成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

広岡浅子(クリスチャン)と成瀬仁蔵(帰一協会)、大正時代

2015年03月28日 | 歴史・文化
 浅子は、女子高等教育機関(女子大学)の実現のために、成瀬仁蔵を献身的に支援した。
明治34年、日本女子大学校が創立され、明治36年、桜楓会(卒業生の同窓会組織)が設立され、明治39年には軽井沢の学寮・三泉寮が三井三郎助より寄贈された。
 その後、明治44年クリスマス、浅子は大阪教会で受洗するが、一方、成瀬仁蔵は明治45年、渋沢、森村、姉崎らと「帰一協会」を設立する。
 浅子は、「私は長い間キリスト教には反対で此宗教の悪口を云って六十年の生涯を過ごして来たのでありますが、今から思うと反対すると云うよりは寧ろ知らなかったのであります。然るに六十一歳になって色々の事を経営して見たがどうも物足らぬ思いがしました。後イエスの教えを聞き其御足の下に真実跪き罪を謝したのであります、、、私は今年六十八歳であるが暑さにも寒さにも困らず暮らす事が出来るのは、、、神の御霊の力であると思います」と述べている。
 ちなみに、『新女界』は、明治42年、海老名みや(海老名弾正夫人)、安井てつ(のちに東京女子大学学長)らにより創刊された女性信徒向けの雑誌である。なお、海老名弾正は帰一協会会員として名前を連ねている。
 一方、成瀬仁蔵は、明治45年、帰一協会を設立後、欧米巡遊の旅に出ることになり、出発直前、「東西の握手、帰一協会の成立と世界的関係」と題して「家庭週報」に一文を寄稿している。「△古への宗教、宗教も「人間の運命は如何ともする事は出来ぬがこれを救ひ之に慰安を与ふる」といふ事を以って極度の使命として居った。併し其の宗教それ自らさへ自ら祭る神に矛盾があった。例へば善の神あれば一方に悪の神があった。、、」と述べている。
 クリスチャン浅子と帰一協会の成瀬との間には、立場や思想に微妙な相違があるといえるだろう。ちなみに成瀬は、大阪の浪花公会で沢山保羅(同郷の先輩)により受洗(M10)、大和郡山教会初代牧師(M17)、新潟教会初代牧師(M19)の時代があった。
またちなみに平塚らいてうは、「自伝」で、「成瀬先生は、御自身が若くして敬虔なクリスト者であり、牧師の聖職にも長くついていた方でありながら、しかも当時の女子大には、梅花女学校時代の教え子であるクリスチャンの学生が少なくなかったにかかわらず、実践倫理でクリスト教を説くようなことはありませんでした。それどころか、むしろ、憎しみを帯びた強い口調で、既成宗教としてのクリスト教の独断や偏見を非難して、感情的な婦人が、現在あるところの教会や教団のなかに、安易な信仰を求めようとする態度のあやまりを戒めるのでした。熱心なクリスト者であった成瀬先生のこうした宗教的な転機は、すでに早くからあらわれていたものらしく、、、この広い自由な宗教観にもとづき、のちに「帰一協会」を創立されたことが、「日本女子大学四十年史」になかにみられます。この帰一的宗教観は、女子大存立の本源の精神と表裏一体のものとして、成瀬先生がもっとも熱烈に説かれたことでした。成瀬先生の熱心な心酔者となったわたくしは、いつもきちんとノートをとり、質問するばかりでがなく、あとからわざわざ先生をつかまえて、、」(『自伝』139-140頁)と述べている。浅子とらいてうについては、当ブログ2015年9月29日「浅子と花子・房枝・三四子・らいてう」、2016年3月12日「浅子と秀、そしてらいてう」を参照。
 同じ明治45年、浅子は、「また学問も相当にある団体で、実業部といふものを置き度いといふので、始め私もその計画に預り、兎に角雑貨部、書籍部、銀行部、園芸部等を設置したはよいが、幾年経っても何の発展もしない。これ等は一定の顧客を持ち、義務の需要者あるに安んじて居るので、自然眠って終うのであります」と述べている。これが桜楓会の事業として始められた「実業部」を指していることは明らかであろう。
 この実業部ということに関して、浅子は、自分の試みつつある事業として、大阪の愛国婦人会支部の授産場の事業を挙げている。「私は十年前大阪の愛国婦人会支部で、遺族の為に授産場を設ける時、最初から遊戯にならない様に注意し、幸い相当の教育ある婦人で、熱心に働いてくれられた者があったので、今日立派に進歩発展しつつ行く事が出来る様になりました。先ず遺族にはミシンを習わせ、、、、商売人と競争して請け負うて裁縫させる、、、今日では会に相応の資産が出来、且つ世間からは、、、」(前掲書)。
 愛国婦人会大阪支部は、浅子が会長の大阪知事夫人を説得して、遺族や貧困者の為に救済事業(授産事業)を起こし、就業訓練と職業を世話し、自立を支援していた。ここが浅子の非凡なところであり、「相当の教育ある婦人」とはおそらく富樫眞喜子、服部たい子のことであろう。
 桜楓会は、全体としては、社会事業、たとえば託児所事業などを先駆的に起こし、働く婦人や農繁期の農村婦人らを支援、社会的に貢献しているので、浅子の批判が必ずしも当たっているとは云い難い。神奈川県川崎市西生田における農繁期農村婦人支援については筆者の別のブログを参照されたい。
 浅子が帰一協会に誘われたかどうかについては、調査不足で筆者にはわからない。『帰一協会会報』末尾に毎号更新され掲載されている会員名簿には、浅子の名前を見出すことはできない。またおそらくたまたまなのであろうが、帰一協会には女性会員がほとんど皆無である。








 





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