Chan-de-lier(シャンデリア)のギタリストのBlog

依存(妻が毎日家族の食事を作る必要はあるのか?)

2024年03月10日 10時19分00秒 | 日記
依存。



という言葉を生きやすさを求める哲学として用いることが多いだろう。



依存、というのはここでは具体的に人への依存を指すこととしよう。


この人がいないと生きていけない。

とか、

そういったものである。





それで、例えば依存というのは

子どもが親から自立するために自炊や家事をしろ、ということではない。

これは、子育てという行為である。


当たり前のように当たり前に親が行うべき当たり前の責任なのだ。

もちろんその家庭の中で本人達が納得のうえでそのような自立をしているのならば自由であろう。
実際はそのように家にいることが少ない親もいるだろうからだ。

だから家事をやらされている子は可哀想だとか、決してそんなことはない。
学べる機会があるのは良いことであろう。


まぁ、子育て等については特殊であり、依存の話には含まないこととする。




さて、依存についてだが、

ある夫婦がいて、

妻(夫)が家族の食事を用意する。

という行為についてである。



当たり前であるように見えてこれは実は世の中が洗脳されているとすら思える。



例えば、好きな食べ物を各々が食べれば良いのである。
例えばファミリーレストランに行き、皆が全く同じメニューを頼まないであろう。


ラーメンが食べたい日があれば

チャーハンが食べたい日もあるのだ。



しかし、そんなバラバラな家庭にどんな想像をするだろうか。




可哀想だろうか。





子育てや家事を少しでもする父親がイクメンだとか何だとか、
ふさけたそういった世の中ではあるが、



夫婦は甘えている。


と考えられる。




家族になった途端に

例えば洗濯も料理も妻に任せるというようなところ等である。



しかし、まぁそれらが納得のうえであれば別に構わないだろう。



実際僕もダメな夫の部類なのかもしれないが、



感謝ができているのか。

という話である。





自分ひとりじゃ何もできないくせに!


このような言葉は家庭および職場まで響き渡るように思う。




今回何が言いたかったのかというと

食事は各々が食べたいものをその時に食べればよい。

食事は一例ではあるが、

こういう考えを持つことで、依存性のある生き方をやめることができると考えるためである。
自宅とは普段オブラートに包まれた自分が安まる唯一の場所でなければならない。(毒親がある家庭は除く、この場合自宅以外の心が安まるべき場所を指す)

そんな家庭でも変なルールに縛られていては何かと弊害が生まれるからだ。

こうしなければならない。

あぁしなければならない。

そんなことはないのである。



家庭の料理は

お鍋を作るけど一緒に食べない?

食べるなら一緒に作るけれど。

そんなもので良いと思うのだ。



普段はおにぎりを食べている人と隣でパスタを食べている人がいても良い。



こう考える。




職場でいえば、自分の仕事の経験や知識に終わりはなく全てできているうえで業務分担できることが望ましい。

知らないからやってもらう。

というのは当たり前ではないのだ。できるうえで分担することに意味がある。


うん、まぁ、自分で言っていてなんだが、そのような人間はとっとと出世していくような優秀人材である。

いるか?そんなの。



要はそういう気持ちを持ちたい、とか、まぁ理想である。
指針である。




依存の話について、

うつを用いた考察もしたいと思っていたのだけれど、(本来そっちがメインだったかもしれない)

長くなりすぎたから終わろう。