成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

軽井沢の桂太郎別荘(M43)そして渋沢栄一、成瀬仁蔵、広岡浅子

2018年08月07日 | 歴史・文化
 離山の桂太郎別荘は、明治43年に竣工、約90坪の木造平屋建で、敷地は3000坪であるという。
 岡村八寿子『祖父野澤源次郎の軽井沢別荘地開発史』(2018年8月1日刊)によると、
同別荘は、大正7年頃、野澤源次郎が取得、晩年まで使われ、現在は㈱野澤組の夏の保養所として
使われているという。機会があれば是非拝見したいものである。
 明治43年夏といえば、8月10日を中心にして豪雨が連日続き、矢ヶ崎川が氾濫、多くの家屋が浸水した。
 当時、時の首相桂太郎や前首相の西園寺公望が軽井沢の別荘でそれぞれ避暑をしていた。
 しかし豪雨による災害のため、桂首相は、足止めをくらい、条約調印に間に合わせるべく工兵隊が出動
して辛うじて軽井沢を脱出、東京に向かったという。
 図は、岡村八寿子著の前掲書に掲載されているもので、監修者の大久保 保さん(軽井沢ナショナル
トラスト前会長)が提供されたものである。
 明治15-17年代の軽井沢の大地主の所有地を再現したもので、地図は明治22年のものであるという。
 左上に離山があり、碓氷新道をはさみ、左下から順に、雨宮敬次郎、桂太郎、川上操六の所有地が示されている。
 日本女子大学校の創立者・成瀬仁蔵は、渋沢栄一、森村市左衛門と共に、北越地方で巡回講演旅行を行う
ことになり、まず8月4日、一番列車で軽井沢に向かい、三笠ホテルに到着した。連日の豪雨の直前に泊まったことになる。
 ちょうど桂総理と西園寺侯が軽井沢滞在中ということなので、森村は頭痛のため休養をとり、
成瀬と渋沢栄一が雨が降り風が吹く中を馬車で桂太郎の別荘に向かった。
 三笠ホテルから離山までは、自動車なら当時でもそれほど時間がかからなかったと思われるが、
雨と風の中を馬車で向かったので時間がかかったようである。







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