成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

慰問袋に「郷土人形」、そして荒鷲に「マスコット」を 昭和17年

2016年04月14日 | 歴史・文化
戦線の拡大と熾烈化に伴い、戦地の兵隊さんに慰問袋を贈り、激励することがはじまる。
戦争を未然に防ぎ世界平和を実現しようとしたとき、人形(青い目の人形)が登場したが、戦争が激化するにつれて再び人形が登場する。
郷土人形とマスコットは、その代表であろう。とりわけマスコットは戦争人形史上、異色の存在である。
マスコットは英語、仏語でお守りというような意味である。敵性用語が排斥される中、特攻隊で死に赴く若い飛行士に女学生が贈るお守り人形として敵性用語の使用が容認された希有の例であろう。
1月、附属高女では、戦地の各郷土の部隊に郷土色を盛った可愛い人形を手作りし、慰問の手紙を添えて贈っている。
これはもちろんナショナリズムと関係しているが、この頃、郷土玩具を愛好する運動が盛んになったことと関係している。慰問袋には、日の丸を描いたこけしや護り雛などが入れられ、武運長久が祈られた。
3月(第二次戦捷祝賀の日)、海軍特別攻撃隊へ贈る慰問袋240個がさして歳も違わぬ附属高女生徒により製作され、卒業を目前に控え多忙な5年生に代わり4年生一同が徒歩で海軍省に持参し献納している。
5月(端午の節句)、附属豊明幼稚園では武者人形を飾り尚武のお祝いをする。男女共学の同幼稚園では、ひな祭りだけでなく、端午の節句をもお祝いしたようである。
9月、男児の学園の卒業生がマレー戦線で戦死するという厳しい現実が待ち受けていた。山内完一氏は豊明幼稚園を卒園後、士官学校、沼津航空学校を卒業し、南方のマレー戦線に赴いたが、開戦と同時に戦死、翌昭和17年9月無言の帰国をされ、護国寺前から出発した葬列には沿道から大学や高女の生徒が英霊をお迎えした。
同9月、陸軍航空隊の多くの荒鷲がマレー戦線で散華し、陸軍当局の希望により附属高等女学校では可愛いマスコット人形を作り、陸軍航空本部を通じて第一線の陸鷲部隊に贈っている。

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