が出るという生徒にとっては励みになりそうな規定も。

高度な蒔絵の技術を身につけるためのハードな授業ながら、生徒達は志高く、熱意をもって日々技術の練磨に励んでいたのではないでしょうか。


■参考
初代・芝川又右衛門 ~芝川家入家まで その1~


■参考資料
「投資事業顛末概要七 日本蒔絵合資会社」
「世界の祭典 万国博覧会の美術」、東京国立博物館ほか編集、NHK/NHKプロモーション/日本経済新聞社、2004
東京藝術大学サイト


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芝川又三郎 ~写真、釣り、そして狩猟~

2010-01-29 14:22:41 | 芝川家の人々
「紫草遺稿」に収められた芝川又三郎の日記からは、様々なことに打ち込み、充実した毎日を過ごす又三郎の姿を読み取ることができます。中でも又三郎は旅行・写真・釣り・狩猟が好きだったようで、それらに筆の多くを割いています。


最初に登場するのは写真。又三郎が写真を始めたのは明治26(1893)年、15歳の中学校在学中のことです。7月4日の日記に「昨日写真器械到着せり、本日より暗室に取掛れり」と記されており、8月に入って幾枚か試し撮りをした後、8月10日から写真術を学ぶため、葛城思風*)のもとへ通いました。

そもそも、なぜ又三郎が写真に関心を持ったのかについて明確な記述はありませんが、明治29(1896)年1月発行の雑誌『六稜』第一号に投書した「写真術に就て」という文章には、「自分の好きなことなので、我田引水と思われるかも知れないが」と断った上で、写真の利点として「理化学的なる事」、「体育を助くる事」、「危険ならざる事」、「美術心を起こす事」、「歴史上必要なる事」などを挙げています。

逆に欠点として挙げられているのは、「時間を多く要する事」、「金銭を多く要する事」の二点。確かに当時は写真がまだまだ珍しい時代、機材も相当高価なものであったに違いなく、子弟が趣味として写真を嗜めることは、芝川家の素封家ぶりを垣間見るひとつのエピソードを言えるでしょう。


又三郎撮影:弟・又四郎(千島土地株式会社所蔵 P12_038)


又三郎撮影:須磨(千島土地株式会社所蔵 P12_008)


又三郎撮影:大阪住吉別邸の門(千島土地株式会社所蔵 P25_001)



写真と同じ頃、又三郎は釣りにも夢中だったようです。明治27年8月12日の日記は「世の中に、面白き者を問はば、釣も其一なる可し」と始まり、芝川家の別邸があった須磨において釣りに出かけ、お昼までに96匹もの魚を釣ったと記されています。

後年、又三郎は後述のように狩猟を始めますが、猟期外には釣りを楽しんだようです。



日記に狩猟に関する記事が登場するのは明治32(1899)年~33(1900)年にかけての、熊本の第五高等学校在学中の冬休みのこと。本格的に打ち込むようになったのは、京都帝国大学に入学し、狩猟地であった須磨に通いやすくなってからのようで、明治33(1900)年の猟期が始まると、毎日銃を肩に山に赴き、小鳥の獲物を得たと書かれています。 

少し大きめの獲物を捕ることは一人では難しく、知人から猟犬を借りて兎を仕留めることもありましたが、獲物は大抵鳥だったようで、日記には、船上から鴨を撃とうとしたが、十二番径の銃では射程距離まで近づくのが大変であることや、鶉(うずら)に対し発砲するも命中せず呆然としたといったエピソードが生き生きと描かれています。


猟姿の又三郎(千島土地株式会社所蔵 P06_066) 
弟・又四郎の言によれば、又三郎は獲物の調理もなかなか上手であったそうです。

そんな又三郎、明治34(1901)年には念願の“優秀な”猟犬「トー」を手に入れます。これまで芝川家にも6頭の犬がいたのですが、狩猟に素質ある犬もあれば、「てんでだめ」な犬もあったようで、又三郎は「予は此犬を得たる以上は兎を得る事殆ど確実にして、一度追ひ出さるるときは之を逸する心配なく満足限りなし」とその喜びを綴っています。


愛犬「トー」(千島土地株式会社所蔵 P12_041) 
又三郎が福島良助より譲り受けたこの犬は、もともと西郷侯爵から福島氏に贈られた犬でした。


弟、妹達と愛犬(千島土地株式会社所蔵 P12_006) 



以上、又三郎の愛した写真、釣り、狩猟についてご紹介しましたが、これらに共通するのは野外で体を使う趣味である点です。先述の通り、又三郎自身も写真の利点として「体育を助くる事」を挙げていましたが、幼少時、体が弱かった又三郎は、意識的に野外の空気に触れ、自然の中で体を動かす活動を通じて体力的にも、そして精神的にも自らを鍛えようとしていたのかも知れません。

※文中の年齢は全て数え年で表記しています。


*)葛城思風
写真師。明治10(1877)年に大阪で写真館を開業。


■参考資料
「紫草遺稿」、津枝謹爾編輯、芝川得々、1934
「児童生活第六十八号別冊 紫草の生涯」、庄野貞一
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969


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芝川 又三郎

2010-01-28 10:28:36 | 芝川家の人々
芝川又三郎は、二代目芝川又右衛門の長男として明治9(1876)年に生まれました。

4歳で母を亡くし、祖母・きぬに育てられますが、病弱であったこともあって就学せず、家庭教師から謡曲や習字、絵画、漢籍などを学びます。*)

しかし、初代住友総理事・廣瀬宰平氏からこういった教育法は時代にそぐわないとの忠告を受け、14歳で高等小学校2年に編入。首席で卒業後、大阪府立尋常中学校を経て、明治29(1896)年9月、熊本の第五高等学校へ入学しました。


中学校時代の又三郎(千島土地株式会社所蔵 P12_025)


この年満20歳となった又三郎は、父・又右衛門の命により志願兵として大阪歩兵第八連隊に入隊します。高等学校入学直後、学業の途上での入隊に当初又三郎は意義を唱えますが、「発育盛りの20歳前後に規則正しい軍隊生活を送るのは理想的な健康方法であり、大学卒業後に年をとってから兵役につくのはつらいから」との医師・清野勇氏*2)の勧告を受けた又右衛門の説得に従うことになります。

大阪での1年間の兵役生活を終えた又三郎は熊本での高等学校生活に戻ります。この頃、英語教師として五高に赴任していた夏目金之助(漱石)の授業を受けたそうで、ディケンズの『クリスマス・キャロル』を習ったのだとか。


熊本第五高等学校(千島土地株式会社所蔵 P27_024)
この写真は、又三郎自身が撮影した写真である可能性が高い。


五高卒業後、明治33(1900)年に京都帝国大学法科大学へ入学し、学業のみならず、時折召集される軍事演習に励みながらも、各地を旅行したり、趣味の狩猟や写真を楽しんだりと充実した学生生活を送ります。しかしながら、論文「日本小工業之前途」を書き上げ、卒業試問を間近に控えた明治37(1904)年3月、日露戦争へ召集されます。中途で学業を絶つことを遺憾に思った又三郎は、在阪の講師に卒業試問を実施してもらい法学士号を取得、大学を卒業後、1月も経たない4月23日に大阪築港より出征しました。


出征前の又三郎(千島土地株式会社所蔵 P11_023)


召集された3月6日に記された弟・又四郎宛書簡に、召集に際しての又三郎の心情を窺うことができます。
「・・・小生一身上に取りては出征は遺憾に候へ共、国家の為余儀なき事に候、過日も申通り貴君は小生の如き運命とならざる方法を講ぜられ度候、・・・芝川の国家に対する貢献は小生一身にて充分と存候、生還は期し難く全家の責任は先貴君の双肩にかかり候間、第一身体に注意し、第二に知識を磨き芝川家をして永続せしめん事を祈上候、・・・」

出征後間もない5月26日、日本軍が大きな損害を受けた激戦・南山の戦いで、又三郎は敵の銃弾を受けて重症を負い、2日後の5月28日に戦死を遂げます。享年29歳。

* * *

志願兵陸軍歩兵中尉・芝川又三郎の戦死は、芝川家はもとより、その周囲にも大きな衝撃を与えました。

その様子について、当時芝川商店の店員で、後に又三郎の妹・エンの夫となる塩田與兵衛氏が、その著書「芝川得々翁を語る」の中で以下のように記しています。

「翁(筆者注:二代目芝川又右衛門)の人格が私に最も強く響きましたのは、長男又三郎中尉が日露戦役に南山で戦死された時でありました。・・・当時既に有数の資産家である伏見町芝川家の長男で、まだ世間に数の少なかった法学士で、殊に南山で戦死された時の、日の丸の扇子を開いて部下の進撃を指揮して居られる錦絵迄、御霊神社前の版画屋の店先を賑はして居った、志願兵出身芝川中尉の葬式が、時を同じうせる近傍の志願兵出身将校の葬式と、格段の差を以て質素簡明に行はれましたのは、軍国の世の中によき清涼剤として、無言の警告を世間に与へた観がありました。以後多少葬式の風が改まったやうに感ぜられました。私は芝川の当主は余程偉い人だと云ふ感じを得ました。」

日露戦争をポーツマス条約へと導いた日本海海戦で、日本海軍が大きな勝利を収めた後の明治38年6月、第四師団の計らいで又三郎の追悼式がとり行われます。式には親戚知人はもとより、小学校や中学校の生徒も団体で出席したと言います。


*)記録によると、就学前に又三郎が学んだとして記録にあるのは以下の通り。
 謡曲(生一佐兵衛)、習字(三瓶浩齋)、漢籍(浦上三石)、詩法(田中牛門)、絵(西山完瑛)、抹茶(磯矢宗庸)、囲碁(湖水氏)

*2)清野 勇(1848嘉永元年~1926昭和元年)は、現在の岡山大学医学部や大阪大学医学部の基礎を築いた医学教育者である。清野が少年時代、伊豆国那賀郡中村(明治18年に那賀村に改称)の、土屋宗三郎(三餘)の塾で学んでいたことは知られていない。


■参考資料
「紫草遺稿」、津枝謹爾編輯、芝川得々、1934
「児童生活第六十八号別冊 紫草の生涯」、庄野貞一
「芝川得々翁を語る」、塩田與兵衛、1939
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969


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初代・芝川又右衛門 ~通商司開設・通商会社と為替会社~

2008-08-15 11:14:07 | 芝川家の人々
商業振興や政府のための収税の目的で明治元年に設置された商法司が、その翌年に廃止される1月前、商法司の機能に外国貿易の任務を加えた通商司が各開港場*)に設置されます。

明治2年2月に設立された通商司は、その下に通商会社・為替会社の二社を設置し、前者は商業振興や国内諸商品売買の仲介・外国貿易を統括し、後者では預金・紙幣発行・資金貸出・為替・洋銀・両替などの金融業務を行いました。

既に外国貿易において様々に活躍していた初代・芝川又右衛門も為替会社の御貸付方を命じられ、苗字帯刀御免の仰せ渡しを受けます。

神戸開港文書*2)には、通商司により発行された「苗字帯刀差免につき」という文書が残っており、佐渡屋伝兵衛、高田屋正右衛門、大黒屋六之助と共に百足屋又右衛門の名が記されています。この文書には「9月25日」という日付のみで年代の記述がないのですが、この文書が又右衛門の苗字帯刀を許可した際のものとすれば明治2年頃のものでしょうか。

為替会社において、又右衛門は明治2年9月の為替会社による紙幣・総額60万両の発行に関与し、通商司の建物の表構写真を印刷した紙幣に捺印したと後に又右衛門は回想しています。為替会社によって発行された紙幣を為替会社紙幣と言いますが、全国8ヶ所に設置された為替会社の中では、この明治2年9月に大阪為替会社から発行されたものが最初の為替会社紙幣だったそうです。

それにしても日本銀行だけが紙幣発行を行う現在とは異なり、当時は様々な所が様々な紙幣を発行していたようで、非常にややこしかったのではないでしょうか。


大阪為替会社により発行された為替会社紙幣(左:裏、右:表)
表下部に大阪通商司の玄関写真がはりつけられたので「写真札」とも呼ばれた。
(「大阪商人太平記 明治維新篇」p.33より)

            *  *  *  *  *

通商司は明治4年7月に解散され、全国に設置された為替会社も貸付金回収の滞りなどからそのほとんどが明治5年には解散することとなります。しかし、加入に制限がなく、それぞれが差し出した身元金に対し、月一歩(1%)の利息と利益配当が受けられ、株券譲渡も自由であった通商会社・為替会社は、不十分ながらも「株式会社形態」の先駆であり、殊に為替会社は後の民間銀行設立に向けて大きな役割を果たしました。

現在は当たり前の「銀行」や「株式会社」といった新しい社会の仕組みが、この頃まさに整いつつあったのです。


*)為替会社は東京、京都、横浜、大津、大阪、新潟、神戸、敦賀の8ヶ所に設置されました。

*2)神戸開港文書
神戸大学附属図書館が所蔵する伊藤博文の神戸港に関する文書を始め、神戸港開港当時に港近くの庄屋が持っていた資料などを含む神戸港開港関係の資料コレクション。


■参考資料
「経済史上の明治維新」、宮本又次、大八洲出版、1947
「大阪商人太平記 明治維新篇」、宮本又次、創元社、1961
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)