浅子は、明治44年クリスマスに受洗、翌45年2月、女子青年会の中央委員に推挙され、以後、毎夏開催された女子青年会夏期修養会にほとんど毎年参加、講演、講話、感話、懇談会を行ってきている。
このような継続的な活動は、当然、軽井沢の三泉寮の夏期寮などにおいてもなかったことであり、最晩年という彼女の年齢や体調のことを考えると、基督者としての使命感やその実践力、行動力に敬服せざるをえない。
一方、この頃、成瀬仁蔵は、姉崎正治らとともに帰一協会の活動に最後の情熱を傾け、欧米にも遊説に出かけており、その「帰一化」「世界維新」への情熱にも敬服せざるをえない。
しかし惜しくも、一方は大正8年1月、他方は同じく同年3月、道半ばで逝去している。
明治45年夏から浅子が死去する前年の大正7年夏までに開催された女子青年会夏期修養会の内、浅子は、大正4年と7年を除いて、毎年参加、講演、感話などを行っている。
不参加であった大正4年については、浅子は別途講演活動を行っており、『女子青年界』誌によれば、4月15日、東京で開催された東京協同伝道の婦人大会において、弁士の一人として、新渡戸稲造、外村義郎とともに講演を行っている。
また大正7年については、4月27日、大阪基督教女子青年会大会が天王寺公会堂において開催され、浅子は、女子青年会本部幹事の河井道子と並び、講演を行っている。浅子は、大正6年秋に創立に着手し、翌7年3月、組織された大阪基督教女子青年会の創立委員長を務めていた。副委員長は、石神八重子と大塚常子である。
このように老体に鞭打って実践・実行する浅子の使命感とは、どのようなものなのであろうか。その一端は、大正6年10月、女子青年会の修養会の講話「奨励」においてうかがうことができるだろう。
「私は戦後の日本を思ふ時、真に此の儘では継続は危ぶまれるのであります。どうしても二十世紀は児童の世紀であり、婦人の世紀であります。、、、此処で皆様と共に考えたい事は、男子の間にたち誘惑に打勝つと云うことで、婦人の力を国家社会に及ぼすことは困難の事でありますが、これを見逃しにして居れば怒涛の中にただよわねばなりません。、、、我々は真に国家の母とし妻として、民本主義の国是をしかなくてはなりませぬ。これ日本をして世界に光輝あらしめる所以であると思ひます。婦人が真の力を出し、人のことを破壊するのでなく共に共に助けて、本当に婦人の事業を発達せしめる様にしなくてはなりませぬ。青年会にしろ矯風会にしろ、成功するようにしたいと思ひます。、、」(『女子青年界』文責記者、八ー九頁)
このような継続的な活動は、当然、軽井沢の三泉寮の夏期寮などにおいてもなかったことであり、最晩年という彼女の年齢や体調のことを考えると、基督者としての使命感やその実践力、行動力に敬服せざるをえない。
一方、この頃、成瀬仁蔵は、姉崎正治らとともに帰一協会の活動に最後の情熱を傾け、欧米にも遊説に出かけており、その「帰一化」「世界維新」への情熱にも敬服せざるをえない。
しかし惜しくも、一方は大正8年1月、他方は同じく同年3月、道半ばで逝去している。
明治45年夏から浅子が死去する前年の大正7年夏までに開催された女子青年会夏期修養会の内、浅子は、大正4年と7年を除いて、毎年参加、講演、感話などを行っている。
不参加であった大正4年については、浅子は別途講演活動を行っており、『女子青年界』誌によれば、4月15日、東京で開催された東京協同伝道の婦人大会において、弁士の一人として、新渡戸稲造、外村義郎とともに講演を行っている。
また大正7年については、4月27日、大阪基督教女子青年会大会が天王寺公会堂において開催され、浅子は、女子青年会本部幹事の河井道子と並び、講演を行っている。浅子は、大正6年秋に創立に着手し、翌7年3月、組織された大阪基督教女子青年会の創立委員長を務めていた。副委員長は、石神八重子と大塚常子である。
このように老体に鞭打って実践・実行する浅子の使命感とは、どのようなものなのであろうか。その一端は、大正6年10月、女子青年会の修養会の講話「奨励」においてうかがうことができるだろう。
「私は戦後の日本を思ふ時、真に此の儘では継続は危ぶまれるのであります。どうしても二十世紀は児童の世紀であり、婦人の世紀であります。、、、此処で皆様と共に考えたい事は、男子の間にたち誘惑に打勝つと云うことで、婦人の力を国家社会に及ぼすことは困難の事でありますが、これを見逃しにして居れば怒涛の中にただよわねばなりません。、、、我々は真に国家の母とし妻として、民本主義の国是をしかなくてはなりませぬ。これ日本をして世界に光輝あらしめる所以であると思ひます。婦人が真の力を出し、人のことを破壊するのでなく共に共に助けて、本当に婦人の事業を発達せしめる様にしなくてはなりませぬ。青年会にしろ矯風会にしろ、成功するようにしたいと思ひます。、、」(『女子青年界』文責記者、八ー九頁)