「ダメだよ」
立ち上がろうとしたラウルの手首を、サイファは指の痕がつくくらいに強く掴んで引き留めた。半ば怒ったような真剣な顔で、ラウルの瞳をじっと見つめる。
サイファ=ヴァルデ=ラグランジェは18歳になっていた。
子供の頃から人目を引く容姿をしていたが、成長するにつれ、ますますそれに磨きがかかっていった。すっと通った鼻筋に、甘く涼やかな目もと、形の良い薄い唇、そして、聡明さを映し出したかのような、理知的な輝きを放つ青い瞳――いずれのパーツも、全体のバランスも、文句のつけようもないくらいに端整だった。特に、真剣な表情を見せるときなどは、一分の隙もないほどだ。だが、普段の彼には、まだ少年らしい雰囲気が多分に残っている。そのあたりの落差も、人目を引く一因なのだろう。
身長もかなり伸びていた。といっても、並外れて長身のラウルには遠く及ばない。成年男子の平均くらいである。サイファ自身はそれで不満には思っていないようだった。ラウルを抜かせないのが悔しいと言ったことはあったが、その軽い口調からいっても、あくまで冗談であり、本気ではなかったのだろう。
そして、頭脳の方も成長し、さらに切れ味を増していた。
家庭教師を始めて最初の3年くらいは、辛うじて教えるという体裁をとっていたが、その後は対等に議論する形へと自然に変わっていった。一方的に教えることなど、少なくともラウルが受け持っている分野においては、何もなくなってしまったのだ。乾いたスポンジのように知識を吸収し、それを新たな発想で組み立てていく。ラウルが考えもしなかった思考の飛躍を見せる。そんなサイファとの時間は、ラウルにとっても刺激の多いものだった。
今日が、家庭教師としての最後の日である。
辞めさせられるわけでも、辞めるわけでもない。サイファの就職が決まったためである。明日から、この国の中央行政機関のひとつである魔導省に勤めるのだ。本来であれば、高倍率の試験と適性検査、面接などにより選抜されるのだが、サイファは例外的に無試験で入省が決定したらしい。ラグランジェ家の力を持ってすれば、このくらいの特別措置は極めて容易に実現できるのだろう。
だが、サイファの場合は、優遇されることなく競い合ったとしても、不採用になるとは考えられなかった。魔導、頭脳、いずれの面においても、彼に勝る者がいるとは思えない。問題があるとすれば性格だけだ。
サイファは、ラウルの手首を掴んだまま、じっと濃色の瞳を見据えて言う。
「ラウルにとってはたった8年だろうけど、僕にとっては人生の半分近くなんだ」
「それがどうした」
「名残を惜しむ僕に、少しくらい付き合えってことさ」
ラウルは煩わしげに溜息をついた。
「私は教師として雇われている。それ以外の理由で引き留められる道理はない」
正当な言い分を論理的に説明し、冷淡に突き放す。
だが、サイファはそれを聞いて何かを画策したらしく、思わせぶりに口の端を上げた。
「では、ラウル先生にひとつ質問だ」
人差し指を立て、緩やかに瞬きをすると、やや上目遣いにラウルを見つめた。形のよい唇が滑らかに開く。
「明日からの僕のために、社会人として留意すべきことを助言してほしい」
ラウルは眉をひそめた。サイファは時折、わざと「先生」と呼ぶ。ラウルが嫌がるのを知った上でのことだ。そうやって、揶揄したり、挑発したりするのだ。今回も、真面目な口調ではあるが、質問の内容からしても、からかっているとしか思えなかった。
「私にそれを訊こうというのか」
「社会性がないのは知っているが、物事を見通す目は持っているからな」
サイファはにっこりとして言う。
ラウルは勢いよく腕を引き、サイファの手を振りほどいた。彼をじっと睨み下ろす。
「おまえは能力のない人間を馬鹿にする傾向がある。そんなことでは軋轢を生み、孤立することになるだろう」
「わかっているよ」
サイファはさらりと答えた。体を斜めに傾け、机に寄りかかるように頬杖をつく。
「能力がなくても権力を握っている人間は多いからね。人当たりよく近づいて、適当にご機嫌をとりつつ利用させてもらうつもりさ」
悪びれることもなく、至極当然のように言う。
ラウルは眉根を寄せた。
「そこまでは言っていない」
「でも、たいして違わないだろう?」
サイファは頬杖をついたまま、僅かに首を傾げて同意を求める。
「おまえには無理だ。感情をすぐ表に出すような奴にはな」
ラウルは冷たく言い放つ。
「ああ、それはラウルの前だけだよ」
サイファは軽くそう言うと、頬杖を外して体を起こした。
ラウルは怪訝に眉をひそめる。
「なぜだ」
「さあね。自分で考えたら? 何でも知ってるラウル先生」
サイファは上目遣いで視線を送り、僅かに口もとを上げた。
ラウルはムッとして言い返す。
「おまえは本当のことを言っていない」
「さあ、どうかな」
サイファは膝の上でゆっくりと手を組み合わせた。
「僕はね、自分をコントロールできる人間だよ。感情とは裏腹の態度を装うことだって可能なんだ。ラグランジェ本家の人間であれば、子供といえども、そういうことを求められる場面は多い。昔から鍛えられているんだよ」
落ち着いた口調だった。表情も急に大人びたものに変わった。鮮やかな青の瞳が、真正面からラウルを捉えている。
「まあ、持って生まれた資質もあるんだろうけどね。父上よりは世渡りが上手い自信はあるよ」
小さく肩をすくめ、悪戯っぽさを覗かせながら付言する。
ラウルにはサイファの本心が掴めなかった。表情をくるくると変え、意味ありげな言葉を重ねつつ、核心だけはかわして相手を翻弄する。サイファのよく使う手だ。いったい何のためにこんなことをするのかわからない。だが、そんなことは今さらどうでもよかった。
「質問には答えた。もう帰ってもいいだろう」
「まだだよ」
サイファは再び手首を掴んで引き留めた。先ほどよりも力が込められていた。
「いい加減にしろ」
ラウルは語調を強めて言った。
それでもサイファは引き下がらなかった。手を緩めようとしない。それどころか、はしゃいだ様子で話し掛けてくる。
「そうだ、ラウルに何かお礼をするよ」
「礼など不要だ。報酬はもらっている」
ラウルは冷ややかに言う。
「そうじゃなくて、8年間の僕の感謝の気持ち」
サイファは自分の胸もとに左手を当てて微笑む。
「おまえの感謝など受ける気はない」
「何か欲しいものはあるか?」
身勝手に話を進めるサイファを、ラウルは思いきり睨んだ。眉間に深い縦皺が刻まれる。
「少しは人の話を聞け」
「聞いているよ」
サイファはにっこりと屈託なく笑った。
ラウルは口を固く結び、再び力任せにサイファの手を振りほどいた。捲れた袖を下ろしながら、疲れたように溜息をつく。
「おまえは、なぜいつも無駄なことばかりに労力を使う」
「無駄なことほど楽しいんだよ。ラウルにはそういう潤いが足りないね」
サイファは澄ました口調で言った。
…続きは「ピンクローズ - Pink Rose -」でご覧ください。
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