現在、郡山市民オーケストラの「広報」委員をしている関係で、「定期演奏会」その他の「演奏会」に演奏される曲の解説を担当しています。

ルロイ・アンダーソン(Leroy Anderson, 1908年6月29日 - 1975年5月18日)は、アメリカの作曲家。軽い曲調の管弦楽曲で知られる。ほとんどの作品は、アーサー・フィードラーの指揮するボストン・ポップス・オーケストラによって紹介された。作曲家ジョン・ウィリアムズは「アメリカ軽音楽の巨匠」と評している。
ルロイ・アンダーソンは、スウェーデン移民の両親の許にマサチューセッツ州ケンブリッジにて生れる。教会オルガニストを務める母親からピアノの手ほどきを受けた。父親は郵便局員であったが、音楽好きで、家庭ではマンドリンやバンジョーをたしなんでいたという。
地元のハイスクールでラテン語教育を受けた後1926年にハーヴァード大学に入学。楽理をウォルター・スポールディングに、対位法をエドワード・バランタインに、和声をジョルジェ・エネスクに、作曲をウォルター・ピストンに学ぶ。ニューイングランド音楽院にも通い、ヘンリー・ギデオンにピアノを、ガストン・デュフレーヌにコントラバスを師事。1929年に芸術学学士号を、1930年には芸術学修士号を取得してハーヴァード大学を修了し、2年間ラドクリフ大学で教鞭を執るかたわら、バンドマスターやダンスホールのダブルベース奏者、学生合唱団の指揮者や教会オルガニストなども務める。
1938年に音楽家としての転機が訪れる。ボストン交響楽団のマネージャーの求めによって、ハーヴァード大学の学生歌を編曲して提出したところ、指揮者アーサー・フィードラーの目に止まり、オーケストレーションの能力を激賞されたうえ、自作を書くように求められる。これを機に「ジャズ・ピチカート」を作曲・発表し、聴衆の好感触を得た。続編を要請するフィードラーに応えて、今度は「ジャズ・レガート」を作曲、これも好評をとった。
1942年、米軍に入隊し、第二次世界大戦中はスカンジナビア語担当の情報将校としてペンタゴンで働く。これに先立って結婚するとともに、学業を断念した。朝鮮戦争の際にも軍属として活動した。
1957年、メレディス・ウィルソンの「76本のトロンボーン」のオーケストレーションを担当する。これに刺激を受け翌年、ミュージカル「ゴールディロックス」を書いた。同作品はトニー賞を受賞したが、商業的には成功しなかった。アンダーソンは以後ミュージカルを書かず、管弦楽曲の小品の作曲を続けた。
1975年、肺ガンのためコネティカット州ウッドベリーの自宅で死去。66歳没。1988年に「作曲家の殿堂」入りを果たす。彼の音楽は今でもポップス・オーケストラの定番レパートリーとして演奏され続けている。
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The Typewriter「タイプライター」 1950年の作品~タイプライターの打鍵の音を楽器として使っている。「忙しい仕事の場面」のBGMによく使われる。忙しい様子を表している。
The Waltzing Cat「ワルツィング・キャット」もしくは「踊る仔猫」 1950年の作品~ワルツの旋律の中に猫の鳴き声をイメージさせる音が入っている。最後は犬に吠えられて逃げ出す描写で終わっている。
Plink Plank Plunk「プリンク・プレンク・プランク」 1951年の作品~弦楽器(ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバス)のピチカートだけで演奏される曲。途中で、弦楽器本体の裏板を手でこすったり、ダブルベースをぐるぐる回転させるパフォーマンスがある。指揮者等の編曲により、管楽器・打楽器が入る場合がある。ベースラインがテンポを持ち上げる軽快な曲。

フランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert, 1797年1月31日 - 1828年11月19日)は、オーストリアの作曲家。各分野に名曲を残したが、とりわけドイツ歌曲において功績が大きく、「歌曲の王」と呼ばれることもある。
ロザムンデ
『キプロスの女王ロザムンデ』(Rosamunde, Prinzessin von Zypern )作品26、D797は、フランツ・シューベルトが同名のロマン劇のために作曲した劇付随音楽である。『ロザムンデ』と略される。
この付随音楽は、ベルリン出身の女流作家ヘルミーネ・フォン・シェジー(1783年 - 1856年)の戯曲『キプロスの女王ロザムンデ』のために作曲された。シェジーは1823年の10月にウェーバーの歌劇『オイリアンテ』の台本を書き、その初演に立ち会うためにウィーンに滞在していたが、10月25日にケルントナートーア劇場で行なわれた上演が不評だったため、急遽名誉挽回のために『ロザムンデ』を12月20日に書き上げ、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で上演した。しかし劇は翌日再演されただけで上演が打ち切られてしまった。その劇音楽の作曲を依頼されたのがシューベルトで、12月20日の初演までの短い期間で、10曲からなる付随音楽を完成させた。
この時、序曲だけが間に合わず、その前年に作曲された歌劇『アルフォンソとエストレッラ』D732の序曲を転用した。『アルフォンソとエストレッラ』は、シューベルトのかなりの自信作であったが、ウィーンで上演されることがなかったため、序曲だけでも人々の耳に触れさせるために意図したと考えられている。後に、1820年に作曲されてかなりの評判を得た劇付随音楽『魔法の竪琴』D644の序曲が『ロザムンデ』の序曲として転用された。この『魔法の竪琴』序曲の自筆の草稿には、後に何者かによって『ロザムンデ作品26』というタイトルが書き込まれていて、かなりややこしくなっている。
上述の通り、1823年12月20日に初演がアン・デア・ウィーン劇場で行なわれたが、台本の稚拙さゆえに失敗に終わってしまった。舞台は貧弱で、主役の女優が下手だったことや、ウェーバーとシューベルトが『オイリアンテ』のことで仲違いをしたために、ウェーバーの支持者たちが可能な限り上演を妨害したからだといわれている。『ロザムンデ』の台本は散逸してしまい、現在は音楽だけが残っている。しかしシューベルトの音楽は、初演当時から好評をもって迎えられたのは事実であり、現在でも部分的にはたびたび演奏されている。

『ヘンゼルとグレーテル』
ドイツの作曲家エンゲルベルト・フンパーディンク(Engelbert Humperdinck, 1854年9月1日 - 1921年9月27日)は、ワーグナーの助手を務めたこともある、主として劇場用の音楽を書いた人です。代表作『ヘンゼルとグレーテル』は、今日でもクリスマスのシーズンになると、ヨーロッパ各地でさかんに演奏されるメルヘン・オペラの傑作です。
この前奏曲(約8分)は、ヘンゼルとグレーテルの二重唱「祈りの歌」など、オペラの中の旋律を使って、親しみやすくメルヘン的な雰囲気を巧みに醸し出しており、単独でも演奏される機会の多い作品です。
あらすじ
1幕 - 貧しいほうき職人、ペーターの家で、二人の子供のヘンゼルとグレーテルが遊んでいるが、お腹が空いたが、貧乏で食べるものがない。仕方がなく、二人で踊って空腹を忘れようとするが、床に転んでしまう。そこへ2人の母親のゲルトルートが帰宅して、2人が遊んでばかりで仕事をしないことを叱りつける。彼女は2人の子供に森へ行って、いちごを摘んでくるように言いつける。ペーターが帰宅し、暗くなっても子供たちがまだ戻ってこないことに夫婦は心配になって、森へさがしへ行く。
2幕 - 兄妹は森の中でいちごを食べていたが、気が付くとすっかり暗くなっていた。眠りの精という小人が背負っている袋から砂を取り出して兄妹にかけると、2人は眠ってしまう。
3幕 - 夜が明け、朝もやが消えると、兄妹は森の中にお菓子でできた大きな家があることに気が付く。兄妹は喜んで食べていると、家のなかから魔女が出てきて、甘い声をかける。子供たちは信用しないので、ヘンゼルに魔法をかけておりに入れてしまった。魔女はグレーテルを働かせてヘンゼルを太らせて食べようと考えている。ヘンゼルは小枝を使ってまだ太っていないとごまかし続けている。グレーテルは魔女の呪文を覚えて兄を助ける。二人は魔女がかまどを開けた時、かまどに押し込んで閉じ込めた。かまどが爆発し、中から魔法で閉じ込められていた子供たちも出てくる。皆で喜び合っていると、ペーターとゲルトルートが現れた。夫婦は自分の子供たちの無事を喜ぶ。