以前こちらのブログでご紹介した大阪住吉の芝川家の別荘。
前回は触れなかったのですが、実はこの別荘について資料中に「欧州大戦中に岡氏という東紡重役に売った」との記述があります。
「東紡」とは恐らく「東洋紡」のこと。東洋紡重役の岡氏といえば、芝川ビルご近所の近代建築「綿業会館」の建設にあたり100万円を寄付された*)岡常夫氏のことではと思い、以前から気になっていました。
それが今回、当社社員が地籍図や登記簿を調査してこの疑問を解決してくれました!
手がかりは資料中の「住吉神社北門の前」、「南海住吉神社横」という別荘の場所の記述。
まず1911(明治44)年の「大阪地籍図」で住吉大社周辺の土地を調べると、まさに北門付近に芝川又右衛門(二代目)が3筆の土地を所有していたことがわかります。
▲『大阪地籍図 市街及接続郡部』(明治44年発行)より
これを1931(昭和6)年、1977(昭和52)年の地図で確認したところ、現在は神社敷地内である下記の場所(第一本宮の奥:青いポイントの場所)と判明いたしました。
更に調べた地番について法務局で登記簿を確認したところ、この土地は1889(明治22)年に芝川又右衛門が取得し、第一次世界大戦中の1916(大正5)年に売却していたことがわかりました。そして気になる売却先は…予想通り「岡常夫」氏だったのです。
この地は1882(昭和15)年に現在の所有者である住吉大社に売却されています。
▲芝川家別荘があったと思われる場所周辺の様子(現在の住吉大社敷地内)
*)岡常夫氏(東洋紡績専務取締役)の「日本綿業の進歩発展をはかるため」との遺言により、ご遺族から寄付された100万円に関係業界からの醸出金50万円を加えた150万円を基金に綿業会館が建設されました。(「日本綿業倶楽部」サイトより)
■参考資料
『市街及接続郡部 大阪地籍地図』、吉江集画堂地籍地図編輯部編纂、明治44
『市街及接続郡部 大阪地籍地図 土地台帳之部』、吉江集画堂地籍地図編輯部編纂、明治44
『芝川得々翁を語る』、塩田與兵衛、1939
『紫草遺稿』、津枝謹爾編輯、芝川得々、1934
※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。
前回は触れなかったのですが、実はこの別荘について資料中に「欧州大戦中に岡氏という東紡重役に売った」との記述があります。
「東紡」とは恐らく「東洋紡」のこと。東洋紡重役の岡氏といえば、芝川ビルご近所の近代建築「綿業会館」の建設にあたり100万円を寄付された*)岡常夫氏のことではと思い、以前から気になっていました。
それが今回、当社社員が地籍図や登記簿を調査してこの疑問を解決してくれました!
手がかりは資料中の「住吉神社北門の前」、「南海住吉神社横」という別荘の場所の記述。
まず1911(明治44)年の「大阪地籍図」で住吉大社周辺の土地を調べると、まさに北門付近に芝川又右衛門(二代目)が3筆の土地を所有していたことがわかります。
▲『大阪地籍図 市街及接続郡部』(明治44年発行)より
これを1931(昭和6)年、1977(昭和52)年の地図で確認したところ、現在は神社敷地内である下記の場所(第一本宮の奥:青いポイントの場所)と判明いたしました。
更に調べた地番について法務局で登記簿を確認したところ、この土地は1889(明治22)年に芝川又右衛門が取得し、第一次世界大戦中の1916(大正5)年に売却していたことがわかりました。そして気になる売却先は…予想通り「岡常夫」氏だったのです。
この地は1882(昭和15)年に現在の所有者である住吉大社に売却されています。
▲芝川家別荘があったと思われる場所周辺の様子(現在の住吉大社敷地内)
*)岡常夫氏(東洋紡績専務取締役)の「日本綿業の進歩発展をはかるため」との遺言により、ご遺族から寄付された100万円に関係業界からの醸出金50万円を加えた150万円を基金に綿業会館が建設されました。(「日本綿業倶楽部」サイトより)
■参考資料
『市街及接続郡部 大阪地籍地図』、吉江集画堂地籍地図編輯部編纂、明治44
『市街及接続郡部 大阪地籍地図 土地台帳之部』、吉江集画堂地籍地図編輯部編纂、明治44
『芝川得々翁を語る』、塩田與兵衛、1939
『紫草遺稿』、津枝謹爾編輯、芝川得々、1934
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