CELLOLOGUE

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女子挺身隊聞き書き 日本航空機工業松戸製作所の母 1

2022年08月15日 | ぼくのとうかつヒストリア
はじめに

戦後70年が経った2015年の夏のある日、私と母は鎌ケ谷市郷土資料館の展示を観ていました。会場に、かつての松戸飛行場から九州へ移動する特攻隊の出陣式の写真がありました。母は、かつて、その様子を実際に見ていた一人で、パネルをじっと見つめていました。そして、覚えている当時のことを話してくれました。

私の母は、太平洋戦争末期の約一年間を女子挺身隊員として、千葉県松戸市にあった軍需工場で1年間ほど働きました。母はそこでの体験を子供の私に断片的に話してくれましたが、私にとっては別世界の話で、すぐに忘れてしまいました。

展示を観た後で、女子挺身隊として働いた記録を残しておくことも意味があることではないかと考え、聞き取りを思い立ちました。母の話を聞きながらノートをとり、不明な点は文献を調べてまとめてみたものが、以下の記録です。

記憶力のよかった母でしたが、さすがに90歳前後ともなると曖昧な部分が多くなりました。聞き取りがまだ終わらないうちに母は亡くなりました。記録は未完成でしたが、当時を知る人が少なくなっている時代に、一般的国民の戦争体験の一例としての価値はあるのではないかと思い、2016年5月に5回に分けてこのブログで公開させていただきました。

しかし、記事がかなり長く不備な点も多かったため一旦非公開とし、見直し作業を進めました。今回、改めて改訂版として公開する次第です。母の証言をもとにしていますが、部分的に私の推測も含まれます。間違い等があればご指摘やご意見を頂ければ幸いです。特に、当時の関係者の方々のご意見、情報等をお待ちしております。

(文中、敬称は略させていただきました。参考資料、出典については、主なものを末尾にまとめました。)



女子挺身隊

太平洋戦争末期の日本は日を追うごとに敗色が濃くなり、出征した兵士は戻らず、さらに徴兵が行われ、労働力が不足していました。これを補い、兵器の生産を維持しなければ戦争の継続が危くなっていたのでした。このような状況下、昭和19年8月23日に女子挺身勤労令が公布され、女性が労働力として勤労を求められることになりました。

対象にされたのは、所謂「遊休女子」で、結婚していない、在学していない、就労していない14歳から40歳までの女性でした。該当者は、地域別に「白紙」と呼ばれる令状で集められ、よほどの事情か、ツテでもなければ「挺身隊のがれ」はできませんでした。

彼女たちの行先は、軍の工廠の他、機械工場や航空機とその部品工場など、「銃後の職場」が主で、肉体的、精神的にも過酷な労働を強いられました。それらの工場は、米軍の空襲の重要な目標とされ、死傷者もかなりの数に上ります。終戦時には、全国で約47万人の女子挺身隊が働いていたと言われています。

私の母は、大正15年、千葉県北西部に生まれました。当時は独身で野田に住んでいました。女子挺身隊に入れられたのは、昭和19年後半で、正確な月日は忘れてしまったが、寒い時季だったといいます。当時19歳前後。職業もなかったので、役場からの通知1枚で、否応なくお国のために働くことになりました。

小さいながらも村で壮行会が行われ、神社に詣で、別れの挨拶のあと、万歳三唱に送られて出発したそうです。その時の気持ちには悲壮なものがあったのか尋ねてみたのですが、「家で遊んでいるより仕事をしていた方がいいと思った」という答えが返ってきました。


女子挺身隊員の記念写真
仲のよい3人で撮影したもの。腕には「女子挺身隊」の腕章が見えます。


母の勤務先は、6月に軍需工場に指定された千葉県松戸市五香六実にあった日本航空機工業株式会社松戸製作所(以下、日本航空機工業あるいは松戸製作所、松戸工場などと呼びます)でした。「ソロバンがしたい」という事前の希望どおり、経理課で事務員として働くことになりました。私は、女子挺身隊は厳しい工場労働をしていたものと決めつけていたのですが、事務仕事も行っていたことを初めて知りました。これが総動員ということなのでしょう。

松戸製作所には、千葉県北部から中部にかけての女性が集められました。流山、野田など、母を含む近隣地域の人は、会社が用意した松戸市の平潟の寮があてがわれました。一方、銚子、市原、大原(現いすみ市)など遠隔地の人(勤労動員が多かった)は工場に隣接した社宅に入りました。

当時、女学生であった古山素代さん(現在の市原市生まれ)は、「昭和19年には、ついに神風特攻隊登場、戦火は国内へ、女子挺身隊が工場や農村へ派遣された。私たち女学生も、学業半ばにして、松戸航空機工場(筆者注:松戸製作所のことと思われる)へと動員された」(『凜と咲いて;わたくしの人生紀行』)と、当時の緊迫した状況を回想されています。


日本航空機工業株式会社松戸製作所

日本航空機工業株式会社松戸製作所は、昭和12年1月に王子(後に足立区東島根町に移転)に航空機材工業所として創立されました。
昭和12年は、日中戦争が始まった年です。12月には大本営が設置され、翌13年4月には国家総動員法が公布され、日本の軍事色が濃くなっていきます。これに伴い、「航空日本」の掛け声とともに航空工業の需要が高まり、会社設立が相次いだ時代でもありました。

日本航空機工業は、創立時の社名からも分かるように飛行機部品の製造が主でした。部品製作、機材組立等を担い軍用機生産の一翼を支えた会社ということができるでしょう。その後、昭和14年4月に株式会社となり、名称を航空機材工業株式会社としました。本社は、東京市麹町區丸ノ内三丁目。社長は、舟崎由之、常務取締役に今里廣記がいました。

そして、昭和16年12月8日、ついに太平洋戦争が始まります。ハワイ、マレー作戦等、緒戦の破竹の進軍も束の間、翌、昭和17年4月には米軍爆撃機が東京を初空襲、6月にはミッドウェー海戦で空母4隻と多くの航空機を失いました。既に、航空機や搭乗員の損耗が激しく、不足が深刻で航空機の生産がますます重要な課題となったのです。

航空機材工業株式会社は、昭和17年8月には資本金を増資して日本航空機工業株式会社と改称、陸軍の認可を受けて松戸製作所を開設しました。これにより、同社は、足立製作所(海軍航空機の部品製作が中心)、津田沼製作所(旧伊藤飛行機株式会社を買収)と併せて3工場を所有するまでに発展しました。


日本航空機工業松戸製作所と松戸飛行場(昭和19年陸軍撮影)
中央を斜めに横切る道路の左側が松戸飛行場、右側が松戸製作所。機体組立や部品製作工場の大きな建屋群が目立ちます。その北側が事務棟や青年学校で、さらに北側の小さな家屋群は社宅です。道路を2度横断する弧を描く薄い線は鉄道連隊演習線(現在の新京成電鉄線)で、当時、線路は撤去されていました。画面左下には一列に並ぶ航空機が確認できます。
出典:国土地理院撮影の空中写真から部分を拡大して利用(1944年撮影)


女子挺身隊を迎え入れた頃の日本航空機工業は、「1万名を超える大所帯」となっていました。今里廣記は、「終戦の直前には従業員一万人、売り上げも月間約八十万円と大きくなっていた」と述べています。松戸製作所では2000人程度の人たちが働いていたと母は言っていました。そして、戦争末期には、軍の政策もあり、航空機の生産にまで業務内容が拡張されました。


キ-76とタ号試作特殊攻撃機

松戸製作所は、陸軍の松戸飛行場に道路を隔てて接しており、部品製作や組み立ての他、陸軍機の修理、点検等にもあたっていました。『日本金属五十年史』によれば、「陸軍松戸飛行場を借用して、大型輸送機および練習機の改修ならびに時間検査に当ったほか、陸軍の木製哨戒機「キ-76」(鳩号)等を生産した」とされています。

母は、仕事が経理だったので松戸製作所が行っていた部品製作や飛行機の組み立てについてはほとんど知りませんでした。ただし、仕事中に「キ-76」という単語を聞いたり、書類で見たりしたというので、キ-76を生産していたことは間違いないでしょう。

キ-76とは、旧日本陸軍の三式指揮連絡機(略称は三式連絡機、三連)のことで、高翼単葉の、現代のセスナ機のような姿の飛行機で、ドイツの連絡機フィーゼラーFi156をモデルとして日本国際航空工業株式会社(略称「日国」)が開発、製造しました。不整地でも短距離で離着陸ができ、地上の軍隊と協働して偵察や観測等多用途に使える便利な飛行機でした。


キ-76 三式指揮連絡機 (1/100模型)
 主翼前縁の固定スラット(高揚力装置)が目を惹きます。本機を「鳩号」、「ハト」、「はと」と呼ぶ資料が複数ありますが、正式名称(愛称)なのか、内部の通称だったのか確認はできませんでした。連合軍の呼称はStella。

(諸元)
構造:単発、高翼単葉。翼:木製骨組、羽布張り。電動式ファウラー・フラップ、スット翼を装備。胴体:鋼管溶接・木製骨組に羽布張り。降着装置は固定式。
乗員:3名。
動力:日立ハ-42B、空冷式星型9気筒、280HP。プロペラ:金属製固定ピッチ2翅。
寸法・重量:全幅15.0m、全長9.5m、全高3.3m、自重1,110kg、搭載量430kg。
性能:最大速度178km/h(高度2,000m)、巡航速度90km/h、航続距離420~750km、滑走距離:離陸(向い風4m/sで)49~68m、着陸45~61m。
武装:7.7旋回機関銃×1、爆雷50kg×2または100kg×1。
生産数:不明。 (『日本航空機総集』第7巻から)


日国が開発、製作していたキ-76が日本航空機工業で作られていた理由は、恐らく、空襲による日国の工場の被害や疎開に伴った措置であったと考えられます。

松戸製作所で人事(勤労課係長)を担当していた辻忠尾氏は、「造っていた飛行機は略号でキ-17(筆者注:キ-76の記憶違いか)、通称でハト、正式には3式連絡機。(中略)終戦までに15機造りました」と発言しています。(『鎌ケ谷市史研究』no.11)

実際に整備兵として三式指揮連絡機に乗っていた漫画家のわちさんぺい氏は、「冬のある日の午後、製作工場を千葉県松戸飛行場へ移転した、日本国際航空への連絡飛行を終わって(以下略)」と記述しています(『空のよもやま物語』)。恐らく「空襲のため日本国際航空から日本航空機工業へ製作を移転した…」という意味だと思われます。

今里廣記も戦後、「(松戸工場は)昭和17年に建設され、同19年から四人乗りの「はと」という偵察機を作っていた。終戦まで30機程度を製造した。機体はアルミ不足のため、硬いベニヤ板を貼り合わせて作るという窮余の一策でできた木製飛行機である」と語っています。(『財界交友録』)


母は、「べニア張り、羽布張りの「特攻機」を1機作って終戦になった」と昔から言っていました。私は、母の仕事は事務であったため、工場の事情に疎くキ-76を誤認したのだろうと考えていました。材料も同じようなものですから。
ところが、立川飛行機と日本国際航空工業が本土決戦用特攻機として計画したものの試作機で終わったタ号試作特殊攻撃機という飛行機があったということを最近知って、このことを言っていたのではないかと思えるようになりました。

この機体は木製の簡易な設計で、挺身隊員や学徒でも容易に製作ができるように直線的なデザインでした。主翼は折り畳んでトンネルに秘匿できるようにしてありました。この機体が日国と協力関係にあったと思われる日本航空機工業でも製作された可能性が出てくるわけです。
なお、タ号の「タ」とは竹槍のタだそうです。空飛ぶ竹槍が完成しなくて本当によかったと思います。 
(タ号の判明している諸元) 全長:約6.0m、全幅:約8.0m、発動機:直列空冷100馬力級 x 1、武装:100kg爆弾 x 1

以上のようなことから、日本航空機工業松戸工場で製作していた製品は、陸軍機用の各種のエンジン装備品、機体の装備品、昭和20年頃からは転換生産による機体製作も加わり、その代表的なものは、キ-76(十数機程度)、タ号特殊攻撃機(試作1機)でした。この他に、陸軍機の保守・点検、修理、検査作業も行っていました。しかし、終戦直後に会社の書類等が破棄(焼却)されたため、詳しい経緯、製作機数等は明らかになることはないでしょう。


(更新履歴)
2022/8/17 本文を一部加筆、修正しました。


4 コメント

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Unknown (cellisch)
2022-08-21 20:59:20
松戸さん、コメントありがとうございます。
そうですね。一度は見ておきたいものです。飛行場は無くなりましたが、大格納庫から出陣式を見ていた母と同じ風景を確認してみたいですね。資料館も興味がありますし。涼しくなった頃に連絡してみます。ガードが堅そうですが…
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Unknown (松戸)
2022-08-20 16:21:53
コロナ禍で駐屯地の一般開放はしていないようです。が、地元の歴史を書き残そうとしている旨を駐屯地広報に伝えれば受けてくれそうですが、どうでしょう…中に駐屯地資料館もあるので何かわかるかもしれませんね。
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Unknown (cellisch)
2022-08-16 11:33:44
松戸さん、早々にコメントを頂きありがとうございます。
松戸飛行場の格納庫は工場の建屋より大きいのですね。今気が付きました!
日本航空機工業は今や跡形もなく、格納庫が唯一の歴史の証人かも知れません。私も保存を望む者ですが、一度、見学したいと考えています。
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Unknown (松戸)
2022-08-16 10:24:08
この写真にある左下の格納庫は今もありますよ。昭和14年に建てられたものです。現役の倉庫です。そろそろ建て替えの計画が出ているようなので残るといいな~と個人的には思っています。
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