少し前に、冷凍餃子を夕食に出したら、子供は美味しいと言って食べてくれたが夫は手抜きだと言って避難したというエピソードをめぐって、議論がわき起こったことがあった。
インスタント食品を食卓に並べることに罪悪感を(とくに女性が)抱くとすれば、それは社会がそう思うように仕向けたからだ。
昔、母がデパートで買った惣菜を夕食に出す際に、「必ず皿へ盛り付け直して出すことにしている」と、一人言のような、傍らにいる私に向かって言っているような、どちらかよくわからないような感じで呟いていたことを思い出す。
おそらく、「これは決して手抜きではない」と、自分に言い聞かせているようでもあり、また、私へのメッセージのつもりでもあったのだろうと思う。
昨日偶然、プロの料理人が冷凍食品にひとてまかけて、その美味しさを競うというようなテレビ番組をやっているのをチラ見した。
昔に比べたら、今の冷凍食品やレトルト食品は、技術の進歩と開発に携わる人々の研究と努力によって、すごく美味しくなった。
でもそこに、更にひとてまかけて食する意味は、どこにあるのだろう?
材料を加えて栄養不足を補う、ボリュームアップや見た目アップをさせる等だけでなく、まだ根深くはびこっている「罪悪感」を払拭させる意味もおそらくあるのではないかと思う。
街中に韓国食品店がオープンしたというので行ってみた。
店先にはスナック菓子やインスタントラーメンばかりが並んでいたが、奥に入ってみると、色々な韓国海苔やお茶、スープ系のレトルトなど、豊富にあった。
店主がソウルへ帰ってしまったので無くなってしまった韓国料理店で、美容に良いからとよく勧められた鱈のスープのレトルトが売っていたので買ってきた。
ひとてまかける方法がパックに書いてあったので、ニラと豆腐、溶き卵を加えたら、すごく美味しかった。
床を掃除するのに、ホウキで掃いたり雑巾がけせずに掃除機を手早くかけたからといって、罪悪感はない。
美味しく食べられるようにプロが手伝ってくれたと思えば、そこには感謝以外の気持ちは余計な雑念なのだ。
学生時代、友だちが作って出してくれたインスタントラーメンや焼きそばを食べたとき、美味しさが違うことに驚いた。
缶詰だけどと断りながらも、「はい、ど~ぞ」と出してくれたカレーも、涙が出るくらい美味しかった。
結局、食事というものは、そういうものなのだ。
追記:
件の餃子を販売している冷凍食品会社(味の素)が、主婦のツイートに「手抜きではなくて手間抜きです」とリツイートした。
それだけで終わりにはせずに、自社工場でいくつもの工程を経て餃子を丁寧に作っているかを紹介する画像を作成、公開した。
動画のエンディングメッセージは「最後の仕上げは、あなたのフライパンで」。
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