瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第12話・師匠の腕の中

「何もいきなり殴ることはないだろう」
 澪が怒りまかせにズンズン進んでいく後ろで、誠一は顔をしかめて側頭部をさすりながら、それでも遅れないように早足でついてきていた。その隣には仏頂面の遥も歩いている。だが、一緒に帰るはずだった綾乃たちの姿は見当たらない。おそらく、これ以上のややこしい事態を避けるため、遥が来ないように説得してくれたのだろう。
「その鞄、やけに重量感あるけど何が入ってるんだ?」
「教科書に決まってるでしょう?!」
 澪は肩をいからせ、振り返りもせずに歩き続ける。その怒りは一目瞭然のはずだが、誠一は悪びれる様子もなく、原因となった話をさらりと蒸し返す。
「で、パンツなんだけど」
「さっきからパンツパンツって何なの?! 私にだけこっそり言うならまだしも、学校のみんなの前であんな大声で叫ぶなんて……綾乃たちの間では、誠一のあだ名はパンツ男に決定よ!」
「まあ自業自得だな」
 誠一は軽く肩をすくめて答えた。が、澪からすれば的外れもいいところである。カッと頭に血を上らせると、長い黒髪を舞わせて振り返り、彼の鼻先に人差し指を突きつけてズズンと詰め寄る。
「あのね、困るのは誠一じゃなくて私なの! パンツ男は元気ぃ? パンツ男はどうしてるぅ? とか、死ぬまで綾乃にからかわれるのよ?!」
「死ぬまでって大袈裟だろう」
「少しは責任感じてよっ!!」
 澪はあくまで大真面目に言っているのだが、誠一はそう受け止めていないようだった。まあまあ、とちょっと困ったように苦笑しながら、沸騰寸前の澪をひたすら宥めるだけである。
 二人の隣で、遥が面倒くさそうに溜息をついた。
「誠一、まず事情を説明してくれない? 理由も言わずにパンツ見せてじゃ、ただの変態だよ」
「ああ、そうだな……」
 誠一は真面目な顔になって思考を巡らせ始めた。その様子に、澪は幾何かの緊張を覚える。彼がなぜこんなことを頼みに来たのか、だいたいのところは見当がついていた。それは、おそらく――。
「きのうのことなんだが……偶然、怪盗ファントムに遭遇してな」
「それってコンビニ強盗を捕まえたときの?」
 遥は白々しくそんなことを尋ねる。
「ああ、ニュースでやってたから知ってるかもしれないが、そのコンビニ強盗犯が逃げ込んだビルの屋上に、待機中の怪盗ファントムがいてな。捕まえようとしたんだが、あと一歩というところで逃げられてしまったんだ」
 冷静な声音に悔しさが滲んだ。しかし、誠一はすぐにパッと表情を晴らす。
「でもそのとき、ファントムのスカートが風でめくれて、パンツが丸見えになったんだよ。暗かったしハッキリとは見えなかったけど、そのパンツが澪の勝負パンツによく似ていたんだ」
「べ、別に勝負パンツじゃないし!」
 澪はゆでだこのように顔を赤らめて否定した。同じものをたくさんまとめ買いしたので、それを穿いていることが多いだけである。誠一と会うから特別なものを選んでいるわけではない。だから、きのうも偶々それを穿いていたのだが――。
 しかし、誠一は軽く流して話を続ける。
「まあ、そのときは似てると思っただけなんだが、さっきこれを見て……」
 そう言って、懐から小さく折りたたんだ新聞を取り出す。例のスポーツ紙だ。中面を外側にしてあったようで、広げるまでもなく、パンツ写真が目に飛び込んできた。
「きゃあっ!!」
 澪は悲鳴を上げ、誠一の手からそれを奪い取った。
「念のため言っておくが、それ、澪じゃなくてファントムだからな……でも、これ同じパンツだろ? レースの形や付き方、股上の長さ、脚ぐりの角度、どれをとってもまったく同じなんだよ」
「どれだけよく見てるのよ、ヒトのパンツ!」
 もちろん見られていることはわかっていたが、ここまで詳細に観察されていたのかと思うと、あらためて何ともいえない恥ずかしさがこみ上げてきた。そして、こんなことまで覚えている彼の記憶力を恨めしく思う。
 誠一は拝むように顔の前で両手を合わせた。
「頼む! ファントムを捕まえるための貴重な手がかりなんだ」
「イヤよ! そんな怪盗、私にはどうでもいいもん!」
「冷静になれよ。どうしてそう嫌がるんだ? 今さらだろ……」
「今さらとか言わないで! 恥ずかしいものは恥ずかしいの!」
 澪は頑として首を縦に振らなかった。恥ずかしいというより意地になっていたのかもしれない。しかし、冷静に考えてみたところで、結論が変わることはないだろう。自分の正体を暴くための手がかりを、刑事である彼に提供するわけにはいかないのだから。
「澪のパンツを見て、それが捜査にどう役立つわけ?」
 遥がじとりとした目で懐疑的に尋ねる。だが、誠一は曲がりなりにも刑事であり、さすがにそのあたりは手抜かりなく考えられていた。
「怪盗ファントムが穿いていたパンツを確認したいんだ。澪に見せてもらって新聞の写真と照合する。同じものであれば、そのパンツを貸してもらって、ひとつひとつ販売店を聞き込みにまわろうかと」
「イヤーー!! 絶対に嫌っ!!!」
 澪は両手で頭を押さえて絶叫した。百歩譲って誠一だけに見せるのならまだしも、それを持って聞き込みにまわるなど冗談ではない。拷問にも等しい行為だ。
「捜査協力は国民の義務だぞ」
「国家権力の横暴だわ!」
 澪は奪い取ったスポーツ紙をぐっと握りしめて反論する。
「ねえ、誠一って捜査一課だよね? 怪盗ファントムの担当じゃないと思うんだけど」
 隣から、遥が再び二人の話に割り込んでくる。頭に血が上ったせいですっかり忘れていたが、確かに、彼は怪盗ファントムの担当ではない。先日、本人の口から聞いたので間違いないだろう。
「えっと、それは……」
 誠一は斜め上に視線を逃がしながら、人差し指で頬を掻いた。
「捜査二課に協力しているわけでもないよね。さっき学校の警備員と揉めてたとき、警察手帳を見せるどころか、刑事であることすら言わなかったし。それってやっぱり正式な捜査じゃないからでしょ? 職務じゃなければ職権濫用になるからね」
「君は鋭いな……」
 遥に痛いところを指摘され、観念して力なく言葉を落とす。
「そういうわけだから、澪、誠一に協力することないよ」
「そ、そうなんだ……」
 幾分かの申し訳なさを感じながらも、澪はひとまず胸を撫で下ろした。遥が味方になると心強い。相手が大人だろうが刑事だろうが容赦なく論破してくれるのだから。しかし、誠一も刑事の端くれである。手がかりを目前にしながら、そう簡単に引き下がったりはしない。
「そう言わずに協力してくれ! 刑事としてでなく俺個人として頼むよ。怪盗ファントムをギリギリのところで取り逃がして悔しいんだ。二課の連中にもさんざん嫌味を言われたし、できることなら、俺のこの手で捕まえて汚名返上したいんだよ」
「それは……気持ちはわかるけど……」
 情に訴えられると澪は弱い。あれほど頑なに拒んでいたのに、ここへきて少し気持ちがぐらつき始めた。好きな人が汚名を着せられているのであれば、力になりたいとは思うが、だからといって捕まることはできないわけで――。

 ビッ、ビーー。
 クラクションが鳴り、一台の車がゆっくりと澪たちの隣に滑り込んで止まった。エンジンが緩やかに唸り続ける中、助手席のパワーウィンドウがゆっくりと下り、そこからスーツ姿の男性が身を乗り出して顔を覗かせる。
「師匠!」
 澪は大声を上げて目をぱちくりさせた。悠人はいつも大通りの方を走っており、この住宅街を通ることはほとんどなく、それゆえまさか彼だとは予想もしなかった。
「女の子が往来でパンツパンツ叫ぶものじゃないよ」
「あっ……すみません……」
 まさか聞かれているとは思わなかった。一体いつから聞いていたのだろう――少し疑問に感じながらも、澪は肩をすくめて素直に謝る。悠人はそれを見てにっこり微笑むと、隣へ視線を移し、急に真面目な顔になって切り出した。
「警視庁捜査一課の南野誠一さん、でしたね」
「はい……」
 誠一は表情を硬くしてぎこちなく頷く。
「えっ、二人は知り合いなの??」
「一度、顔を合わせたことがあるだけだよ」
 混乱して二人を交互に見る澪に、悠人はさらりと答える。いったい何の用件だったのか、いつどこで会ったのかなど、気になることはいろいろあったが、尋ねる間もなく彼は誠一との会話に戻ってしまった。
「それで、ウチの澪と遥が何か?」
「いえ、澪さんに捜査協力をお願いしていたところで……」
 誠一が少し言葉に詰まると、悠人は静かに口を開く。
「南野さん、ご存知だと思いますが、澪は17歳で未成年です。そういうことでしたら、直接この子に尋ねるのではなく、私を通してにしていただけますか?」
 落ち着いた中にも威厳を感じさせる語調。その重くのしかかるような雰囲気に、誠一は完全に圧倒されていた。ごくりと唾を飲み込むと、戸惑いを見せながら遠慮がちに尋ねる。
「お父さま、ですか?」
「いえ、保護者代理といったところです。この子たちの両親は二人とも忙しいものでね」
 あまり一般的な話でないため、誠一にはピンと来なかったのだろう。不思議そうな目をよこしたので、澪は無言で頷いてみせる。両親が忙しくてあまり一緒にいられないということは、誠一にも何度か話したことはあったが、だからといって普通は保護者代理などが出てきたりはしない。
「乗ってください、南野さん。澪と遥も」
「え……?」
「こんなところで立ち話も何ですから、続きは私たちの家でしましょう」
 誠一は傍目にもわかるくらい緊張していた。
 その隣で、澪も少し緊張しながら複雑な表情を浮かべていた。何かと鋭い悠人のことだ。こうなってしまっては、誠一が彼氏だと気付くのも時間の問題だろう。もしかしたら、もうすでに――。
 鉛色の空は、今にも雨粒が落ちてきそうなくらいに、どんよりと重く垂れ込めていた。

 悠人は濃色のスーツを身につけたまま、革張りのソファに身を預け、悠然とした所作でコーヒーを口に運んだ。その向かいで、誠一は出されたコーヒーに口もつけず、背筋をピンと伸ばして座っている。ローテーブルの上には互いの名刺が置かれていた。
「南野さん」
「……はい」
 カチャリ――コーヒーカップをソーサに戻す音が、やけに大きく応接間に響いた。悠人はゆっくりと膝の上で両手を組み、体を起こすと、正面から隙のない眼差しで誠一を見つめた。
「澪にどのような捜査協力をお求めでしょうか?」
「怪盗ファントムに関することなんですが……」
 誠一がそう切り出すと、悠人はふっと鼻先で笑った。
「また怪盗ファントムですか。担当でもないのに、随分と執着していらっしゃる」
「…………」
 最初に悠人と顔を合わせたときも、誠一は担当外である怪盗ファントムの捜査をしていた。確かにこれでは不審がられても仕方がない。しかし、悠人は不審に思うというよりも、むしろ呆れているような感じだった。
「私の関知することではありませんがね。それで?」
「はい、その怪盗ファントムが穿いていたパ……下着と同じものを澪さんがお持ちだったので、確認させていただけないかと思いまして……」
 そう答えながら、誠一は懐からスポーツ紙を取り出し、半分ほど広げて机の上に置く。澪が乱暴に奪って握りしめたせいで、だいぶ紙面が皺になっているが、怪盗ファントムのパンツは問題なく確認できた。悠人は無表情でそれを一瞥すると、口を開く。
「なぜ、そのようなことをご存知で?」
「えっ?」
 誠一は顔を上げた。悠人は彼を見つめたまま、わかりやすく補足しながら言い直す。
「なぜ、あなたが澪の持っている下着をご存知なのかと」
「あ……」
 たちどころに誠一の顔から血の気が引いた。何の言い訳もできず、ただきゅっと口を結んでうつむく。重苦しい沈黙が続き、前髪のかかった額にも、膝で握ったこぶしにも、じわじわと汗が滲んできた。
「まあいいでしょう」
 対照的に、悠人は怖いくらいに冷静だった。
「それで、まさか澪を疑っているわけではないでしょうね」
「いえっ、そのようなことは決して……」
 誠一は即座に否定すると、少し呼吸を整えてから続ける。
「ただ、間違いがないか確認させてもらって、同じものであればその下着をお借りしたいと」
「澪は嫌がっているのでしょう?」
「はい……しかし……」
「私も認めるわけにはいきません」
 悠人は毅然と一蹴する。しかし、それだけでは終わらせなかった。
「同じものかどうかは、澪にその新聞を見せて確認させます。同じであればメーカーをお教えします。あとはメーカーの方に問い合わせれば、捜査に必要な情報は揃うでしょう」
「は……はい……」
 その的を射た提言に、誠一は萎縮して消え入りそうに返事をした。確かにこれなら澪に嫌な思いをさせずにすむし、多少の手間はかかるが、必要な情報も問題なく手に入れられるだろう。
「それでよろしいですね?」
「ありがとうございます」
 悠人に念を押されると、誠一は慌てて頭を下げて礼を述べる。顔にも体にもずっと無駄な力が入っていたが、ようやくほっと息をついて弛緩することができた。しかし、彼は大事なことを忘れていた。
「南野さん、最後に一つだけ言っておきます」
「はい……?」
 やや間の抜けた声を返した誠一に、悠人はまっすぐ視線を向ける。
「あなたと澪のことを認めたわけではありませんから」
 口調こそ穏やかだったものの、瞳は冷たく、反感を募らせていることは明らかだった。それどころか、絶対に許さないという気迫さえ感じた気がした。まだ少し話をしただけの段階で、なぜそこまで――今の誠一に、その真意を察する術はなかった。

「じゃあ……はい、これあげる」
 悠人の指示で、澪はスポーツ紙の写真を一通り確認したふりをすると、渋々ながらカタログを取り出して誠一に手渡した。有名女性タレントを使った可愛らしくスタイリッシュな表紙で、そうと知らなければ、下着のカタログということはわからないかもしれない。
「通販?」
「そう、お店でも売ってるみたいだけど」
 注文したページは折り曲げてあるので、あえて教えていないが、見ればどれだかすぐにわかるだろう。怪盗ファントムの手がかりを与えることに不安はあったが、悠人によれば、決定的な証拠とはなりえないので心配無用らしい。それどころか捜査を攪乱できるとまで言っている。何はともあれ、ようやくこの件に決着がついた――澪は腰に手を当てて深く溜息をついたが、ふと顔を上げると、彼がさっそくカタログをめくっているのが目に入る。
「やだ! あとで見てよ!」
 思わずカッと頬を赤らめて手を伸ばし、無理やりカタログを閉じさせると、誠一は悪かったと言いながら苦笑した。おそらく過剰反応だと思っているのだろう。そのデリカシーの欠片もない態度に、澪は唇をとがらせて腕を組んだ。
「誠一、師匠に何か言われた?」
 澪のベッドに腰掛けていた遥は、目の前の二人を眺めながら、投げやりな口調でそう尋ねる。その瞬間、思い当たることがあったのか、誠一の表情ははっきりとわかるくらいに凍りついた。
「何かって……?」
「バレたよね、澪と付き合ってること」
「あ、ああ……まあそうらしいが……」
 そのことは澪もすでに覚悟していたが、悠人のことを信じていたので、気にはなっても心配はしていなかった。というより、心配しないよう自分に言い聞かせていた。だが、誠一の態度がおかしいのを見て、急に不安の波が押し寄せてくる。
「何か、言われたの?」
「……認めてないって」
 誠一は硬い声でぼそりと答えた。
 しかし、澪からしてみれば、悠人が二人の仲を認めないなど、とうにわかりきったことである。それだけかとほっとした気持ちもあるが、面と向かって彼に言ったのだと思うと、やはり胸のざわつきは止められない。誠一は理解していないだろうが、ある意味、宣戦布告のようなものだから――。
「当然だよね」
 束の間の静寂を破り、遥は醒めた目を誠一に向けた。
「師匠からすれば、誠一なんてただの頼りない男にしか見えなかっただろうし、こんなのに澪を任せられない、澪は自分が幸せにするんだって、そう思ったんじゃないかな」
「ちょっと、遥!」
「それはどういう……」
 何を言い出すのかと慌てる澪の隣で、誠一は怪訝に眉を寄せて尋ねかけた。
 遥は気怠そうにベッドに手をつき、天井に顔を向ける。
「師匠は澪のことが好きで結婚したいと思ってて、ついでにいえば澪の初恋も師匠で、何となくうちの家族では公認みたいになってるんだよね。つまり、正式に決まったわけじゃないけど、いわゆる婚約者みたいなものかな」
「いい加減なこと言わないで!」
 たまらなくなって、澪は感情的に言い募った。
「澪……遥の言ったことって……」
「あ、婚約者なんかじゃないから! 初恋だって小学生のときの話だし」
 表情の曇った誠一を安心させようと、澪は精一杯の笑顔を作って釈明する。しかし、さすがに嘘をつくわけにはいかず、全否定までは出来なかった。そのせいか、誠一の眉は、ますます不安そうにひそめられる。
「でも、彼の方は澪のこと……」
「大丈夫、私、頑張るから!!」
「頑張るって……何を?」
 その単純な問いかけに、澪は何も答えられなかった。半開きの口をゆっくりと閉じてうつむく。何をどう頑張ればいいのか、澪本人にもわかっていない。意気込みだけが空回りしている状態だった。代わりに、遥がその質問を引き取る。
「それだけ澪と誠一が付き合うのは難しいってことだよ。澪がどういう家に生まれたのかわかってるよね? 覚悟がないんだったら身を引いた方がいい。僕からの二度目の忠告」
 それは誠一に向けられたものであるが、同時に、澪にも向けられているように感じた。怪盗をやっている家の人間が、刑事と付き合うのは難しいと――遥には以前からそう言われている。意地悪でないことは十分に承知しているし、彼の心配ももっともであるが、澪としてはどうしても諦めたくなかった。
「あの、遥は大袈裟に言ってるだけだから……気にしないで、ね?」
「そう……か……」
 取り繕うように澪が言うと、誠一は曖昧に返事をする。とても納得しているようには見えないが、追及しようとはせず、ただ困惑ぎみに薄く微笑むだけだった。彼のその態度は、澪をひとまず安堵させた一方で、心の片隅に小さな棘と寂寥感を残した。

「どうしていきなりあんなこと言ったの?」
 門の外で誠一を見送ったあと、冷たい風に吹かれながら、澪は並んで立つ遥にぽつりと尋ねた。あんなこと、としか言わなかったが、それが何を指しているのか、彼には考えるまでもなくわかったようだ。
「覚悟があるかどうか、これでわかったんじゃない?」
「いきなり言われたんじゃ、誰だってビックリするよ」
 澪はムッとして横目で遥を睨んだ。覚悟なんてそう簡単に持てるものではない。真摯に受け止めたからこそ、誠一は戸惑ったり考え込んだりしたのだと思う。
 遥はズボンのポケットに両手を突っ込み、身を翻して歩き始めた。
「もしこれで逃げるようなら、それだけの男だったってこと」
「逃げたりなんか……」
 澪はアスファルトの先を見つめながら、もうそこにはない後ろ姿を思い浮かべ、おぼろげな声でつぶやくように言う。信じているはずなのに、なぜか強く主張できなかった。体の横で無意識にこぶしを握りしめる。
 遥は足を止め、顔だけをわずかに振り向けた。
「澪、もう戻ろうよ」
「……うん」
 澪は小さく頷いた。そして、少しだけ息を吸って口を引き結ぶと、くるりと振り返って彼のあとを追った。目の覚めるような冷たい風が頬を打つ。それは、まるで弱気になった澪を叱咤しているかのようだった。

「あの、師匠……?」
 澪が声をかけても、悠人は微動だにせず窓の外を見つめていた。
 すべてが済んだら応接間に来るように――悠人にあらかじめそう言われていたので、澪は誠一を見送ってここへ来たのだが、どういうわけか彼は振り向いてもくれなかった。当惑しながら戸口に立ち尽くしていると、彼は深く息をつき、少し皺になったシャツの背中を向けたまま話し始める。
「悪い人ではなさそうだな。むしろ人が好すぎるくらいだ。澪がどうして彼を選んだのか、わかる気がするよ」
 冷静すぎるくらいに誠一のことをそう評すると、再び息をつき、ゆっくりと振り向いて窓枠にもたれかかった。そして、きっちりと締められたネクタイの結び目に指を掛け、薄く苦笑しながら付言する。
「でも、まさか刑事だったとはね」
「お願い、おじいさまには内緒にしてください」
 澪は、長い黒髪をなびかせながら悠人に駆け寄った。縋るように彼のシャツを掴み、切羽詰まった顔で見上げる。しかし、悠人はそっと視線を外して、どこか遠くを見やりながら考え込んだ。
「どうしたものかな……」
「約束したじゃないですか!」
「刑事とは知らなかったからね」
 少し笑いながらそう言うと、宥めるように澪の頭に優しく手を置く。だが、これしきのことでは、今の澪はごまかされない。シャツを掴む手に力を込め、さらに詰め寄って思いの丈を訴えかける。
「私、怪盗ファントムのことは絶対に言いませんし、知られないようにします! だから……」
「嘘をつくのは苦手だろう?」
「それでもちゃんとやります」
 確かに嘘をつくのは苦手だが、出来ないわけではない。今までだって騙してきたのだから――そう思ったものの、悠人には伝わらなかったのか、その顔にわずかな翳りを落とした。
「彼は本気で怪盗ファントムを捕まえようとしている。それも職務ではなく自らの意志でだ。その彼と一緒にいて、笑い合って、嘘をついて……それで君は苦しくないのか?」
「苦しくても耐えます」
 怯むことなく断言する澪を、悠人はじっと見つめ返す。
「……澪」
 不意に悠人の顔が近づいてきて、澪はドキリとしたが、彼はただそっと額を合わせただけだった。そこから彼の体温が伝わってくる。懐かしい感覚、優しい温度、安心する匂い――よくそうしてもらった幼い日々のことが脳裏によみがえり、胸が熱くなった。
「僕では駄目なのか?」
 絞り出すような切ない声が静かに響く。
「僕ならば澪に苦しい思いをさせなくてすむ。何も秘密にすることはない。ありのままの澪でいてくれればいい。遥には負けるかもしれないが、それ以外の誰よりも澪のことを見てきたつもりだ。だから、誰よりも君をわかっているし、誰よりも君を想っているし、誰よりも君を幸せにする自信がある」
 気持ちは痛いくらいに伝わってくるし、とてもありがたいことだとも思っている。けれど、どうしても受け入れるわけにはいかないのだ。澪はそっと彼の胸元を押し、触れ合わせていた額を離してうつむく。
「私は、彼のことが好きなの……」
 心苦しさを感じながらも、無慈悲な返答を口にのせる。他にも伝えたい思いはあるのだが、胸の内でわだかまるばかりで言葉にならない。そのもどかしさにきゅっと唇を噛む。
「君たちの仲を引き裂くことは容易だが……」
 ビクリ、と澪の体がすくんだ。
「そうではなく、出来れば君の意志で僕を選んでほしい。絶対に後悔はさせないから」
 そう言って、悠人は澪の両肩に手を置き、それから包み込むように優しく抱きしめる。逃れようとすれば出来たはずなのに、澪はなすがまま、悠人の胸に身を預けて寄りかかった。あたたかい。このまま何も考えることなく、ただ子供のように甘えていたかった。幼かったあの頃のように――。
「しばらく待つよ。春までには答えを出してほしい」
 その声で現実に引き戻される。
 澪に選択を委ねてはいるものの、行き着く先はひとつしかない。与えられたのは心の準備をする時間だけ。もしかすると、気付いていなかっただけで、最初から彼の腕の中に捕らえられていたのかもしれない。この状況を打破する方法など、どこにもないのでは――澪はそのことに薄々気付き始めていたが、現実として受け止めるだけの勇気を持てずにいた。


…続きは「東京ラビリンス」でご覧ください。

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