浅子は、大正7年8月1日から3週間、御殿場で聖書講義の会を開催している。講師は日野真澄(同志社もと神学部長)、参加者は12名の姉妹である。
日本基督教女子青年会では、恒例の夏期修養会が、神戸女学院において7月16日から24日まで(34校、263名参加)、また仙台の尚絅女学校において7月23日から31日まで(34校、196名参加)開催された。
神戸女学院の修養会では、宮川経輝、山室軍平、賀川豊彦らが講演をしているが、浅子は参加せず、講演などもしていない。
これには理由もあった。大正7年3月、大阪基督教女子青年会の創立委員会が設置され、浅子は委員長に就任、4月27日、大阪女子青年会大会が天王寺公会堂において開催され、事実上の発会式となり、女学生と高等女学校卒業生ら1000余名が出席した。浅子は、、女子青年会本部幹事の河井道子と共に、講演を行っており、大阪女子青年会のスタートがきられたところであった。
女子青年会では、つぎに神戸女子青年会の設立を計画しており、昨年に続いて、2年連続、夏期修養会を神戸女学院で開催したのはその布石であったともいえよう。
御殿場での聖書講義の会には、小橋三四が主宰する「婦人週報」の同人・佳子が一週間参加し、その「御殿場日記」が同誌に掲載されている。
クリスチャン浅子は、「聖書」そのものを読むことを主眼としており、三四によれば、この両3年毎夏、御殿場の別邸に日野真澄を招き、聖書講義の会を開催していたという。
12名の参加者姉妹は、広岡別邸2階の4部屋に割り当てられ、佳子は一番若い人たちの部屋に同宿した。一番若いKさんはまだ学生(京都弁で話す)、Tさんは幼稚園勤務、Eさんは九州から来た母親あるいは叔母さん世代の人であった。
このように浅子が主宰する御殿場での聖書講義の会では、女子青年会の夏期修養会のように女学生や若い女性が多いというわけでは必ずしもなかったようである。
聖書講義の会が終わると、佳子によると、「田の中にうねる白く巾広い道を辿って私達はよく散歩に出かけた。北へ北へと木立を抜けて行けば、外人村へと入る、アメリカ村、いつとはなしにそう呼ぶ様になった。その村は外人間で堅い規約の許に建てられたので、決してみだりな人は住む事を許されない。その平和な村が軟い薄闇に染められて行く頃であった」と記されている。
この記述によると、広岡別邸は、亜米利加村からかなり距離感があるように思われる。亜米利加村は、最初は二の岡神社の敷地内にあったが、大正7年頃、神社の近くの宮内庁御料地の払い下げを受け移転した。
浅子は、御殿場での最後の夏を、おそらくは小橋三四ともコンタクトをとりながら、この年の暮に出版する『一週一信』(婦人週報社)の原稿にかかっていたのではないだろうか。
一方、成瀬仁蔵は、最後の夏を、(浅子がもはや滞在しない)軽井沢の三井三郎助別荘にかなり長期にわたって滞在したように思われる。「家庭週報」によると、7月31日、三泉寮における第1期(3年生寮)の夏期寮において講演、翌8月1日にはその続きを行っている。そして8月18日から始まった第2期寮(4年生寮)においても講話を行い、9月1日、成瀬仁蔵は軽井沢を出発、3日に帰京している。詳しくは次のブログ記事を参照されたい。
日本基督教女子青年会では、恒例の夏期修養会が、神戸女学院において7月16日から24日まで(34校、263名参加)、また仙台の尚絅女学校において7月23日から31日まで(34校、196名参加)開催された。
神戸女学院の修養会では、宮川経輝、山室軍平、賀川豊彦らが講演をしているが、浅子は参加せず、講演などもしていない。
これには理由もあった。大正7年3月、大阪基督教女子青年会の創立委員会が設置され、浅子は委員長に就任、4月27日、大阪女子青年会大会が天王寺公会堂において開催され、事実上の発会式となり、女学生と高等女学校卒業生ら1000余名が出席した。浅子は、、女子青年会本部幹事の河井道子と共に、講演を行っており、大阪女子青年会のスタートがきられたところであった。
女子青年会では、つぎに神戸女子青年会の設立を計画しており、昨年に続いて、2年連続、夏期修養会を神戸女学院で開催したのはその布石であったともいえよう。
御殿場での聖書講義の会には、小橋三四が主宰する「婦人週報」の同人・佳子が一週間参加し、その「御殿場日記」が同誌に掲載されている。
クリスチャン浅子は、「聖書」そのものを読むことを主眼としており、三四によれば、この両3年毎夏、御殿場の別邸に日野真澄を招き、聖書講義の会を開催していたという。
12名の参加者姉妹は、広岡別邸2階の4部屋に割り当てられ、佳子は一番若い人たちの部屋に同宿した。一番若いKさんはまだ学生(京都弁で話す)、Tさんは幼稚園勤務、Eさんは九州から来た母親あるいは叔母さん世代の人であった。
このように浅子が主宰する御殿場での聖書講義の会では、女子青年会の夏期修養会のように女学生や若い女性が多いというわけでは必ずしもなかったようである。
聖書講義の会が終わると、佳子によると、「田の中にうねる白く巾広い道を辿って私達はよく散歩に出かけた。北へ北へと木立を抜けて行けば、外人村へと入る、アメリカ村、いつとはなしにそう呼ぶ様になった。その村は外人間で堅い規約の許に建てられたので、決してみだりな人は住む事を許されない。その平和な村が軟い薄闇に染められて行く頃であった」と記されている。
この記述によると、広岡別邸は、亜米利加村からかなり距離感があるように思われる。亜米利加村は、最初は二の岡神社の敷地内にあったが、大正7年頃、神社の近くの宮内庁御料地の払い下げを受け移転した。
浅子は、御殿場での最後の夏を、おそらくは小橋三四ともコンタクトをとりながら、この年の暮に出版する『一週一信』(婦人週報社)の原稿にかかっていたのではないだろうか。
一方、成瀬仁蔵は、最後の夏を、(浅子がもはや滞在しない)軽井沢の三井三郎助別荘にかなり長期にわたって滞在したように思われる。「家庭週報」によると、7月31日、三泉寮における第1期(3年生寮)の夏期寮において講演、翌8月1日にはその続きを行っている。そして8月18日から始まった第2期寮(4年生寮)においても講話を行い、9月1日、成瀬仁蔵は軽井沢を出発、3日に帰京している。詳しくは次のブログ記事を参照されたい。