瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第5話・復活した幻

「おう、おはようお二人さん!」
「……何やってんのよ、サード」
 その日は休日だった。
 朝のトレーニングを終えた澪と遥が、ジャージ姿のままダイニングに入ると、なぜか当たり前のように篤史がそこにいた。執事の櫻井が用意した洋風の朝食を、お世辞にも上品とはいえない食べ方で頬張っている。澪が両手を腰に当てて睨み下ろしても、少しも気にする様子はなく、クロワッサンをちぎりながら平然ととぼけた答えを返す。
「何って見りゃわかるだろう。あ、櫻井さん、コーヒーおかわりね」
「かしこまりました」
 橘家の人間でもない篤史に、背後に控えていた櫻井は恭しく一礼する。それを目の当たりにした澪は、少しムッとし、テーブルに両手をついて前のめりに身を乗り出した。
「櫻井さん、こんなやつ放っておけばいいんだからね」
「いえ、お嬢様。こちらの篤史様も家族同様の扱いでお世話をするよう、剛三様より仰せつかっておりますので」
「そういうこと」
 篤史は澄ました顔で目玉焼きを口に滑り込ませる。
 その勝ち誇ったような態度が、澪の癪に障った。両手を腰に当てて背筋を伸ばし、よりいっそう冷たい目になると、怒りのこもった低い声で切り出す。
「サード」
「コードネームは作戦遂行中のみだろ」
 篤史にもっともな注意をされ、澪は不愉快ながらも言い直す。
「じゃあ篤史」
「呼び捨てかよ……まあいいけど……」
 失礼は承知の上である。篤史が自分より年上であることはわかっていたが、先輩らしさは欠片もなく、どうしても敬称をつけて呼ぶ気にはなれなかった。
「どうしてウチで朝食してるのか教えてくれる?」
「きのう夜遅くまでじいさんと悠人さんにこき使われて、アパートに帰るのも面倒だったから泊まらせてもらったんだよ。じいさんはいっそここに住めって言うし、俺もそうしようかと思ってる」
「はあぁ?!」
 あまりの急転直下な展開に、澪は全力で素っ頓狂な声を上げた。
「得体の知れない男を一つ屋根の下に住まわせるなんて、おじいさまってばどうかしてるわ! 若い娘がいるのよ? 襲われるかもしれないって考えなかったのかしら!」
「いや、それ無理だから。逆に殺されるから」
 篤史は顔色一つ変えずに言い返す。その冷静さに、澪の腹立たしさはいや増した。
「そんなのわからないわよ。篤史はハッカーなんでしょう? 隠しカメラで撮った恥ずかしい映像をネタに体を要求するとか、いくらでも姑息な手段があるじゃない」
「……おまえ、変なドラマの見過ぎじゃねぇの?」
 篤史はテーブルに肘をつくと、フォークの先を澪に向ける。
「だいたい自意識過剰なんだよ。みんながみんな、おまえに興味あるわけじゃないんだぞ。まあ、スタイルいいし、顔もきれいなのは認めるけど」
「あ……ありがと」
 不意打ちのように褒められ、澪は当惑しつつも礼を述べた。
「でも、俺としては色気と知性がないと食指が動かないんだよなぁ」
 篤史はフォークをくるりと指で回してニッと笑う。
 心なしか馬鹿にされているような気がして、澪は眉を寄せた。しかし、知性はともかく、色気のなさは自覚していたので、それについては何の反論もできない。
「別に篤史に気に入られなくたっていいし……ていうか、その篤史の好みに合うのってたとえば誰? 知性と色気のある人なんて、そんなにいないと思うけど」
「わかりやすいのでいえば峰不二子」
「ああ、ってそれアニメでしょう?」
 確かにわかりやすいといえばわかりやすいが、非現実的すぎて実際のイメージが湧いてこなかった。そんな澪の勝手な言い分にも、篤史は不満を口にすることなく、じゃあ、と斜め上を見つめて考え始める。
「あっ、おまえの母親もなかなかいいな、橘美咲」
「お母さま? 色気なんて全然ないと思うけど……」
 挙げられたのは予想外の名前だった。確かに知性には文句のつけようもないが、色気となると大いに疑問である。体は華奢で小柄な方で、特に胸が大きいわけでもなく、顔も美人系というよりは可愛い系であり、峰不二子とはまるきり正反対のタイプなのだ。
 しかし、篤史はニヤリと笑みを浮かべて言う。
「お子様にはわからないんだろうなぁ、あの滲み出る色気が」
「…………」
 澪は唖然としていたが、やがて険しい面持ちになり口を開く。
「やっぱりウチに住まわせるのは危険ね。お母さまには興味津々みたいだし、何もしないなんて言っても、そのうち欲望に負けちゃうかもしれないもの」
「おまえな……」
 篤史は小さく溜息を落として、無造作にフォークを置いた。
「何でもかんでも勝手に先走って決めつけるなってーの」
「危機管理のために推測してるだけよ」
 遥には「おかしな心配ばかりしてる」とよく言われるが、澪としては起こりうる危険を真面目に考えているつもりだった。もちろん今回もそうである。だが、篤史に非難されたことで、少し言い訳がましく付け加える。
「別に篤史のことが嫌いだからじゃなくて、知り合ったばかりでどういう人なのかもよくわからないし、いろいろ疑っちゃうのも仕方ないじゃない? もっと一緒にいて篤史のことがわかってくれば、そんな人じゃないって思えるのかもしれないけど……」
 篤史とは浅沼邸のときに初めて顔を合わせ、その後、次の仕事のために何度か打ち合わせをしたくらいである。それもあくまでチームとしてであり、個人的には言葉を交わしておらず、互いの人となりがわかるほどの付き合いはしていなかった。
 しかし、何を勘違いしたのか、篤史は頬杖をついて辟易した顔で言う。
「おまえ、そんなに俺と一緒にいたいのかよ」
「なんでそうなるわけ?! 誰もそんなこと言ってないし! そっちこそ、知性も色気もないとかバカにしてるけど、本当は私に構ってほしいんじゃないの? だからわざとそんなこと言ってるんじゃない?」
 あくまで強気に応酬する澪に、篤史は片手をひらひらと振って見せる。
「冗談。おまえみたいにうるさい女の相手する趣味はねぇの。マジで付き合いたくないタイプだし。こう言っちゃ何だが、男とわかってても遥の方がよっぽどマシだぜ」
「なっ……」
 澪は絶句した。顔を赤らめながら、体の横でこぶしを震わせる。
「篤史までそんなこと言うんだっ!!」
 堪えきれずにそう感情を爆発させると、くるりと背を向け、怒りを隠すことなくズンズンと扉に向かっていく。足を踏み出すたびに、漆黒の黒髪が大きく左右に揺れた。
「おーい、朝食しに来たんじゃねぇの?」
「先にシャワー浴びて頭ひやしてくる!」
 澪はドアノブに手を掛けて振り返り、呑気な声を投げる篤史をキッと睨みつけて言った。後ろ髪を引かれつつも、朝食の匂いの立ちこめるダイニングをあとにする。根性の足りない正直なおなかが、ぐぅ、と小さく音を立てた。

「他のヤツからも言われたのか?」
 澪が出ていくのを見送ったあと、篤史は二杯目のコーヒーに手を伸ばしながら、無表情で立ったままの遥に尋ねた。澪が口にした「篤史“まで”」という言葉に対する疑問なのだろう。遥は、隣に腰を下ろして答える。
「学校で男子によく言われてる」
「なるほどな」
 小さく笑ってそう言う篤史に、遥はじとりとした視線を流す。
「僕と違って澪は何でもすぐ本気にするから、からかいたくなる気持ちはわからないでもないけど、あんまり苛めないでくれる?」
「努力しまっす」
 篤史は微塵も努力しなさそうな軽薄な笑顔で答えた。しかし、ふと真面目な顔になると、近くの折り畳まれた新聞に手を伸ばし、それをバサリと広げて遥の前に置く。
「それよりこれ見たか?」
 彼が何を指して言ったのかは、よく見るまでもなく一瞬でわかった。
「予告状?」
「らしいな」
 先日、剛三が予告状の重要性について熱く語っていたことがあり、何か予感はしていたが、いきなりここまで大仰なことをやるとは思わなかった。あらためて紙面に目を落として黙読する。

 本日、夜9時
 高杉近代美術館の「湖畔」を戴きに参上します
 ――怪盗ファントム

 その文章が、全国紙である毎朝新聞の中一面に大きく掲載されていた。どうやってこれを掲載したのかはわからない。まさか普通に広告掲載依頼を出したりはしないだろう。しかし、悠人が手配したのであれば抜かりはないはずだと思う。
 ただ、別の意味で少し心配になった。
「慣れないうちから、こんなに派手にやって大丈夫なのかな」
「ま、準備は万全に整えてあるけどな」
 篤史は涼しい顔でそう言うと、椅子の背もたれに体重を預けながら、湯気の立ち上るコーヒーを口に運んだ。
 篤史や悠人の仕事ぶりには、遥も一目置いている。だが、重要な役割を担うのが不慣れな澪である以上、想定外の事象に対処するのは難しく、そのことを考えるとやはり不安は拭いきれなかった。

「せっかくの休日なのに……こんなにいいお天気なのに……なんで犯罪の打ち合わせなんかやらなきゃいけないのよぅ」
 安っぽい会議机に両手を投げ出して突っ伏したまま、澪は恨み言を口にした。薄いレースのカーテンの向こう側には、澄みわたった秋晴れが広がっている。外はさぞかし爽やかで気持ち良いだろうと思う。
「遊びに行きたいよぅ」
「グチグチうっせーぞ」
 隣に座る篤史が、資料に目を落としながら冷ややかに言った。
 澪は口をとがらせる。
 今日は澪と誠一の休日が重なる貴重な日である。本来であれば、ずっと誠一といられるはずだった。久しぶりにどこかへ遊びに行きたいと思っていた。なのに、嫌々やらされている怪盗ファントムのために、その楽しみを潰されてしまっては、多少の文句をこぼしたくなるのも当然だろう。
 もっとも、兄の遥以外はそんな事情を知るよしもない。恋人がいることさえ言っていないのだから――。

「待たせたな」
 しばらくして、剛三がにこやかに右手を上げて書斎にやってきた。いつものように悠人を従えている。すでに集合時間を10分ほど過ぎていた。時間厳守を命じた張本人が遅れてきたことに、澪はムッとして眉を寄せたが、言っても無駄だろうとあえて抗議はしなかった。
「いよいよ今日が二代目ファントムのデビュー戦だ」
 剛三は机の上で両手を組み合わせて静かに言う。
 厳密にいえば前回の浅沼邸がデビュー戦となるが、剛三としては、やはりあれは実地研修という位置づけのようだ。浅沼も後ろめたさからか警察には届けなかったようで、世間的には事件は認知されておらず、そういう意味では今回がデビュー戦といっても間違いではないだろう。
「皆、準備はできておるな?」
「一応、特訓はしてきました」
 澪は三日間の山ごもりについて控えめに答えた。しかし、指導役の悠人からすでに報告を受けていたのか、剛三は結果を尋ねることなく、たいそう満足そうに大きく頷いて言う。
「私の見込みに間違いはなかったようだな。澪、おまえならすぐに習得できると思っておったぞ。幸いにも今日は天候が良く、風も強くないので、さっそく成果を披露してもらうとしよう」
「あの、本当にやるんですか?」
 冗談であってほしいと願いつつ、澪はおずおずと尋ねる。
「目立って格好良かろう」
「別に目立ちたくないし」
「目立たねば怪盗の意味がないだろう。何度言えばわかるのだ」
 剛三はいかにも当然のように説教する。いいかげん彼の考えはわかっているものの、やはり釈然とはせず、澪は、はぁ、と溜息とも相槌ともつかない曖昧な吐息を落とした。
「遥には本当にすまないと思っておる。せっかくのデビュー戦にもかかわらず、おまえの見せ場を作ってやれなくて。いずれ、どんと派手なのを用意するので待っておってくれ」
「いや、むしろ要らないから」
 剛三の独りよがりな心遣いを、遥は冷ややかに一刀両断した。
「そう言うでない。みな楽しみにしておるのだからな」
「意味がわからないんだけど」
 うざったそうに仏頂面で突き放しても、剛三たちはそろって笑顔を浮かべ、特に篤史は思わせぶりにニヤニヤしている。遥の活躍を見たいというよりも、単に女装させたいだけなのかもしれない。遥も大変だな、と澪は苦笑しながら少し同情した。


…続きは「東京ラビリンス」でご覧ください。

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