成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

広岡浅子刀自追悼会と校長・麻生正蔵(1) 故浅子記念の寄付金とは

2015年08月04日 | 歴史・文化
 大正8年6月28日、広岡浅子の追悼会が東京目白の女子大学校の講堂において開催された。
 追悼会の主催者で、成瀬仁蔵の後継者である麻生正蔵(校長)は、追悼の辞において次のように述べている。
「処が刀自は創立事務費を投ぜられたのみならず、創立の計画及び事業に実際上参与され、特に明治29年秋以来は東京にも上られ自分の家業に関する重要事件をも後回しとして東奔西走、、、又桜楓会の設立や発展の為にも多大な力を貸され、其他陰に陽に本校が刀自に負う所は頗る偉大なものであります。而して刀自の本校に対する奮闘的助力は刀自が六十三歳即ち明治四十四年の冬に至る迄、十有五年間継続されたのであります」(「家庭週報」)
 この追悼の辞において、「刀自の本校に対する奮闘的助力は刀自が六十三歳即ち明治四十四年の冬に至る迄、十有五年間継続されたのであります」というくだりは、読みようによっては、浅子の助力は明治四十四年の冬迄で、それ以後はなかったようにも読み取れよう。
 浅子を追悼する会において、その主宰者がこのような辞を述べるということは、筆者にとっては驚きであり、麻生正蔵という人はどういう人なのだろうというある種のとまどいをおぼえてしまう。
 しかしあえてこのような会においてこのような辞を述べるということは、明治44年の冬(浅子の大阪教会におけるクリスマス受洗を指す)を境にして、浅子が次第に女子大学校から離れていったという理解・認識が麻生にはあったように思われてもくる。これは、当時、麻生だけでなく、周辺の多くの人たちが共有する理解・認識であり、格別驚くにはあたらないことなのだろうか。
 たしかにいわれてみると、すでに寄付行為においては、あきらかに浅子の女子大学校離れは明瞭である。成瀬仁蔵による女子大学設立計画について、最初に金銭的な支援をしたのは、大阪の広岡浅子、奈良の土倉庄三郎であった。両名は各五千円を寄付したが、それは麻生が上述する「創立事務費」として使われたのであろう。加えて浅子は、麻生がいうとおり、家業を後回しにして東奔西走したのである。浅子のこのような金銭的支援と献身的な活動がなければ女子大学校は開校できなかったといっても過言ではないだろう。
 そして創立資金の寄付としては、明治36年6月22日の時点で、浅子は夫・広岡信五郎名義で金五千五百円を寄付している(ちなみに土倉庄三郎も同額を寄付)。この時点で、岩崎久弥、鴻池善右衛門は各五千円、渋沢栄一は参千円、大隈重信は壱千五百円(ほかに綾子夫人が五百円)、伊藤博文、西園寺公望、山県有朋、近衛篤麿は各五百円を寄付しているので、浅子の金銭的な支援がかなりなものであったいえよう。
 しかし大正5年、成瀬仁蔵は、女子大学校の創立15周年にあたり、「第三発展の機運」と称して、基金の募集やその経過について報告している。
 それによると、渋沢栄一、森村市左衛門の各25000円を筆頭に、ついで大倉孫兵衛、住友吉左衛門、久原文子、古河虎之助の各10000円と続くが、寄付者としての浅子の名前はもはやそこには見出されない。森村組としては、市左衛門、孫兵衛のほか、森村勇(豊の子息)が5000円、村井保固が3000円を寄付していることに注目したい。なお、「桜楓会補助団員諸氏」として6220円の寄付があり、浅子の寄付金がそこに含まれていることはあるかもしれない。ここには、「成瀬・渋沢・森村」という三者の強固な関係が形成され、さらには「帰一協会」の活動へも発展し、浅子が離脱していくという構図がみえてくるようにも思われる。
 このように女子大学校に対する寄付行為が少なくなる、あるいは無くなっていく一方、基督教関係に対して、浅子の金銭的な支援は増加、増大していくといえるだろう。
 浅子の追悼会の直前の大正8年5月、浅子の後継者・広岡恵三(浅子の娘・亀子の養子、大同生命社長)は、故・浅子の記念として、日本基督教女子青年会本部事業に対して金壱千円、さらに大阪女子青年会に対して金壱千円を寄付している(2015年1月15日の当ブログ参照)。
 前後するが、生前、浅子は、夏に開催される女子青年会の夏期修養会に対しても、多額の寄付をしている。ここにはあきらかに浅子が夏の軽井沢・三泉寮から女子青年会の夏期修養会へ軸足を移していくことがよみとれよう(2015年7月7日の当ブログ参照)。
 小橋三四(クリスチャン)が創刊した「婦人週報」に対しても、浅子は金銭的な支援を惜しまなかった。
 桜楓会についても、同様で、浅子は桜楓会補助団を組織支援し、一柳満喜子をも団員に加えるが、次第に離れていく傾向をみてとることができるだろう。明治45年には、桜楓会実業部の現状、活動について辛辣な批判を呈している(2015年3月28日の当ブログ参照)。
 このようにみてくると、麻生正蔵の理解・認識は正確であり、「刀自の本校に対する奮闘的助力は刀自が六十三歳即ち明治四十四年の冬に至る迄、十有五年間継続されたのであります」というのは、あたっているのかもしれない。
井上秀は、後年、恩義を受けた浅子について、次のように語っている。
「晩年は事情あって、日本女子大学とも桜楓会ともはなれて、校葬をしてさしあげていい資格の方なのに、その事もなく、逝去されてしまいましたが、日本女子大学および桜楓会はこの方の不朽の功績に対し、益々、、、、  」




















麻生正蔵(部分)、明治40年頃、『麻生正蔵著作集』より 


麻生正蔵(中央、白いパナマ帽)、大正15年、軽井沢、『麻生正蔵著作集』より 


 
 

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