瑞原唯子のひとりごと

「遠くの光に踵を上げて」第70話 親子のかたち

「うそつき!」
「そうだよ、ジーク。ひどいよ!!」
 アンジェリカとリックは口々にジークを責め立てた。
「違っ……」
 言葉に詰まり、反論すらできないジークに、ふたりは冷淡な目を向けた。
「こんなヤツのこと、もう忘れなよ」
 リックはわざとらしくため息をついた。
「言われなくても忘れるわ」
 アンジェリカはつんと顔をそむけ、不機嫌に言い捨てた。そして、リックと腕を組むと、ふたりで笑いあいながら去っていった。
「待て! おいっ! おいっ!!」
 引きちぎれるくらいに強く腕を伸ばすが、なぜか足は石のように動かない。追いかけたいのに追いかけられない。みるみるうちに、ふたりの姿は小さくなっていった。
「ジーク、君には手を引いてもらうと言ったはずだ」
 威厳に満ちた、腹の底に響く低音。どこからともなく男が現れた。ラグランジェ家の先々代当主だ。
「我々はリックを正式な後継者と認めた」
「なっ……」
 ジークは目を見開いた。額から汗が流れ落ちる。男は静かに言葉を続けた。
「君も男なら、潔く諦めろ」
「う……嘘だ!!」
 ジークは自分の叫び声で目を覚ました。心臓が痛いくらいに激しく強く打っている。自分の鼓動の音が、自分自身ではっきりと感じとれた。
「……夢……か……」
 見なれた天井の木目を目にし、ようやく状況を把握した。途端に体中から力が抜けた。大きく息をつき、吹き出した額の汗を袖口で拭った。
 ――まったく、何て夢だ。
 きのうの出来事が影響しているのは間違いない。自分の不安な気持ちがあんな夢を見せたのだろう。ただの夢だ――。懸命に自分に言い聞かせた。

 ジークは冴えない顔で、のっそりと体を起こすと、よろよろ階段を降りていった。
「おはよ、ジーク。やっと起きたのね」
 聞きなれない女性の声が、彼を出迎えた。
「へ?」
 ジークは間の抜けた声を上げ、振り向いた。そして、唖然として固まった。口を開けたまま声も出ない。
「ごはん、まだなの。もう少し待ってね」
 再び彼女が声を掛けた。ジークははっとして我にかえると、慌てふためきながらあたりを見回した。間違いなく自分の家だ。もういちど声の主を見る。エプロン姿の彼女は、じゃがいもの皮を剥きながらくすりと笑った。
「おまえ、セリカ……か?」
「そうよ」
 ジークは半信半疑で尋ねたが、彼女は当然のように肯定した。彼はますます混乱した。まだ夢の続きではないかと疑った。思わず頬をつねり確かめてみた。痛みを感じる。夢ではないようだ。わけがわからないといった顔で、唸りながら額を押さえる。
「ちょっと待て。なんでおまえがウチの台所で料理してんだ」
「私がお願いしたのよ」
 隣の部屋で、母親のレイラが声を張った。彼女はダイニングテーブルで、マグカップを片手にくつろいでいた。セリカと視線を交わすと、意味ありげに笑いあった。
 ジークはいまだに状況がさっぱり把握できないでいた。落ち着きなく、母親、セリカと何度も交互に目を向ける。このふたりは知り合いでも何でもないはずだ。なのにどうして――。
 狐につままれたような顔をしている息子を見て、レイラは耐えきれずに吹き出した。
「リックと彼女がウチの前を通りかかったから呼び止めたのよ。パンクしたままだった自転車を修理してもらおうかと思って」
 ジークはようやく合点がいった。しかし――。
「リックはまだいいにしても、なんであいつに昼メシ作らせてんだよ」
 セリカを指さし、呆れ口調で尋ねる。
「ただ待ってもらうのも何だから、ついでにお願いしちゃった」
 年甲斐もなくかわいこぶる母親に、思いきり眉をひそめた。
「ったく、その図々しい性格、なんとかならねぇのかよ」
「人のこと言うまえに、そのカッコなんとかしたら? レディの前でみっともない」
 レイラはすまし顔でそう言うと、お茶を口に運んだ。
 ジークははっとして自分を見た。着古しすぎるほど着古したよれよれのパジャマ。その前のボタンを半分以上はずし、だらしなく胸をはだけさせている。髪も寝癖でぼさぼさになっていることは、容易に想像がつく。
「それを早く言えよ!」
 ジークはカッと顔を赤くして、あわてて二階へと駆け上がっていった。
「顔も洗って来なさいよー」
 レイラは淡々と追い打ちをかけた。
 セリカはそんなふたりのやりとりがおかしくて、くすくすと笑った。

 ジークは一応の身支度を整えると、再び階段を降りていった。ふいにごはんの炊きあがる匂いが鼻をくすぐる。その瞬間、忘れていた空腹を思い出し、急に体から力が抜けるように感じた。ふらつきながら台所に目をやると、リックとセリカが湯気の立ちのぼる鍋をはさみ談笑していた。
「おはよう、ジーク」
 リックは彼に気がつくと、にこやかに挨拶をした。いつもと変わらない穏やかで人懐こい笑顔。ジークは、一瞬、今朝の夢が頭をよぎった。だが、この光景を見ていると、あれはやはりただの夢としか思えなかった。
「悪りィな。なんかこき使って」
「まあ、いつものことだし」
 リックはそう言って笑った。ジークはますます申しわけない気持ちになった。
「リックは手先が器用だから助かるわ。ジークと違って」
 当のレイラはほおづえをつき、呑気にそんなことを言っている。まるで悪びれる様子もない。ジークは腕を組み、白い目を彼女に向けた。
「ジーク、あれからどうしたの? アンジェリカとはあのまま?」
 リックは声をひそめて尋ねた。ジークは途端に顔を曇らせた。
「……ああ」
 沈んだ表情で、沈んだ声を落とす。
「なに、なに? ケンカでもしたの?」
 地獄耳のレイラは、脳天気にはしゃぎながら首を突っ込んできた。
「おまえは黙ってろよ」
 ジークは苛立ちをあらわにした。
「これ、言おうか迷ってたんだけど……」
 リックはそう前置きをして、ジークの目をまっすぐ見つめた。ジークはごくりと唾を飲み込んだ。
「アンジェリカ、すごく悩んでるよ」
「ん? ああ、わかってる」
 それは、リックに言われるまでもないことだ。ジークは肩すかしを喰らったように感じた。アンジェリカが黒い髪と黒い瞳のせいで、親戚たちから蔑まれていたことは、ジークも知っていた。そのことで悩んでいることも、わかっていたつもりだ。ひょっとしたら、そんなこともわからない唐変木だとリックに思われているのだろうか。ジークは怪訝に眉をひそめた。
 しかし、リックが続けて語った話は、ジークが初めて知るものだった。
「自分だけ髪や瞳が黒いのは、遺伝子の異常じゃないかって言ってた。色素がなくて白くなるってのがあるらしくて、自分はその逆なんじゃないかって」
 ジークは腕を組んで首を捻った。
「難しいことを考えるな、あいつ……。どうなんだよ、医学生」
「え? 私?」
 料理を終え、後片づけをしていたセリカは、裏返った声で聞き返した。すぐ背後でなされているふたりの会話に、興味がないふりをしているつもりだった。が、ジークには耳をそばだてていることがばれていたのだろうか。
「おまえ以外に誰がいるんだよ」
 ジークは面倒くさそうに言った。不機嫌に口をへの字に曲げ、彼女を睨む。
「いきなり言われてもわからないけど……」
 セリカは手を拭きながら振り返った。
「役に立たねぇな」
 ジークは顔をしかめ、吐き捨てた。
「ジーク!」
 彼のあまりにあからさまな態度に、温厚なリックも黙ってはいられなかった。
 しかし、それを制したのはセリカだった。
「いいのよ、気にしてないから」
 無理に笑顔を浮かべてそう言うと、話の続きを始めた。
「色素が出来なくて、髪が白かったり瞳が赤いってのは確かにあるわよ。アルビノっていうんだけど。でも、逆は聞いたことないわね」
「アンジェリカもそう言ってたよ」
 リックは頷きながら言った。セリカは口元に人さし指をあて、斜め上に視線を流した。
「でも、たとえ突然変異だったとしても、彼女の場合、問題ないんじゃないかしら。アルビノは色素がないから、光に弱いとか健康上の問題があるけど」
 ジークは目をつぶり、腕を組むと、深く頭を垂れた。懸命に考えを巡らせる。そして、うつむいたまま薄く目を開くと、ぽつりと言葉を落とした。
「違うな」
「え? 何が?」
 リックは大きく瞬きをして尋ねた。だが、ジークは独り言のようにぶつぶつとつぶやくだけだった。
「遺伝子の異常とかだったら、あのジジイがあんなこと言うわけねぇ……」
「あのジジイって、アンジェリカのひいおじいさん? 何を言ったの?」
 リックは眉をひそめて再び尋ねた。ジークを覗き込んでその表情をうかがう。彼は考え込んだ様子で、眉根を寄せ、口をぎゅっと結んでいた。答えようという様子は見られない。
 リックはあきらめたようにため息をついた。
「僕たちに言えないんだったらいいけど、アンジェリカにはちゃんと話した方がいいよ」
 そう言いながら、椅子の上に置いてあった上着に袖を通した。セリカもエプロンを外し、代わりにジャケットを手にとった。
「おい、食ってかねぇのか?」
 リックたちが帰り支度をしていることに気付き、ジークはあわてて尋ねた。リックはにっこりと振り向いて言った。
「うちで母親が待ってるから。もともとそういう予定だったんだよ。ね」
 セリカに同意を求めると、彼女も笑顔で頷いた。
「ふたりともありがとね。また来て」
 レイラは立ち上がり、手を振ってふたりを送り出した。ふたりも手を振りながら去っていった。


…続きは「遠くの光に踵を上げて」でご覧ください。

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