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千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

初代・芝川又右衛門 ~芝川家入家まで その3~

2008-03-12 13:12:52 | 芝川家の人々
鹿背山焼の製造が軌道に乗るにつけ、次なる課題は製品の販路を開くことでした。又右衛門は淀川を通して製品を大坂へ運び、船場伏見町の唐物商に販路を求めます。

又右衛門は見本品を携えて今橋心斎橋筋の旅宿 紫雲楼*1)に投宿して製品の売り込みを始めますが、何の伝手もない土地での売り込みはなかなか上手くいきませんでした。しかし、そんな二人の様子を察した紫雲楼の主人・平川善右衛門が、寺の同行であった大阪伏見町の唐物商・百足屋芝川新助を紹介してくれます。こうして芝川家と又右衛門のつき合いが始まります。又右衛門は百足屋から徐々に信頼を得、更に大きな唐物商・加賀屋仙助、小西平兵衛らに引き合わされて取引を広げていきました。

こうして大坂での販路獲得に成功した又右衛門は、続いて奈良、京都にも販路を広げていきます。京の五条坂で銅版染付の試作品を作成した日から10年もの月日が過ぎていました。

そんなある日、28歳の又右衛門に人生の大きな転機が訪れます。これまでのつき合いの中で又右衛門の人物を見込んだ百足屋芝川新助から、紫雲楼の主人・平川善右衛門を介して、又右衛門を長女・きぬの婿養子にと懇請されたのです。

鹿背山焼の製陶事業発展の只中にあった又右衛門は悩みますが、芝川家に入婿し、唐物商として生きる決意を固めます。こうして、窯元は出資者の吉田茂左衛門に返還されることになりましたが、1856(安政3)年頃まで、又右衛門は兼業という形で鹿背山の経営に関与していたようです。

*  *  *  *  *

ところで、鹿背山製の陶器の販路先として、又右衛門はなぜ、伏見町の唐物商(貿易商)に目をつけたのでしょう。国産の陶器を販売するのに、なぜ道具商や陶器商に売り込みを行わなかったのでしょうか。

唐物商を取引先に選んだことについて又右衛門は、「当時、唐小間物商が独占的に輸入を行っていた清国の製品と対峙させようと銅版染付の陶器を創意した」と回想しています。事実、又右衛門の手による鹿背山焼には新渡写し*2)が多かったようです。当時、日本は鎖国していましたが、長崎貿易や密貿易を通して輸入された舶来の製品が珍重されていました。しかし、こういった貿易によっておびただしい金銀が海外に流出しており、又右衛門はそのような状況に発憤し、金銀流出に歯止めをかけようとしたとも言われています。

唐物商たちから「舶来品に比べても遜色がない品質」との好評を得ていたという鹿背山焼。その製作の礎には、単に新しい技術で陶器を作るというだけではない、広く国家の利益を見据えた厚い志を感じることができます。又右衛門が持ち続けた広い視点が、蒔絵師の中川利三郎を唐物商・芝川家に結びつけ、その発展に貢献することを可能にしたと言えるでしょう。

*1)紫雲楼
心斎橋筋北浜南入に海船問屋兼旅館を営んでいた米善の支店。明治維新の際には、大阪会議を開いた花外楼に対して、民権運動の主流・愛国社の大会を開き、自由党の板垣退助、片岡健吉、植木枝盛らが会合した所として知られる。
*2)新渡写し
外国からの新しい渡来品を模したもの

■参考資料
「一條家領鹿背山焼」、春田明、山城ライオンズクラブ、1993
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
「芝川又平自叙伝 現代語訳『瑞芝録』」、芝川又次(非売品)


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

初代・芝川又右衛門 ~芝川家入家まで その2~

2008-03-12 11:26:37 | 芝川家の人々
又右衛門の奔走で、なんとか開窯した鹿背山焼でしたが、その後も決して順調に発展した訳ではありませんでした。

当初、又右衛門は鹿背山の窯をさる陶工に任せていましたが、なかなか思うような製品はできませんでした。又右衛門は出資者の吉田茂左衛門の希望もあり、責任上、本業の蒔絵業を一時放棄して、現地へ赴かざるを得なくなります。こうして、又右衛門自らによる本格的な窯元経営が始まりました。

鹿背山に移住した又右衛門はまず、従来の陶工を解雇し、近江国彦根の陶工・佐吉に相談して、その善後策を練ります。窯の欠点を見抜いた佐吉は、膝元から陶工・小川文助を斡旋してくれます。文助は諸国の陶業地を巡歴して製陶法を修行し、特に陶窯築造の術に精通していました。

こうして鹿背山焼の製造は何とか軌道に乗り、職頭格の小川文助、細工人として伊万里陶工の清平ほか4名、彫物師の丹禮、かつての又右衛門の師でもあり、書を担当した近藤有芳、画家の酒井梅斎、銅版絵師の神楽万平、画工は絵師の傳吉ら6名、出納は出資者である吉田茂左衛門(枡屋)の手代・善八が勤め、下働きを含め、常時20余名ほどで運営が進められることになります。

青年又右衛門は、この分業体制を巧みに統御し、一月半毎に一度窯開きを行って、製造商品数をぐんぐん増やしていきました。


雲洞製銅版染付丸紋小皿(「一條家領鹿背山焼」p.27より)

*  *  *  *  *

さて最後に、長年鹿背山焼の研究に携わってこられた春田明氏の著書「一條家領鹿背山焼」から、作品につけられた銘をめぐる大変興味深い記載をご紹介して、本節の締めといたしましょう。

「(鹿背山焼陶器の)高台裏に銘した「専製有権」の文句は、たぶん今日の専売特許を意味したものであろうか。はなはだ興味ぶかい事実である。そもそも専売特許は慶応三年に福沢諭吉が発明特許制度を提唱してから、最初の発明保護法が登場するのは明治四年の「専売略規則」であった。しかしこれは暫定的で一年後廃止され、ようやく近代的な「専売特許條例」が公布されるのは明治十八年まで待たねばならなかった。ところが江戸時代はいうまでもなく発明無保護の状態で、それどころか「新規法度」の世の中であった発明者が他人の模倣に対抗してとるべき唯一の自衛策は、発明を秘匿する以外に方法はなかった。そのような時代に雲洞利三郎(又右衛門。雲洞は又右衛門の号)が明示した「専製有権」は、わが国における発明思想の萌芽をかいま見る思いである。」(春田明著「一條家領鹿背山焼」p.115より) ※( )内、ブログ筆者注




「専製有権」の文字が見られる銅版染付人物鳥獣文鉢
(「一條家領鹿背山焼」p.26より)

■参考資料
「一條家領鹿背山焼」、春田明、山城ライオンズクラブ、1993
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
「芝川又平自叙伝 現代語訳『瑞芝録』」、芝川又次(非売品)


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初代・芝川又右衛門 ~芝川家入家まで その1~

2008-03-12 11:18:26 | 芝川家の人々
江戸末期から明治期にかけて、関西財界で重要な役割を果たした百足屋又右衛門家(百又)の祖 初代・芝川又右衛門。又右衛門は1851(嘉永4)年に芝川家に婿養子として迎えられたのですが、今回は芝川家に入家する以前の又右衛門の足跡についてご紹介しましょう。

初代・又右衛門は、1823(文政6)年に中川重次郎と千代の次男として、京都富小路丸太町に誕生し、幼名を利三郎と言いました。子供の頃より画家・近藤有芳*)について儒学と岸派の絵画を学び、また15歳の頃より塗師である父・重次郎について蒔絵の技術も習得します。

そんな利三郎に転機が訪れたのは、1840(天保11)年、蒔絵を生業として二条御幸町に独立し、名を又右衛門と改めた後のことでした。

この頃 又右衛門は、京都双林寺の近くに住んでいた知人の銅版絵師・神楽万平に誘われて、銅版による陶器染付けを始めます。京都五条坂窯で焼き上げた初めての作品「新渡写赤壁絵煎茶碗」は、おそらく日本初の銅版染付陶器で、これを「近新」という道具商に見せたところ、原価3匁(もんめ)ほどの茶碗1個を8匁で引き受けましょうとの交渉がまとまります。又右衛門はさっそく30個ほどを製作し、その全てを売り渡しました。

京都での文人趣味の煎茶が大流行していたという世情も手伝って、神楽万平と又右衛門の銅版染付の試みは大成功を収めます。しかし、これを実際に事業化するとなれば、独立窯を確保するために莫大な資金が必要でした。万平、又右衛門の若い二人には、とても支払うことのできない額の資金です。

そこで、又右衛門はまず、蒔絵業の得意先としてかねてより目をかけられていた京都の呉服商・吉田茂左衛門(桝屋)に相談し、その投資を懇請します。又右衛門の熱心な説得の結果、茂左衛門の事業への賛同が得られ、事業が成功した暁には利益を分配するという組合的な形態での投資の約束をとりつけることができました。

次に窯を築く場所の選定において、又右衛門は、かねてより面識のあった一條家代官・伊地知豊前介を通じて、良質の陶土を産出する一條家領地・鹿背山(京都府相楽郡木津町)への築窯を依頼します。

しかし、時は老中・水野忠邦による天保の改革の真只中。奢侈の禁止が推し進められ、陶芸界も衰微、その前途が危ぶまれていた世情。一條家から待望の築窯許可が出たのは、1845(弘化2)年、水野が罷免となり、改革の執行者・鳥居耀蔵が処断された後のことでした。

こうして、又右衛門の奔走により、場所、資金が共に整います。1845年、鹿背山の地には三個の窯が築かれ、ここに鹿背山焼の製造がスタートするのです。

*)近藤有芳
名を定安または秀、字は伯仁、士行、士馨、号は千里館、主号を有芳とする。絵画は同功館岸岱に学び、近藤雅楽とも号した。和歌・儒学・書道などの諸芸にもたけていた。


■参考資料
「一條家領鹿背山焼」、春田明、山城ライオンズクラブ、1993
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
「芝川又平自叙伝 現代語訳『瑞芝録』」、芝川又次(非売品)


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