瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」番外編・ボーダーライン - 妹のため

「おはよう」
「おはよう……って、え?」
 山田は自席に座りながら無意識に挨拶を返し、直後に驚いて振り向く。声を掛けてきたのは遥だった。今まで彼に挨拶されたことは皆無である。しかもあんなことがあったばかりなのに――考え込んでいると、彼は当然のように山田の隣に腰を下ろした。しかしながらそこは澪の席のはずだ。
「先生に頼んで、澪と席を替えてもらった」
 怪訝な顔をした山田に答えるように、遥はさらりと言う。
 後ろを振り返ると、きのうまで遥が使っていた最後列の席には澪が座り、集まっている友人たちと楽しそうに話をしていた。席を替えたというのはどうやら本当のようだ。おそらく妹を守りたいという気持ちからだろう。それは理解できるが、行動は何かと度を過ぎていると言わざるを得ない。
 きのうのことも――。
 つい詳細に思い出してしまい顔がカッと熱くなった。無意識のまま自分の口もとに手を伸ばし、唇に触れた瞬間、鮮明にあのときの感触がよみがえる。これまでの経験がすべて上書きされてしまったかのように、強烈な記憶となって焼き付いていた。
「ねぇ、聞いてる?」
「ひっ……!」
 ぼんやりしていると、遥が隣から少し怒ったような顔で覗き込んできた。そのあまりの近さに驚き、思わずのけぞり椅子ごと倒れそうになったが、遥がとっさに受け止めて元に戻してくれた。
「自分が怪我人だって自覚あるわけ?」
 呆れたように言われたが、別に好きでのけぞったわけではない。いったい誰のせいなのかと言いたくなる。しかし彼に受け止めてもらわなければ、手をつくこともできずに転倒していたのは事実だ。下手をすれば、別のところも骨折していたかもしれない。
「悪かったな……ありがとう……」
「その腕が治るまで僕が面倒を見るから」
「はっ?」
「何でもしてあげるって、言ったよね?」
 遥はそう言い、艶のある薄い唇をゆるやかな弧の形にして、意味ありげにうっすらと笑みを浮かべる。その言葉に、その表情に、その唇に、山田はゾクリと背筋が震えるのを感じた。

「今日のノートのコピー」
「悪いな、橘」
 放課後になるとすぐに、遥は職員室でノートのコピーを取ってきた。今日の授業で彼が書いたものである。差し出されたその束を受け取ろうとしたが、彼はなぜかしっかりと持ったまま手を離さなかった。
「橘じゃなくて、遥」
「えっ?」
「ややこしいから遥って呼んで」
 クラスに橘が二人いるので、確かにややこしいといえばややこしい。彼が友人たちに遥と呼ばれているのは知っているが、その名前を意識したのは初めてである。顔や外見だけでなく名前も女の子みたいだな、と彼に知られたら機嫌を損ないそうなことを密かに思う。
「じゃあさ、俺のことも下の名前で呼んでくれよ」
 山田という姓はクラスで自分ひとりだけなので、下の名前で呼ばせる必然性はない。彼のことを名前で呼ぶのなら、自分のことも名前で呼んでほしい、ただ単純にそう思っただけである。一瞬、彼は何か思案していたようだが、すぐに無表情を保ったまま口を開く。
「名前は何?」
「圭吾」
「わかった、圭吾だね」
 確認するように復唱すると、机の横にかけてあった山田の学生鞄を取り、いったん手渡したコピーをその中にしまう。片手の不自由な山田にとっては、そんな些細なことでもありがたい。しかし、彼はしまい終えたその鞄を脇に抱えると、もう一方の手で自分の鞄を手に取って言う。
「じゃ、帰るよ」
「ちょっ……」
 二つの鞄を手にしてスタスタと歩き出した彼を見て、山田は慌てて立ち上がり、そのあとを小走りで追いかけていく。
「自分の鞄くらい自分で持つって」
「遠慮しなくていいから」
「自分で持たないと落ち着かないんだよ」
「そう?」
 必死に訴えると、遥はどうにか山田の学生鞄を返してくれた。ほっとして左手に提げる。いくら何でも鞄持ちまではやりすぎだ。両手が使えないのならまだしも、片手は何の問題もなく使えるのだから。
「じゃあな」
 校門を出たところで別れを告げた。これまでに何度も帰るところを見ていたので、遥の家が逆方向であることは知っている。もっとも、山田が見ていたのは遥ではなく澪の方だが。当然ながら兄妹なので同じ家に住んでおり、どちらかに日直などの用事があるとき以外は、たいてい友人たちも含めて一緒に帰っているようだった。
 しかし、遥は山田の家の方へ足を進めた。
「おい、たち……遥、おまえの家はあっちじゃないのか?」
「圭吾を家まで送るんだよ」
「いやいやいや、骨折したのは脚じゃなくて腕だからな?」
「送る必要はないだろうけど、僕が送りたいから」
 前を歩いていた遥はそう答えて振り返ると、ちょこんと小首を傾げる。
「駄目?」
「あ、いや……」
 澪とまったく同じ顔で可愛らしくそう尋ねられては、何も言えなくなる。男であることはわかっているはずなのに。そして、度が過ぎた世話焼きを不気味に感じているのに。何か企んでいるのだろうか――その場に立ちつくしたまま眉を寄せて考え込んでいると、彼に手首を引っぱられた。
「帰るよ」
「……ああ」
 結局、問いただすことも断ることもできず、彼と並んで自宅まで帰ることになった。

 それから一週間。
 学校にいる間だけではあるが、遥はどこへ行くにも何をするにも山田に付き添った。ノートのコピーも毎日欠かすことなく渡してくれる。帰りも反対方向なのに家の前までついてきてくれる。恥ずかしいが給食を食べるのも手伝ってくれたりした。
 ただ、いまだにあまり打ち解けたとはいえない状況だ。彼から雑談を話しかけてくれることはないし、こちらから話しかけても反応はそっけない。それでも今ではだいぶ慣れて、気まずいと感じることは少なくなっていた。むしろ心地良いとさえ感じるようになっていた。

「今日もそいつと帰るのか?」
 放課後、日直で残っていたクラスメイトの富田が、席に座っていた山田を顎でしゃくりながら、ノートのコピーをとって戻ってきた遥に尋ねた。富田は遥たちといつも一緒に帰っていた友人のひとりだ。遥は無表情のまま山田にノートのコピーを手渡しつつ答える。
「腕が治るまではそうするつもり」
「何もおまえがそこまでしなくてもな」
「やりたくてやってるだけだから」
「澪が怪我させた責任からだろ?」
 山田はビクリとする。
 この骨折が澪によるものだということは言わない約束になっていた。澪の側も、山田の側も、知られたくないという互いの利害が一致したためだ。遥はきょうだいなので知っていて当然だと思ったが、なぜ富田まで知っているのだろうか。
「詳しいことは聞いてないけど、わざとじゃなくて事故だって言ってたし、家まで送る必要はない気がするんだよなぁ」
 どうやら骨折に至った経緯までは知らないようで、密かにほっとしていると――。
「おまえもそう思うだろ?」
 ふいに富田に話を振られた。
 家まで送る必要があるかと言われればまったくない。山田自身も最初は断ろうとしていたくらいだ。なのに、なぜだかそう答えることができなかった。せめて何か言葉を返さなければと焦るものの、頭が真っ白になってしまい何も思いつかない。しかし――。
「余計なお世話だよ」
 遥が溜息まじりにそう言い捨てた。そして、机に置いてあった山田の鞄を掴むと、行くよと声を掛けてすたすたと歩いていく。山田はコピーの紙束だけを持って立ち上がり、小走りでそのあとを追いかけていった。教室を出て行く間際にちらりと後ろを見やると、富田は黒板消しを持ったままきょとんと立ちつくしていた。

「帰るよ、圭吾」
「おう」
 骨折をしてから三週間が過ぎた。
 遥はずっと変わることなく山田の世話を焼いてくれていた。帰りも家の前まで送ってくれる。途中で本屋やCD店に寄っても嫌がらずについてきてくれた。相変わらず会話はあまり盛り上がらないものの、時折ふっと笑みを浮かべてくれることもあり、ずいぶんと距離が縮まったように感じていた。
 けれど、この時間も今日が最後になるかもしれない。
「……遥」
「何?」
 隣を並んで歩いていた彼は、少し顔を上げて漆黒の瞳でじっと見つめてきた。この仕草にはいつもドキリとさせられる。次第に顔が熱を帯びていくのを感じながら、微妙に視線を外して言葉を継ぐ。
「あのな、俺、あしたギプス外せるかもしれない」
 明日、病院で検査をして問題がなければギプスを外すことになっている。途中経過も順調だったのでほぼ大丈夫だろうということだ。
「そう、よかったね」
「ありがとうな」
 山田は多少の照れくささを感じながらも、率直に礼を述べる。
「今まで遥がいてくれたおかげで本当に助かった。おまえのノートすごくきれいで見やすかったし。あ、ノートだけじゃなくて……えっと……」
 上手くまとまらず言いよどむが、遥は意を汲み取ってくれたように小さく微笑んだ。彼のこんな顔を知っている人は少ないんだろうな、と思うと無意識のうちに優越感が湧き上がってくる。
 しかし、これからはいつも一緒というわけにはいかない。
 骨折が治ってしまえば、彼がこうやって自分に付き添う意味はなくなる。だとしても、彼との関係は断ち切りたくなかった。ときどきはこうやって一緒に帰りたいし、話をしたいし、笑顔を見せてほしいと願っている。彼も同じ気持ちだと信じたい。
「なあ、今日ウチに寄っていかないか?」
「僕は帰るよ」
 家の近くまで来たところで勇気を出して誘ってみたが、あっさりと断られた。寄っていたら遅くなると思ったのだろうか。財閥の息子なので門限が厳しいのかもしれない。
「いつか、休日でもいいから来てくれよな」
「そうだね」
 彼は愛想のない声で答える。本当にそう思っているのかは今ひとつ定かでないが、しつこく追及するのも憚られ、彼の横顔を見つめながら来てくれるよう祈るしかなかった。

 月曜日――。
 山田はいつもより幾分か早めに学校へ行き、席についた。その腕にギプスはない。土曜日に病院で無事にギプスが外されたのだ。感覚はまだ完全には戻っていないが、もう字も書けるし、ほとんどのことは自分ひとりでできる。これでもう遥の助けは必要なくなった。
「おはよう、圭吾」
「ああ……おはよう……」
 あとから登校してきた遥にいつものように挨拶され、少し緊張しながら挨拶を返す。ギプスが取れたことを報告しなければと思ったが、なぜか口が固まったように動かなかった。しかし、当然ながら遥は言わずとも気付いたようで、席に着くことなく横から山田を覗き込んできた。
「腕、大丈夫?」
「もう何ともない」
「そう、よかった」
 遥はそれだけ言うと、鞄を置いて澪たちの集まっているところに向かった。
「あ……」
 山田はその後ろ姿を目で追いながら情けない声を漏らしただけで、それ以上は何も言えなかった。自分には引き留める権利などない。久しぶりに昔からの友人たちの輪に入り、話をしている彼は、とても自然に馴染んでいるように見えた。

 その日以降、遥の態度は骨折以前のものに戻ってしまった。
 まるで、あの三週間が存在しなかったかのように。
 夢でも見ていたのかと思うくらいに。
 一緒に帰ることはもちろん、名前を呼ばれることも、話をすることも、目を合わせることすらなくなった。意識的に無視しているというよりは、意識さえしていないといった感じだ。何の接点もないただのクラスメイトに逆戻りである。数日後の席替えで席も遠くに離れてしまった。
 すっかり忘れていたが、遥が山田の世話を焼いていたのは妹のためだったはずだ。山田がまだ彼女を諦めていないとわかったので、責任を感じている彼女の代わりに世話を買って出たのだろう。どこへ行くにもついてきたのは、もしかすると彼女に近づかせないためだったのかもしれない。
 しかし、たとえきっかけはそうであったとしても、三週間も一緒にいて少しは仲良くなれたと思っていた。笑顔だって見せてくれていた。なのに――彼が何を考えているのまるでわからない。自分から声を掛ければ良かったのかもしれないが、気のせいか冷ややかな拒絶を感じて、その勇気が持てなかった。
 もちろん他に友達がいないわけではない。けれど、誰といても無意識に遥を目で追っていた。自分でも少し異常だと思うくらいに。どうして彼にこれほどまで執着するのか、彼に何を求めているのか、よくわからなくて微妙な心持ちになる。それでも渇望が薄れることはなかった。
 しかし、結局ほとんど喋ることも叶わないまま、二年生になって別々のクラスになった。


…これまでのお話は「東京ラビリンス」でご覧ください。

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