成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

広岡浅子と桜楓会補助団、そして地方支部主催巡回講演会

2015年10月22日 | 歴史・文化

浅子が日本で最初の女子高等教育機関の誕生に深くかかわりかつ支援したのは、その設立準備期間と、開校後、卒業生が巣立ち、その同窓会を支援する桜楓会補助団を組織した時であろう。
 成瀬仁蔵は、生涯教育の構想を「桜楓樹」という図式であらわし、桜楓会の在り方や活動をその根、幹、枝葉において位置づけている。しかしそこに桜楓会補助団という組織や名称は見当たらないので、「桜楓会補助団」は浅子が創案したものであろう。
 日本で最初の女子大学校を創立する際に、浅子は成瀬仁蔵と二人三脚を組み準備活動に邁進、とくに賛助員や寄付金を集めることについては、浅子が多大に貢献した。
 そして開校後、4年が経過し、明治37年、最初の卒業式が行われた翌日、同窓会第一回総会が開催された。翌38年、三井三郎助夫人・寿天により桜楓館が寄贈され、生涯教育の組織とその建物が完備されたことになる。
 浅子が桜楓会補助団を組織したのは、その翌年・明治39年のことである。つまり、浅子は、日本で最初の女子大学校の誕生に強力に支援したのと同じように、日本で最初の女子大学校の同窓会組織、生涯教育の組織の運営を強力に支援しようとしたのである。
 この補助団構想に賛同し発起人となったのが婦人たちであった。三井家の寿天子(小石川家)、苞子(北家・本家)、広岡家の亀子(娘、恵三夫人)、夏子(久右衛門夫人)、渋沢栄一夫人兼子、大隈重信夫人綾子、森村市左衛門夫人菊子、住友吉左衛門夫人萬壽子、大倉孫兵衛夫人夏子、村井保固夫人キャロライン、長井長義夫人テレーゼら女性ばかり20名であった。
 明治39年5月、発起人会が開催され、互選により、幹事が選任された。浅子、三郎助夫人、渋沢夫人、森村夫人、大倉夫人、麻生正蔵(学監)夫人ら9名である。
 補助団幹事に選任された浅子は、さっそく同年10月、桜楓館(壮麗な木造3階建洋館)を訪れ、桜楓会の振るわない現状に対して痛烈に評し、組織変更の必要性を説くことになる。
 「諸子は予て計画せられて桜楓会五十年後の理想を実現せんと勉むるものなりや。もし之をなさんと欲する者ならば何故今より着手せざるや。、、、、幸いにして其身体たるべき桜楓館は健固に造られしも、其活動は少しも現はれざるに非ずや。、、、」
 浅子の進言、勧告を受け、桜楓会は、専任者を置くことにし、井上秀を主事とする。固辞する井上を説得したのが浅子であった。事務員丹下梅子、家庭研究部主任井上秀子、教育研究部主任藤原千代子、社会研究部主任深澤くに子、実業部主任中村つね子、家庭週報編輯員小橋三四子、橋本八重子らが桜楓館で活動することになる。
 「右の人々は目下桜楓館に出勤して各其職をとり準会員の統一、各部研究の計画、会の事業の経営にこれ日も足らざる有様なれば、訪問者等引きもきれず、館内俄かに時めきたり。これより各部十分に計画を立てて之を実現せんことにつとめ、尚桜楓会の主張は社会一般婦人の主張となし、桜楓会の主義は社会を統一するまで進まん決心なり。、、、、」
 つぎに浅子が取り組んだのが、地方支部主催の巡回講演会を開催することであった。そのもっとも大規模なものが明治42年7月、大阪で3日間にわたり開催された巡回講演会であった。
 この巡回講演会の構想には、前段があった。明治42年4月、「女子大学講義録」が発行され、また月刊誌「家庭」が発行された。「巡回講話趣意書」によると、「教育は決して学校内に於いてのみ行はるべきものにあらず、社会到る処にその機関の備わるありて、生活ある所、教育の実を挙げ、終生進歩の途を歩むの便宜あるを要す。、、、講義録発行に続いて巡回講義を聞くの必要は今将に迫れり。乃ち今回当大阪支部に於いて之に着手せん事を思い立ち、之を本部に計り、、、」とあり、終生進歩、生涯学習の方途として巡回講演が計画されたいた。
 浅子は、女子大学講義について、まさに生涯教育の視点から次のように述べている。
 「私は今年丁度還暦になりますが、女子大学講義録発刊の挙あるを聞きました時真先にその会員を志願しましたので、一般の人が不思議に思い、今から学問した所が、丁度智識を得る時には死んで行くのである、そんな役に立たぬ事をせずに念仏でも唱えて、楽しみにして居た方がよいではないかと申されました。けれども私の考は大いに違うのであります。、、、」
地方支部主催の巡回講演会は、明治42年7月21日ー23日、浅子のお膝元である大阪の、府立夕陽丘高等女学校に於いて開催された。来場者は実に300名近くの盛会となった。しかし翌日、反省会が行われ、浅子により「落着なし、統一無し」という歯に衣をきせぬ批評がなされている。ついで巡回講演会は、名古屋に場所が移され、7月25日、大倉孫兵衛邸において開催される。
 大阪での講演会は、たんなる講演会ではなく、講演と展示と実験がセットになっているものであった。耳で聞き(講演)、目で見(展示)、手で確かめる(実験)という生きた学びを目指したもので、浅子の意向を反映したものと思われる。
 講師は、長井長義(薬学、エフェドリンの発見者)、松本亦太郎(実験心理学)のほか、麻生正蔵(学監)が務めている。成瀬仁蔵の後継者・麻生は、大正8年、「広岡浅子刀自追悼会」において、「刀自の本校に対する奮闘的助力は刀自が六十三歳即ち明治四十四年の冬に至る迄」と述べているが、それはこの大阪での巡回講演会の2年後のことである(2015年8月4日の当ブログ参照)。
 たしかに「桜楓館」をはじめ、寄付や寄贈を多くした三井三郎助夫人・寿天については、その徳が讃えられることが多いが、一方、貢献度絶大であるにもかかわらず、明治45年以降、次第に女子大学校や桜楓会から離れ、キリスト教の活動に向かっていった浅子のことについては、次第に忘れがちになって経過してきたのではないだろうか。このような歴史的な経過については検証が必要である。

  



















 

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